【夜の精】再び
「さぁ、できましたよ」
柔らかく微笑んだポリーナに鏡の中に映る女は、少しはにかむようにして笑うと伏せていた目を上げた。鏡を見つめる双眸は深い闇を映していた。
「ありがとうございます」
きっちりと巻き上げられた黒い髪、前方の斜め脇からは右側に向かって一筋の髪を顎の線に沿って流している。そうすると女の細い首元に見えていた赤い刃傷の痕が隠れた。髪と同じ黒い睫毛に囲まれた目の縁には、身に着けている衣の色に合わせた濃紺の縁取りが薄く引かれ、円らな瞳をより強調することになった。肌にはお白いが薄く叩かれて、唇には艶やかに紅が引かれていた。
薄くとも赤みを帯びた弾力のあるその口元が、鏡の中で弧を描く。
鏡の前の椅子から徐に立ち上がったその女は、ぐるりと全身を確認するように鏡を見ながらゆっくりとその場で一回転した。
「素敵ですよ。とっても」
うっとりとしたように漏れたポリーナの声に、
「ポリーナさんのお陰です」
鏡の中の女が、少し低めの耳触りのよい声で言葉を紡いだ。
「着心地の悪い所はないかしら?」
「はい。大丈夫です」
女が小首を傾げると両の耳から垂れ下がる長い銀色の房飾りの付いた耳飾りが揺れた。
大きく切り込みの入った女の胸元には青い【キコウ石】の付いた首飾りが一つだけ。だが、それは見る者が見れば実に希少価値の高い珍しいものであることが分かるだろう。
濃紺のドレスの生地は、この国の人間ならばよく知る【シーニェイェ・マルタ】の特産だった。春に咲く青い花から取れる染料で【ノーチ】の糸を染め上げた伝統的な織物だった。そのドレスは、単純に色味だけを見れば華やかではないが、生地自体には滑らかな光沢があり、何よりもその肌触りがよく、身体の線にぴったりと馴染むようにして作られたそのドレスは、歩調に合わせて軽やかに襞を生みだし、優美な輪郭を描き出して行った。
「素敵な貴婦人の出来上がりだわ」
「見かけ倒しでなければいいのですが」
褒めてばかりの相手の言葉に面映ゆそうに苦笑を滲ませたリョウにポリーナは心配することはないと穏やかに微笑んだ。
「大丈夫。自信をお持ちなさい。私もこれまでに沢山の貴族のお嬢さんたちを見てきているけれど、リョウ、あなたはちっとも負けていないわ。さぁ、殿方が首を長くしてお待ちですよ。ルーシャ坊ちゃんをあっと驚かせてあげましょう」
ユルスナールは以前、プラミィーシュレでこの姿を見ているので、さすがに驚くようなことはないだろう。だが、そのようなことは敢えて口にはせずに、リョウはそっと微笑んだ。
「他に何か気がかりな点はないかしら?」
「はい。大丈夫です」
昨日の夜から今日の昼間にかけて、ざっと儀礼関係のお浚いをしたのだ。そして、招待客の顔触れや相手と言葉を交わす際の注意事項などを一通り教わった。基本は一応押さえてある。後は、個別にその場で臨機応変にーと言っても上手く行くかは分からないがー対処するしかないだろう。
「分からないことがあれば奥様たちが助けて下さるわ」
「はい」
励ますようなポリーナの言葉にリョウは素直に頷いていた。祝賀会にはシビリークス家の人たちも全員招かれているし、他に会場には第七や第五の知り合いの兵士たちがいるはずだった。一人になることはないと思う。そう考えて、心細くなりそうな気持ちを浮上させた。
「では気をつけて行ってらっしゃい。後でお土産にお話しを沢山聞かせてもらいますからね。どうぞ楽しんでらっしゃいな」
「はい」
そうして、ポリーナのふくよかで温かい手に背中を押される形で、リョウは自室から出た。
