夜の蝶 壁の花
高らかに鳴り響く鐘の合図と共に祝賀会の開催が告げられた。その音頭を取ったのは、王族ではなく、要職にある上級官吏とのことだった。こういった夜会を取り仕切る立場にあるらしい。
その後、間を置かず室内には楽師たちが奏でる軽やかで繊細な旋律が流れ出した。宮廷内のお抱え楽師たち、若しくはこの日の為に用意された楽団による生演奏が始まった。横笛、縦笛、グースリ、バラライカ、ガルモーニカ、バラーニ、その他の大小の弦楽器など楽師たちの手にする楽器は色々だった。
給士が参加者全員に配った小さな乾杯用のグラスに形通り口を付けてから、リョウは、しっとりとした柔らかな曲を耳にしながら、広間中央へ集まりつつある人々に目を向けた。
その場所には着飾った招待客の男女が集まり、踊りの輪が生まれつつあった。踊りというと四カ月ほど前のスフミ村の収穫祭の時のものを思い出したが、こちらはあの時のものとはかなり趣が違っていた。それも当然だろう。片や庶民のお祭り。片や貴族の社交界。それが開かれる場所も目的も全く異なり、両者に流れる空気はかなり違う。
スフミ村ではさんざめく囃し声の中、高らかな歌声とテンポの速い調子に乗せて賑やかに輪舞が行われた。軽やかで、時には軽薄過ぎるほどの楽しい曲のはずなのにどことなく哀愁の漂う音階を紡ぐ不思議な旋律だった。賑やかでどこか猥雑さすら感じる空気。笑い声や下卑ただみ声の混じる庶民の踊りだった。
一方、この宮殿の大広間で始まっている踊りは、曲調もゆったりとして洗練されており、上品ですらあった。踊りの調子も随分と違う。こちらは男女が組みになって踊る形が基本のようだ。
だが、両者ともに若い男女の出会いの場であることには変わりがないのだろう。
踊りは男性側の方から申し込むのが通例らしい。広間の辺縁部では踊りたい男女が相手を探し、組み合わせが出来た所から中央の輪に加わって行った。
端の方には、簡単に摘める軽食の類が長いテーブルの上に並べられ、踊りの輪に入らない人たちは皿やグラスを片手におしゃべりに興じていた。同じ黒い制服に身を包んだ給士たちが、飲み物の入ったグラスの乗ったお盆を手に招待客たちの間を器用に回っていた。
前奏のような曲から調子が変わった所で、ごく自然に男性は女性を誘い中央に集まって行った。流れるような優雅な曲調に合わせて手を取り合い身を寄せ合って男女が広間をくるくると軽やかにステップを踏んで行く。仲睦まじい夫婦、初々しい恋人たち、どこかぎこちないながらも互いを意識している若い男女。好みの女性を熱心にかき口説いている男。意中の男性に零れんばかりの笑みを浮かべている若い女。女たちが身に纏う色とりどりのドレスの裾が足さばきに合わせて揺れている。そこは、様々な物語が生まれ紡がれる空間だった。
今回、主役に当たるユルスナールは、案の定、様々な人から祝いの言葉を掛けられ、その応対に忙しくしていた。団体戦に出た第七の兵士たちも似たり寄ったりの感じだ。ブコバルは早速、好みの女性ー豊満な肉体を持った妖艶な女だーを誘って踊りの輪の中に入って行った。そして他の兵士たちもここぞとばかりに踊りに誘い誘われては恭しく淑女の手を取っていた。
シーリスは、招待客の中にいた姉だという女性に声を掛けられていた。レヌートの奥方だというその女は快活そうな朗らかな女性で、リョウも紹介されて挨拶をした。レヌートに世話になっていることを多大なる感謝の気持ちを込めながら告げれば、奥方もレヌートの方からリョウのことを聞き及んでいたらしい。その後、少し話をしないかと誘われたのだが、シーリスは姉と会うのは随分と久し振りらしく、姉弟水入らず積る話もあるだろうと遠慮をした。そして、仲睦まじくテラスの方へ出て行った姉弟の後ろ姿を温かな気持ちで見送ったのだ。
そんなこんなで気が付いたらリョウは一人になっていた。視界に入る所にいたシビリークス家の人々も其々踊りの輪に入ったり、知り合いに話掛けられて忙しそうにしていた。
リョウは少し調子の早くなった楽曲に合わせて広間を優雅に回転しながら踊る男女の流れを眺めながらゆっくりと息を吐き出した。漸く、この場の空気と煌びやかな空間に目が慣れてきたような気がする。気持ちは、ここにある軽やかな空気に感染するように高揚していた。
やはりここは非日常の世界だった。にこやかな笑みを振りまいている美しく着飾った女性たち。楽しくて仕方がないという嬉しさが内側から滲み出るようにして表情に表れている。艶やかに上がる口角に輝かんばかりの瞳。踊りの輪の中にいる人たちは皆、きらきらと輝いて見えた。形は異なれども、純粋な人の在り方はここでも変わらない。