***
祝賀会当日、早々と出掛ける支度を終えたシビリークス家の男たちは居間に集まっていた。そこでそれぞれ妻である女たちが用意を終えるのを待っているのだ。
軍部に所属している長兄ロシニョールと三男ユルスナールは、正式な軍服に身を包んでいた。ユルスナールの方は、いつぞやの明るい光沢のある灰色の生地を基調とした詰襟に肩の部分には第七師団長を表わす複雑な編み込みの施された飾りの付いた肩章が付き、その右側から銀色の飾り組紐が腕の回りを緩く一重する形で垂れ下がっていた。襟の部分には、同じく第七の所属を表わす青い石が師団長の紋様の中に徽章として付いていた。そして、腰には儀礼用の装飾が施されたベルトにいつも愛用している一振りの長剣を吊り下げる形で佩いていた。上着と同じ生地のズボンに黒い長靴が続く。普段は無造作にかき上げられているだけの銀色の髪もきっちりと後方に撫で付けられていた。
そして、将軍であるロシニョールの方は、濃紺を基調とした詰襟の軍服姿だった。その裏地には目にも鮮やかな赤が使われており、袖の折り返しや裾の合間からちらりと覗いていた。襟の徽章と肩章は北の将軍を表わす意匠が金色の組み紐であしらわれている。そこに朱鷺色の外套を羽織れば完成だ。武芸大会の時に垣間見た将軍たちの出で立ちだ。外套以外は、全体的に落ち着いた色合いながらも、どっしりとした重厚感ある将軍らしい装いだと言えた。
そして、父親のファーガスは、今は退役しているが、かつての名将を彷彿とさせる貫禄ある立ち姿だった。軍服と同じ形の詰襟の生地は、光沢のある黒を基調とし、金色の縁飾りが華やかに襟から肩章、そして袖の部分にあしらわれていた。それはかつて将軍の地位にまで上り詰めた者だけが付けることを許される装飾でもあった。そして左胸の上の部分には、先の戦での功績を称えて国王より賜った勲章が、小さいながらも輝いていた。
一方、次兄のケリーガルは、先の三人の男たちと比べると文官ーもしくは貴族の青年ーらしい服装だった。白い光沢のある柔らかなシャツに同じく白いネッカチーフを巻き、それを銀色のブローチで止めていた。膝丈まである上着は光沢のある生地で落ち着いた青灰色の色合いだ。そして下にベージュ色のズボンを穿き、艶やかな黒い長靴が続いていた。
其々ソファから長椅子に座った男たちの周囲には留守番をする子供たちの姿もあった。ロシニョールの所のスラーヴァとユーラ、そして、ケリーガルの所の長男オーシャー正式にはイオーシフーだ。部屋の隅には、子供たちの面倒をみる乳母代わりの侍女たちが控えていた。
子供たちはどこか落ち着きがなく、そわそわしていた。着飾った父親たちの引き締まった威厳ある空気と別室で出掛ける用意をしている母親たちの華やいだ空気に高揚感のようなものを敏感に感じ取っているのかも知れなかった。
だが、それだけでもなかったようだ。
部屋の中程の窓辺に立ち、夕闇迫る外の景色を眺めていたユルスナールに甥っ子のスラーヴァとユーラが近寄って行った。
口を開いたのはスラーヴァだった。
「ルーシャ叔父さん、リョウも連れて行かれるんですよね?」
「ああ。そうだ」
「なーんだ。折角、リョウと留守番かと思っていたのに……」
即答された返答にどことなく詰まらなさそうな顔をしたユーラの頭をユルスナールは宥めるように軽く叩いた。
「今夜は無理だが、また昼間にでも遊んでもらえばいいだろう?」
「昼間だけですか?」
重ねて言い募ったユーラにユルスナールは小さく笑った。
「リョウとてそんなにいつも暇を持て余している訳ではないからな」
「今度、本を読んでくれるって約束したんです。寝る前に。いいですよね?」
「何故、それを俺に聞く?」