そこから少し視線を転じて、様々な年齢の男女に囲まれ埋もれているユルスナールは、遠目にも実に堂々としていた。気後れをするような様子は微塵もない。場慣れしているというよりも自然体だ。やはり昔からこのような空気感の中に身を置いてきたのだろう。リョウとしては、なにはともあれ、この場の空気を肌で感じることが出来たのは収穫だった。
だが、同時に別の意味で、ユルスナールの妻になるということはこのような中に自分から入っていかなければならないことを思い知ったのもまた事実だった。ユルスナールは今はまだ北の砦に赴任をしているが、いつまでも辺境で燻っている訳ではないだろう。やがて王都に戻るか、別の都市に派遣されることになるのかもしれない。軍部では四・五年に一度の割合で人事異動と人員の配置換えが行われるとのことだった。その地域の有力者や地元の名士たちとの癒着を防ぐ為でもあるらしい。ユルスナールは北の砦に赴任してからもうすぐ四年になるとのことだった。いつぞやのシビリークス家での夕食の席で聞いた話を思い出していた。
新しいことを始めるには不安が付きまとうが、リョウは自らの意思で選んだこの選択を後悔する積りはなかった。それに残されている時がどれほどかも分からないままなのだ。一々迷い、足踏みをしている暇はなかった。終わりを意識したら前には進めない。しっかりと前を向いて出来る限りのことをしたいと思った。様々な欠点を抱えながらも漸くこの国で術師としての認可を得たのだ。そして、様々な不確定要素と限界がある中で、自分を選んでくれたユルスナールの想いに応える為にも、これまでに得た恩を少しでも返して行きたいと思っていた。
喉の渇きを覚えたので、リョウは飲みものをもらおうと給士を探した。生憎、背筋の伸びた黒い制服は近くには見当たらなかったが、軽食が並んでいるテーブルの方でグラスを並べている男の姿が見えたので、そちらに歩いてみることにした。
壁側に沿って、リョウは広い室内をゆっくりと歩いて行った。気持ちだけをみればそれなりにここの空気に身体が馴染んできていた。これもユルスナールやシーリスたちのお陰かもしれない。当初のような妙な緊張感はないが、常に見られているという意識はあった。
背筋を伸ばし高いヒールを器用に捌いて歩く。濃紺の滑らかな服地が歩調に合わせて揺れた。肌に吸い付くようなしっとりとした質感は健在だ。
踊りの輪には加わっていない男たちが意味深な目配せをしてくる。何故か、男たちとはよく視線が合った。その都度、リョウは社交辞令的な当たり障りのない微笑みを返していた。やはりここでも顔立ちの違う自分は悪目立ちしているのかも知れない。そんなことを思った。
壁側でにこやかに談笑している軍服に身を包んだ兵士たちの前を通った時、進路を塞がれるように前に人が立った。顔を上げると、詰襟の制服を隙なく着込んだ上品な顔立ちの男がにこやかな甘ったるい感のある微笑みを浮かべていた。
「このような所に夜の精が迷い込んでいたとは。フセェミール王の御代以来の幸運ですな。美しいお嬢さん、もしよろしければ私と一曲、踊っては頂けませんか?」
歯の浮くような大げさな台詞にリョウは内心、可笑しさを堪えながらも少々困ったように微笑んだ。
「お誘いは有り難いのですが、申し訳ございません。ワタクシ、踊れませんの」
夜会には踊りは付きものだとユルスナールから聞かされた時、リョウはやはりそうかと自分の予想が正しかったことを知った。勿論、そのような踊りなど知らないし、踊れる訳もない。貴族の婦女子ならば、最低限の教養として踊れることが淑女たる最低条件とされるのだろうが、自分は違う。スフミ村の時は、アクサーナの姉エレーナの双子の子供たちに教わって見よう見真似で踊りの輪に入ってみたが、ここではそういう訳にはいかないだろう。どんちゃん騒ぎの余興とは違うのだ。
リョウは、その懸念をユルスナールに話したのだが、心配することはないと軽く笑い飛されてしまったのだ。無理に踊る必要はない。そのような誘いに乗る必要もない。興が乗らなければ女性側が断るのは普通のことであるらしかった。今回は見学する積りで見ていればいい。必要ならば後で踊れるように練習をすればいいだろう。その時は勿論自分が相手をすると言ったのだ。だから、リョウとしては後学の為にもどのような踊りがあるのかをちゃんと見ておこうと思っていたのだ。
正直に告げたリョウに男はあからさまにがっかりした顔をした。断られると思ってはいなかったのかもしれない。往々にして貴族の男たちは皆、自信家な所がある。
「もしよろしければ、私がお教え致しましょか? これでも踊りは得意でしてね。コツを掴めば簡単なものですよ?」
矛先を変えて言い募った男にリョウは微笑みながら緩く首を否定の意味を込めて振った。
「いいえ。お気持ちは大変有り難いのですが、今回は止めておきます。みっともないことになってしまうでしょうから。きっとご迷惑をお掛けしてしまいますわ。次回、もし機会がありましたらお願い致しますわ」
「それは残念ですな」
「では、我々と少しお話を致しませんか?」
踊りの誘いを体よく断れたと思った矢先、傍にいた他の兵士たちから声が掛かった。襟の徽章の色は水色をしている。ということは第一師団の兵士たちなのだろう。彼らは近衛の精鋭部隊だ。その出身も貴族が多いと聞く。このような場所は彼らの得意とする分野なのだろう。
「ああ、それは良いね」
リョウが口を開く前に先に踊らないかと誘った男が乗って来た。
「いえ、あの、飲み物を取りに行く途中でしたので」
と男たちの誘いをさり気なく断ろうとしたのだが、
「ああ、これは失礼。我々としたことが。おい、君」
リョウが口を開くより早く、その内の一人が実にそつなくお盆を手に招待客の間を回っていた給士の男を呼び止めて、気が付いた時にはリョウの目の前に綺麗な色をしたカクテルのようなソーダ水が並んでいた。
ちらりと給士の男を見遣る。
さぁどうぞ。どれでもお好きなものを。無言のまま、だが、雄弁な眼差しで給士の男が語った。
同じように壁際にいた兵士たちを見れば、促すようににこやかに微笑まれた。
仕方がない。こうなれば早い段階で話を適当に切り上げるしかないだろう。リョウは腹を括ると方針転換をして小さな泡を発生させているグラスを一つ手に取った。
「新しい出会いを祝して」
「麗しいお客人の為に」
「この特別な一夜の為に」
「今後の繋がりを祝して」
同じようにアルコールの入ったグラスを手に取った男たちが、口々に乾杯の音頭を上げてから盃を干した。
「ご親切な皆さんの為に」
リョウも同じように口にしてからグラスに口を付けた。一口、口に含んで思いの外、強い刺激に驚いた。予想していたよりもアルコールの度数が高い。これは気をつけなければならないとリョウは密かに思った。
自分ではそうでもないように思っていたのだが、いつぞ「酔っ払うと性質が悪い」とユルスナールに笑われたのだ。あれは武芸大会の最終日、お祝いをしようということで馴染みの店に繰り出した夜のことだった。リョウの中では楽しかった記憶しかないのだが、ユルスナールに言わせればヤルタに絡んで困らせていたと言うことだった。暗に酒癖が悪いと窘められたような気がして、気の置けない相手ならば少し羽目を外しても許されるだろうが、初対面の相手には気をつけなければならないと思ったのだ。
「ああ、それは少しきつかったかもしれませんね」
リョウの反応に目敏く気が付いた男が、柔らかく微笑んだ。淡い茶色の髪を後ろで緩く束ねている。目尻が下がり気味の優しい面立ちをした男だった。
「この国の酒は周辺諸国に比べると濃度の高いものが多いですからね。ご婦人方は気を付けなければなりません」
顔立ちから直ぐにこの国の人間ではないことが知れたのかもしれないが、その隣で少し生真面目そうな雰囲気の男が小さく微笑みのようなものを口の端に浮かべながら首を傾けた。そうすると少し長めの緩い癖の付いた灰色の髪が頬桁に掛かった。
「ですが偶には良いでしょう?」
少し険のある吊りあがり気味の瞳をした男が片目を瞑った。見かけによらずその仕草は人懐っこい。
「日常に適度な刺激は必要ですからね」
初めに声を掛けてきた甘い優男風の男がそう締め括った。
「そうかもしれませんね」
リョウも同意をするように微笑んでいた。
四人の男たちは皆、紳士的で洗練された空気を身に纏う男たちだった。口では上手く言い表せないのだが、第一師団長のマクシーム・フラムツォフと同じような匂いがすると思った。
「皆さんは第一師団の方ですか?」
「ええ」
「先程仕事を終えたばかりで、偶々こちらに顔を出してみたのですよ」
「我々は運がいい」
「ああ。あなたのような素敵な女とお会いできたのですからね」
「まぁ、こちらの殿方は本当にお上手なのですね。うっかり信じてしまいそうになりますわ」
苦笑を漏らしたリョウに、吊りあがり気味の瞳を持った男が些か傷ついた顔をして、その口元に微かな笑みを浮かべた。それすらも演技であるのかもしれない。
「あなたのような美しい人を前に我々が軽薄な言葉を口にできるとお思いですか?」
「ふふふ。どうでしょう? 何を美しいと感じるかは、人それぞれですもの。そこにワタクシが入るとは思えませんわ」