敢えて何気ない振りを装って上げられた眉に、スラーヴァがしたり顔で言った。
「だって、夜はいつも叔父さんと一緒だからと言っていたので」
その瞬間、次兄のケリーガルだろうか、ソファの方から吹き出した声が漏れた。
誰から何を聞いたのかは分からないが、早熟な所のある甥っ子たちのあけすけな問い掛けに内心苦い顔をしながらも、
「リョウが約束したんだろう? ならば構わん」
ユルスナールは何食わぬ顔で寛容な所を見せようとした。
そうこうするうちに居間に着替えを終えたリョウが顔を出した。室内に足を一歩、踏み入れた瞬間、中の空気が変わった気がした。雑音が止んだと言えば良いだろうか。
リョウは、ぐるりと室内を見渡すと中にいる男たちにそっと微笑んだ。それは、どこか照れたような控え目な笑みだった。
見惚れること暫し、いち早くリョウに気が付いたユルスナールがゆっくりと近づいてきた。
ユルスナールは吸い寄せられるようにリョウの頬に手を当てると、脇から流れている黒髪を一筋指先で擽るようにして掬った。
「ダーリィヤさんがこうした方が傷が隠れるからって言ってくれたんです」
「綺麗だ。リョウ」
ユルスナールは顔を寄せると耳元で囁いた。その間、まだ手袋をはめていない大きな手は、さり気なく露わになった腰の括れを辿る。
場違いな程に熱の籠った低い囁きにリョウは擽ったそうに肩を竦めた。そうすると耳飾りの銀色の長い房飾りが左右に小刻みに揺れた。この装飾品も以前プラミィーシュレで身に付けたものだった。ユルスナールからの贈り物である。
それからリョウは、ゆっくりと後方を振り返った。急に静かになった室内に首を傾げた。この部屋に入る前は、男たちの低い話声と子供たちの甲高いお喋りの声が漏れ聞こえていたからだ。
まず目に入ったのは、ぽかんと口を開けた三人の子供たちの姿だった。
「スラーヴァ? ユーラ? オーシャ?」
幾ら普段、化粧っ気のない顔を晒しているからといっても、それほどまでに驚くことだろうか。大して造作は変わっていないはずだ。
可笑しさを堪えるように艶やかに微笑んだリョウにいち早く飛び付いて来たのは、次兄ケリーガルの所の長男イオーシフー通称オーシャーだった。
オーシャは、今年で五つになる男の子だ。ロシニョールの所の二人の子供たちに比べると控え目で恥ずかしがり屋なところがあるが、上の二人と同じようにリョウにも懐いていた。
「リィョ~!」
まだどこか不完全な舌足らずの発音が居間全体に響き渡った。
リョウは、微笑んで腰を屈めると走り寄って来た小さな身体を抱き止めた。
「リィョー、しゅごいきれいだぞ。おとぎばなしみたい!」
興奮気味にいつもより口早に捲し立てるオーシャに、小さな身体を宥めるようにその背中を軽く叩いた。くるくるとした淡い茶色の髪にきらきらと光る淡い空色の瞳が、爛々と光を湛え眩しいくらいだった。
「ふふふ。ありがとう。オーシャ」
対するリョウの表情もいつになく緩み切っていた。
それに続いて息を吹き返したロシニョールの所の二人の子供たちがやって来た。
「……すごい。【夜の精】みたいだ」
興奮気味にリョウの回りをうろうろとするユーラ。そして、長男のスラーヴァは、目の端を若干赤らめながら斜交いにリョウを流し見た。どことなく顰め面だ。
そして、一言。
「似合ってるな」
少しぶっきらぼうな反応も照れ隠しなのだろう。いつもとは違う子供たちの反応にリョウも内心のむず痒さを感じながらも柔らかく微笑んだ。
「ふふふ。どうもありがとう」
立ち上がったリョウの傍でそわそわとユーラが身体を揺らしていた。リョウの脇にはオーシャがぴったりと張り付いている。