ユルスナールではあるまいし。この国の女性の美しさに慣れているこの国の男たちには、自分は異質にしか映らないだろうと笑い飛ばせば、
「おや、あなたはご自身を分かってらっしゃらない」
「ええ、それはいけませんね」
淡い茶色の髪を後ろで緩く束ねた男が肩を竦めた隣で、生真面目そうな男も友の言葉を肯定するように合槌を打った。
「我々が教えて差し上げましょうか?」
三体一ではどうにも分が悪い。三人の男たちからの口説きを持て余していれば、
「ああ。それはいい。折角ですから、我々ともう少し親密になってみませんか?」
初めに声を掛けてきた男がリョウの傍に寄ると耳元で囁いた。
不意に色を変えた空気には敢えて気が付かない振りをした。
「その必要はないかと」
「おや、随分とつれないことを仰る」
白けた顔をした男にリョウは穏やかに微笑んだ。
「ワタクシがこのような晴れがましい場に顔を出すのも今宵一夜限りのことでしょうから」
王都を去った後は、再びあの森の小屋に戻るのだ。今後のことはユルスナールと相談しなければならないが、いずれにしてもスタリーツァを訪れることは暫くないだろうと思っている。だから、ここでの掠めるような出会いは、この夜限りの限定的なものでしかない。
「そんな。それではまさに夜の精と同じではありませんか」
「ええ。そう思って頂いた方がよろしいかと」
束の間の泡沫のような存在を気に掛ける必要はないのだ。
「では今宵、あなたに出会えた我々は本当に幸運であったということなのですね」
「幸運であるとは限りませんわ」
「では、せめてものお近づきの印にお名前をお聞かせ願えませんか?」
その問いにリョウは少し悪戯っぽい顔をしてから小首を傾げた。
「お伽噺の夜の精に名前はありましたか?」
「さぁ、どうだったかな」
「聞いたことはないな」
「夜の精は夜の精だろう」
「伝わってはいないんじゃないかな」
否定の言葉を吐いた男たちにリョウはしたり顔で鷹揚に頷いて見せた。
「ならば、ワタクシとて同じこと。この場で名乗るような名などありませんわ」
「これは中々に手強いな」
生真面目そうな男が愉快そうに笑った。
彼らとて本気ではないのだろう。この場を楽しむ為のちょっとした潤滑油のような遣り取りだ。暇潰しのようなものだろう。こういう駆け引きの類は余り得意ではなかったが、リョウ自身、それなりにこの会話を楽しんでいる節があった。
そんな時だった。
ふと隣に人の気配がした。
「やぁ、皆さん、楽しんでいるかな?」
柔らかな物腰の聞き覚えのある声に顔を上げれば、同じような軍服をかっちりと身に着けた知った顔があった。徽章の色は緑、第五師団の印だ。
「なんだ、ウテナか」
知り合いであるのか、第一の兵士が興醒めのような口をきいた。
こちらを見下ろしたウテナは、パチリと音がしそうなくらいに片目を瞑ってリョウに眩しい笑みを向けた。
「……ウテナさん」
「やぁ、リョウ。酷いなぁ。ボクという者がありながらこんな所で浮気をするなんて」
ウテナ流の挨拶代わりの言葉を軽く流してリョウは小さく微笑んだ。
リョウは内心、助かったと思った。初対面の四人の男たちに囲まれて抜け出す間合いを計っていたのだが、中々隙が見つからなくて困っていたのだ。
壁際にいた四人の第一師団の兵士たちは途端に面白くない顔をした。
そして、今度は左隣に影が差した。
「こんな所に隠れていたか」
「あ、ドーリンさん」
振り返れば、神経質そうな顔に眉を吊り上げて第五師団・団長のドーリン・ナユーグが立っていた。きっちりと撫で付けられた濃い茶色の髪の下、露わになった額には皺が寄っている。
「よ」
「……イリヤさん」
その後ろにはお馴染みのイリヤもいた。同じように詰襟を着て、髪もいつもよりすっきりとまとめられているイリヤは随分と立派に見えた。左頬桁の上に斜めに走る刃傷の痕も粗野さというよりも男らしさを助長させる役割を果たしていた。
「……もしかしなくても探していましたか?」
飲み物が欲しかっただけでユルスナールがいた場所から遠く離れた積りはなかったのだが、結果的には同じようなことになったのだろう。ひょっとしたら身動きの取れないユルスナールに変わって探しに来たのかも知れない。心配を掛けてしまったのだろう。
「すみません」
「いや、こっちこそ、慣れないお前を一人にして悪かったな」
謝意を口にすれば、ドーリンに却って気を遣われてリョウは恐縮した。
「いえ、とんでもないです。お忙しいのに態々すみません」
顔馴染みが現れたことで第一の兵士たちはそれ以上リョウを引き留めて置くことができないと悟ったようだった。ウテナだけならばまだ違ったのかも知れないが、第五の団長であるドーリンの登場は思いの外、効果があったようだ。
ドーリンたちに促されるようにしてリョウは誘いの言葉を口にした四人の男たちの前を去った。その時、軽く会釈をしたのだが、皆、特に気を悪くした風もなく小さく手を振って応えたのだった。
「ああ、そう言えば、先程、ドーリンさんの叔父様、南の将軍にお会いしてご挨拶させていただきました」
「……………」
リョウとしては話のきっかけとしての軽い振りの積りだったのだが、ドーリンは不意に黙り込んで無表情になった。そして、まじまじとリョウを見下ろした。
何か不味いことでもあっただろうか。ドーリンと見つめ合うこと暫し、淡々とした顔に苦々しい色が滲むようにして表れた。
黙った上司の代わりにウテナが嬉々として話に入ってきた。
「ああ、あの少女趣味疑惑の将軍?」
「こら、ウテナ。口を慎め」
あけすけなもの言いをしたウテナを常識人のイリヤがすかさず窘めた。だが、それを気に留めることなくウテナはいつもの調子で言葉を継いだ。
「なに、リョウ、ひょっとして迫られた? 口説かれた? あの人、好みは煩いけどリョウは多分、ドンピシャなんじゃないかなぁ。『ああ、なんて可憐なんだ!』なーんて言って触られまくったんじゃないの?」
ご丁寧に将軍の口真似までして、どこかで見てきたような言葉を吐いたウテナに、リョウは思わず口の端を引き攣らせていた。
「あれ? 当たった?」
「さぁ? ………どうでしょうねぇ」
隠し事は出来ない性質なのできっと顔にはウテナの推量が当たっていると表れているのだろうが、良識あるリョウとしてはそれをこの場で肯定出来る訳もなく、曖昧に濁して微笑んでみた。
目の前で額際に手を当てて大きく溜息を吐いたドーリンの横でイリヤは何とも言えない複雑な顔をして己が上司を見遣った後、妙な事を言い出した朋輩を睨んだ。それらを横目にリョウは曖昧な微笑みを浮かべて誤魔化した。これ以上何かを語るのは、ドーリンの手前良くない気がしたからだ。と同時に、あの南の将軍の奇特な趣味が、そこそこ知れ渡っているということを知ってしまった。
それから暫くして、
「少しお話をしましょう?」
シーリスと久し振りの語らいをしていた姉のクラーヴィアは、テラスの方から戻ってくるとそう言ってリョウを誘った。
ドーリンたち第五師団の兵士たちは、シーリスとその姉が戻って来たのを確認すると用事があるとのことで人混みの中に紛れてしまった。
リョウがその申し出にちらりと隣にいたシーリスを見遣れば、柔らかく微笑まれた。シーリスは、もう十分、姉との時間を堪能したということなのだろう。リョウは折角だからもう少し一緒にいればよいだろうにと思わないでもなかったが、いつになく嬉しそうな空気を醸し出しているシーリスを前に口を挟むのは止めた。
「リョウ。どうぞ姉の相手をしてあげてください。どうせ暇を持て余しているんですから」
こちらを気遣う、だが、少し捻くれたシーリス流の物言いにリョウも静かに頷いた。
「ワタクシでよろしければ」
そうして、促されるままに室内の端の方、窓際に置かれた長椅子に腰を降ろせば、クラーヴィアは、慣れたような様子で給士の男を呼び、飲み物を一つ手に取った。リョウも同じように、今度はアルコールのなるべく軽いものを給士に聞いてから手に取った。
広間の中央では曲が変わり、今度は少しテンポの速い旋律が流れ始めた。聞いているだけで体が自然と拍子を取るように動き出してしまいそうな軽やかで少し楽しい音色だった。横一列、向い合せに並んだ男女が相手を変えながら軽やかにステップを踏んで行った。それは、どこかスフミ村の空気を思い出させるような素朴で懐かしい匂いのする踊りだった。老いも若きも思い思いに踊りを楽しんでいる。
それらの楽しそうな男女の姿を遠巻きに眺めながら、クラーヴィアとリョウは乾杯の為に其々手にした小さなグラスを己が前に掲げた。
「素晴らしい出会いの為に」
「素敵な一時の為に」
目を合わせて互いに微笑み合うとグラスに口を付けた。
クラーヴィアの瞳はシーリスと同じ菫色だった。髪は少し濃いめの茶色で弟と同じように柔らかく、緩く癖の付いたものを上に束ねて巻いていた。静かで穏やかな空気を持つシーリスとは少し違って、姉のクラーヴィアは年齢的な落ち着きの中にも朗らかで快活な印象が強く出る可愛らしい感じの女性だった。少し吊り上がり気味の眦は生来の気の強さを表わしているような気がした。夫であり、リョウの後見人でもあった神官、レヌート・ザガーシュビリとは性格的にも正反対な感じがする。