「ユーラもいらっしゃい」
いつものように抱きつきたくて堪らないのだろう。そう口にした途端、ユーラは目を輝かせて飛びついて来た。
「あ、おい。ユーラ」
ユルスナールが若干、焦ったような声を上げる。そして案の定、勢い余ってたたらを踏み、後方に倒れそうになったリョウの身体をユルスナールが背後から支えた。
ユーラは深く開いた胸元に顔を埋めていた。いつものように服越しではなく、直にユーラの鼻先が肌を擽り、リョウはその感触に耐えきれずに身体を震わせた。
「ユーラ、くすぐったい」
そして一頻り、ぎゅうとしてから満足したのか腕を離した。そして、その傍らでチラチラとリョウの方を見ているスラーヴァにも声を掛けた。
「スラーヴァは?」
差し出された腕にスラーヴァは嬉々として顔を上げたのだが、背後にいたユルスナールがリョウの身体に腕を回した。
「リョウ、その位にしておけ」
その途端、スラーヴァが面白くないという顔をした。
ユルスナールはスラーヴァに何やら目配せをした。下の二人のような純粋さとは些か違う所にある甥っ子の欲求を叔父は黙認出来ないということなのかもしれない。もしくは縄張りと所有権を主張する為か。暫く、無言のまま攻防がなされる。
その実に微妙な空気にリョウは首だけ後方を振り返りながら呑気に笑った。
「いいじゃないですか。軽い抱擁ぐらい。こちらでは皆、いつもしているでしょう?」
往々にしてこの国の人々は身体的接触が多く、他人との身体的距離も近かった。このくらいのことでスラーヴァのような子供相手に目くじらを立てる程のことではない。そう言いたいのだろう。
リョウから援護をもらったスラーヴァは、「ほれ見ろ」と言わんばかりの表情をして些か挑戦的に叔父を見た。対するユルスナールは、リョウの背後で不機嫌さを隠すことなく目を細めた。端から見れば完全にムキになっている子供の顔だ。
子供相手に何を張り合っているのだか。
だが、当のユルスナールは、かなり本気だった。
そして、その大人げない攻防に決着を付けたのは、双方に影響力を持つ長兄のロシニョールだった。
「スラーヴァもルスランも、みっともない真似をするな」
ここでユルスナールだけでなく自分の息子も窘めたのはさすがと言えるだろう。
呆れた顔をしながらやって来たロシニョールにユルスナールは口の端を下げたが、何も言わなかった。
「本当に驚いた。これは噂以上だね」
そして、さり気なく話の流れを変えるように半ば感嘆に似た息を吐き出しながら次兄のケリーガルが言った。
「ああ。随分と見違えた」
ロシニョールもまじまじとリョウを見下ろせば、
「ルスランには勿体ない」
本音のようなものをちらりと覗かせながら父親のファーガスも傍らに立った。
身なりの立派な上背のある男たちに囲まれて妙な圧迫感を感じながらも、
「もう、本当に皆さん、お上手なんですから」
口々に褒めそやされて、リョウは困ったようにそれでも悪い気はしないのか嬉しそうに口元を綻ばせた。
そうこうするうちに漸く他の女性陣が身支度を終えてやって来た。
「まぁまぁ、どうしたの? 皆して固まって」
一か所に集まる男たちを不思議に思いながら声を掛けたアレクサーンドラであったが、その中心に埋もれるようにして立っていたリョウに気が付くと、まるで花が咲いたように顔を輝かせ、足早に近寄って来た。
「まぁ、リョウ! 素敵、素敵だわ!」
先程のオーシャばりに周囲によく響く甲高い声を上げた夫人に中にいた男たちは顔を見交わせると小さく苦笑いした。
そして今度は、集まって来た女性陣に囲まれることになった。