「術師になったのですってね」
「おめでとう」と祝いの言葉を掛けられてリョウは嬉しそうに微笑んだ。
「はい。ありがとうございます」
「養成所で学んでいたのでしょう?」
「はい。短い間でしたが、レヌート先生には本当に良くしてもらいました。それからシーリスにも」
シーリスが色々と影で根回しをしてお膳立てをしてくれたお陰で、王都というこの国の首府を訪ねる機会を得たのだ。そして沢山の貴重なことを学び、吸収することが出来た。養成所では年の離れた弟のような友人たちも出来た。何よりも知り合いになった講師たちを始めとする新しい繋がりを得ることが出来た。これらはその場限りではない一生涯のものだ。ガルーシャが遺した一通の封書から始まった出会いは思いもよらない幸運を自分にもたらしてくれた。
「本当に何とお礼を言っていいやら」
言葉だけでは到底足りない。ここで得られたものは、単なる知識だけではなかった。それ以上の掛け替えのない繋がりを沢山得ることが出来たのだから。
「ふふふ。レヌートも自慢の生徒だと言っていたわ」
「恐れ多いことです」
そこでクラーヴィアは顔を上げるとリョウの目を見てから微笑んだ。
「私の方からもお礼を言わなくてはならないわ。ありがとう」
思いがけない台詞にリョウが目を瞬かせれば、
「だって弟が王都に来たのもあなたのことがあったからでしょう? この夜会もそう。ずっと薄情な程にこういった場に近寄らなかったあの子に会えたのも元はといえばあなたのお陰ですもの」
そう言って微笑んだクラーヴィアの瞳は、嬉しそうであるのにどことなく哀しそうな色を内包していたのだが、リョウはそれには触れずに恐縮そうに微笑んだ。
「いいえ。とんでもない。勿体ないことです。今回のシーリスの王都訪問は、ワタクシのことがあったからというよりも武芸大会があったからではありませんか? それに付随する仕事があった為です。シーリスは仕事に私情を挟むことはなさらないでしょうから」
「あら、そうなの?」
「はい。きっかけの一つとしてはそういう見方もできるのかもしれませんが、それは偶々で、第一義ではなかったはずです」
本人に聞いてみないと分からないが、といっても本当のことを教えてくれるとは思えないが、最終的にシーリスを動かした動機は別の所にあるだろう。例えば、家族が恋しくなったとか。
その言葉にクラーヴィアは目を丸くして、でも面映ゆそうに優しく笑った。
「そうだといいのだけれど………。ああ、でもあの子は昔から少し捻くれている所があるからそういう口実が必要だったのかも知れないわね」
「ええ」
シーリスの性格をそれなりに把握してきたリョウも姉のクラーヴィアに同意するように頷いた。
「ああ。それから」
クラーヴィアは顔を明るくすると花が綻んだように笑った。シーリスとは七つ離れていると聞くが、リョウの目にクラーヴィアはとても若々しく映った。笑った時に目尻に表れる笑い皺は年相応だが、クラーヴィアの魅力をより引き立てているように思えた。自分もこういう風に年を重ねていければと心の中で思った。
「おめでとう。嬉しいお話しを聞かせてもらったわ」
―シビリークス家の末と婚約なさったのですってね。
「はい」
リョウは少しはにかむように微笑んだ。この数日間で劇的に変化した状況にまだ頭と感情が付いていかないのかもしれない。婚約者という言葉はまだ実感がない。勿論、言葉にならない嬉しさはある。そして気恥かしさと一抹の不安も。それでも総合的にみれば嬉しいという気持ちが大きかった。
「あちらの御父上も漸くこれで一安心ね。長い間、堅物の噂が絶えなかった三男坊がやっと妻を迎えると聞いて、皆、驚いているわ」
そこでクラーヴィアは、何かを思い出すように小さく笑った。
「ああ、でも。妙齢のお嬢さんたちがいる家は、がっかりしたかもしれないわね。あそこはかなりの優良株だったから。うちの娘を是非にって思っていた所は沢山あったはずだわ」
一時期は、余りにも女性を寄せ付けなかった為に女に興味がないのではないかという噂も流れたのだとか。それを真に受けて、見目の良い年若い男をユルスナールの元に側仕えに使ってくれと送り込んだ貴族もいたのだとかいないのだとか。そのような社交界の裏話を可笑しそうに語ったクラーヴィアにリョウは貴族社会の奇異な一面を知った気がして、内心、驚きながらも同じように小さく笑ったのだった。
そうやって暫く女二人で楽しい語らいをしていた時だった。
「おやおや。このような所に可憐で美しい花が二輪も。壁の花にしておくには実に勿体ないですねぇ」
―そうは思いませんか?
そんな軟派な台詞を口にしながらやって来たのは、軍部の詰襟を隙なく着こなした優雅な身のこなしの恐ろしく繊細な面立ちをした男だった。男にしては余り雄々しさを感じさせない美貌の持ち主、リョウがつい先程、ブコバル繋がりで思い浮かべた第三師団長のゲオルグだった。その襟元には第三師団の所属を表わす赤色の徽章が付いていた。
ゲオルグは、慇懃な所作でリョウとクラーヴィアが座る長椅子の前に来ると恭しい仕草で一礼した。顎辺りで切り揃えられた癖の無い淡い金色の髪が降り注ぐ数多もの光に反射して煌めいていた。
「これはインノケンティ殿。ご無沙汰いたしております」
クラーヴィアが淑女然りとした態度で微笑んだ。
「クラーヴィア様もお変わりなく。いや、その美しさは益々磨きが掛かっていますね。余りの眩しさに気を付けていないと目を潰されてしまいそうです」
「まぁ、相変わらずお上手ですこと。インノケンティ殿もお元気そうで何よりですわ」
「ええ。このようにお美しい方々とお話しできる栄誉に浴することが出来まして、寿命が確実に伸びていますからね」
クラーヴィアに対するゲオルグの台詞は、余りにも大げさで芝居掛かった物言いな気がして、それがゲオルグ流の言い回しなのか、それとも宮殿特有の言い回しなのかは知らないが、何だか端から聞いているリョウにしてみれば可笑しくて仕方がなかった。
突然、笑うのは失礼に当たるので何とか堪えていたのだが、最後に耳にしたゲオルグの言葉にリョウははしたないかと思ったが、我慢できずに吹き出してしまった。貴族の男たちが色々と知恵を絞って吐き出すのであろう口説き文句もリョウにしてみれば余りにも大げさで滑稽に思えてしまうのだ。こればかりは育った環境とそこでの常識の違いによるもので如何ともしがたい。
「おや、何か可笑しいことでもありましたか? 麗しいお嬢さん」
笑われていることが心底不思議で仕方がないとばかりに小首を傾げたゲオルグに、
「いいえ。失礼しました。なんでもありませんわ。ゲーラさん」
なんとか笑いを引っ込めてにっこりと笑みを浮かべたリョウに声を掛けられたゲオルグは、その淡い灰色の瞳を驚きに見開いた。
「……リョウ…ですか?」
珍しくその声が裏返っていて、リョウは内心複雑な気持ちになりながらも微笑んだ。
「はい」
「いやいや。これは驚きました」
そう言うとゲオルグはリョウの左隣の空いた場所に腰を降ろした。
「そうですか?」
自分ではそんなに変わっているとは思えないのだが、やはりこうして化粧をしてそれらしい格好をするのは、以前の姿からは考えられないということなのだろう。自分をそれなりに知るはずの第七の兵士たちも事情を良く知るはずのシーリスさえも直ぐには気が付かなかったのだから。中身は変わらないのに可笑しな話だと思わずにはいられなかった。
だが、それに比べればゲオルグは直ぐに気が付いたのだから勘の良い方なのだろう。
「ええ。でも実によく似合っています。ええ。とても素敵ですよ」
暫し感じ入ったように長い息を吐いて、腰掛けた傍からまじまじとリョウを眺め渡した。
思いの外、観察するような真剣な眼差しにリョウは擽ったそうに笑った。
「ふふふ。ありがとうございます」
「いやいや。これはどうして。成る程。想像以上ですねぇ」
「あら、リョウ。お知り合いなの?」
右隣に座るクラーヴィアからの問われてリョウは小さく首肯した。
「はい。以前、養成所でお知り合いになりまして」
「あら。そうなの」
第三師団長でもあるゲオルグは術師でもあるので、その繋がりをクラーヴィアは別段、不思議には思わなかったようだ。
だが、それも束の間。
「まぁ、インノケンティ殿、ひょっとして、また悪い癖をお出しになったのではありませんか?」
からかうような声音で意味深な目配せをしたクラーヴィアにゲオルグは鷹揚に微笑んだ。
「いやですねぇ。私は皆さんが思っていらっしゃるほど好きものではありませんよ? 純粋な美に興味はありますけれどね」
どこかで聞いた事のあるような台詞と挑発的な遣り取りにリョウはアルセナールやその他で聞きかじった第三師団長の女性遍歴とその分野での武勇伝ともいえる話題の切れ端を思い出していた。ブコバルとは違った意味で手広く女性たちに声を掛けるゲオルグは、その美貌を武器に社交界では華々しい浮名を流しているのかもしれない。そして、何とも言えない気分でその手練手管の一つを垣間見た気分になったのだった。
話題を変える為にリョウはクラーヴィアにレヌートは今回の夜会には参加しないのかと聞いてみた。すると普段、神官たちは、一部の例外の除き、このような場には参加しないものなのだが、今宵の祝賀会は、年に一度の国王肝いりの盛大なもので、招待客の階層も多様であるということで、後から顔を出すらしいということだった。神殿の方での勤めが終わり次第、こちらに合流するのだそうだ。
それを聞いてリョウはレヌートが顔を出したら挨拶をしたいと申し出ていた。
そうこうするうちにクラーヴィアは、とある貴族の知り合いと思しき紳士に踊りに誘われて広間中央へと向かった。リョウは長椅子に座りながら、その様子を眩しいものを見るように目を細めて眺めていた。
曲が変わり、ゆったりとした温かで落ち着きのある旋律が流れ始めた。それに合わせて広間に集まった男女が踊りを再開した。
ゲオルグと二人、長椅子に腰を降ろしていたリョウは、ゆっくりと隣に座る繊細な面立ちの主を見上げた。
「先日、お役所の登録機関に申請に行きました」
「ああ。術師の試験に合格されたと聞きました。おめでとうございます」
順番がすっかり逆になったことを詫びつつ、ゲオルグが柔らかい笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。登録札は明日にでも取りに行こうと思っています。それで、以前のお話しなのですが、覚えていらっしゃいますか?」
「ええ。勿論」
それは以前、ゲオルグがリョウに少し話をする時間が欲しいと申し出ていた件だった。最終的に術師の試験が終わってからならば時間が取れると返答していたのだが、それが具体的に可能になったのだ。
術師になった暁には第三師団に入らないかとの勧誘をずっとされていた。リョウが女性であると分かった現時点では、また意味合いは違って来るのだろうが、いずれにしてもガルーシャとの繋がりのことも含めて、ゆっくり話をしなければならないことがあるだろうと思っていた。その約束を果たさなければならない。
「ワタクシの方は、時間の余裕が出来ましたので、ゲーラさんの都合の良い時をご連絡ください」
「シビリークスの方に?」
「はい」
養成所の学生寮の方は引き払ってしまったのだと言えば、ゲオルグは少し可笑しそうに笑った。
「そうですか。ルスランも中々に気が早いですねぇ」
―ですがまぁ、その方がいいかもしれませんね。
全てを語っている訳ではないのに、ゲオルグにはそれが全てユルスナールの差し金であることが分かってしまったらしい。
リョウは肯定も否定もせずに曖昧に微笑んでから言葉を継いだ。
「もう暫くはルスランの所に御厄介になると思います。場所はゲーラさんにお任せします。アルセナールでも、どこでも構いませんので」
日時と場所を指定してくれればこちらから出向くと言ったリョウにゲオルグはそれは有り難いと口にしながらも、途中迷子になると困るであろうから、伝令を道案内に付けようと申し出てくれた。
「分かりました。それではなるべく早いうちにご連絡を差し上げましょう」
「はい」
それから不意に真面目であった空気を瞬時に変えて、ゲオルグは身のこなしも軽く長椅子から立ち上がるとリョウの前に立ち、人当たりの良い微笑みを浮かべながら腰を屈めて手を差し出した。
「どうです? 一曲、踊りませんか?」
似たような誘いにリョウは少し困ったように微笑んでから緩く頭を振った。耳に付いた銀色の房飾りが動きに合わせて可憐に揺れた。
「いいえ。踊れませんから」
「では、私が教えて差し上げましょう」
「ふふふ。きっとご迷惑をお掛けいたしますわ。ですから、今回は止めておきます」
「おや、そうですか?」
ゲオルグは形の良い柳眉を片方、跳ね上げたが、別段、気を悪くした風でもなく、それ以上は押しては来なかった。
「ええ。ですから、ゲーラさんは他の方をどうかお誘いになってください」
―ほら、あちらに沢山いらっしゃいますよ。
先程からゲオルグに熱い視線を送っている若い女性陣の方に気が付いていたリョウはさり気なく視線をそちらに投げてからまた前に戻した。一方、ゲオルグは会場をぐるりと見渡して、とある一点を見ていたかと思うと徐にリョウの方を振り返り、苦笑に似た笑みを浮かべながら小さく肩を竦めた。
「どうやら時間切れのようですね。それではご助言通りに少し体を動かしてくることにしましょう。リョウ、次回は私と踊って下さい。約束ですよ?」
ゲオルグは自然な所作でリョウの手を取るとその甲に掠めるだけの口づけを落とした。
そう言って生来の女誑しの性質を遺憾なく発揮させた第三師団長は、華やかなドレスの色が溢れる方向へとほっそりとした背中を向かわせたのだった。




