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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第五章:テラ・ノーリ
182/232

悠久の歪み


 リョウが術師最終試験の合格通知を受け取ったその日、シビリークス家を辞したレヌート・ザガーシュビリは、その足で神殿に向かった。


猊下(げいか)

 人気の無い青白い静寂が満ちた空間に一人の男の声が響き渡った。それは、ごく微かなものであったにも関わらず、物音一つしない室内に反響し、増幅するように空間を震わせた。

 それは、この部屋の造りの所為でもあった。ここは神殿の奥深く、一般の参詣客が立ち入ることの出来ない空間だった。神官たちが朝夕の勤めを行う祈りの間であった。神官たちが紡ぐ祈りの文言は、歌うように抑揚がつき強弱と共に繰り返される独特な音色で、神聖で厳かな旋律だった。そして、この祈りの間は人の声がよく反響するように設計されていた。

 通常の祈りの間のさらに奥、神官たちの中でも高位のごく限られた者だけが入室を許される一室で、一人の男が祈りを捧げていた。白い簡素な上下に黒い繻子のような光沢のある帯を腰に巻き、その端を横に垂らしていた。目を閉じた男の横顔は、多くの深い皺で刻まれていた。白い髭に覆われた口元が小さく祈りの言葉を紡いで行く。年経ても尚深みのある美声を持つと評判のその男の朗々とした声が、広い室内に見えない波紋を作るように響き渡っていた。

 男は、この神殿に仕える数多もの神官たちの頂点に立つ地位にいた。神官長の任に就いて早十年。神殿は数多くの神官たちからなる雑多な集団だ。

 神官の職は、一般的に広く開かれていると言えた。但し、性別が【男】で高い素養を持つことが最低条件として必要とされている。だが、それを満たせば、出身や貴賎は問われなかった。

 その他に神官になる為に必要とされるのは、神殿に祀られている女神リュークスへの忠誠心である。

 その戒律は、厳しいものではなかった。豊穣を司る神でもあるリュークスはこの国の幅広い人々に愛され、崇拝されていた。神官たちは女神に仕えるということで皆、男ばかりだが、妻を娶ることは許されていたのだ。中には昔ながらの厳格な規律を重んじ、生涯独身を貫く者もいるにはいるが、時が下った現在では、その既婚者と独身者との割合は半々くらいにまでなっていた。

 基本的に神官たちは高い素養の持ち主である。世界的に見ても、この国に於いても、術師や神官になるだけの高い素養を持つ人間の頭数は減少傾向にあった。能力は親から子へと血筋によって伝わると考えられていた。それ故、高い能力を持つ人材を育成する為にも、スタルゴラド国内には、神官たちに妻帯を推奨する空気があった。

 だが、この場で祈りを捧げていた男は、生涯独り身を公言し、その方針を貫いていた。


 神官長の祈りが終わりを迎えた頃、間合いを測るように同じ神官の装束に身を包んだ一人の男が、傍らに立ち、一歩足を踏み出した。神官たちの身に着ける踝までの柔らかい革靴が磨かれた床の上を滑るように擦れ、小さな音が鳴った。特殊な石、【ムラーモル】を術師でもある専門の石屋が加工して磨き上げられた床は、まるで鏡のようにそこにある人物を映した。四方八方、その【ムラーモル】で覆われた空間は、ごくわずかな発光石の明かりで室内を明るく照らすことの出来る荘厳で不可思議な部屋でもあった。

 人の気配に長は、ゆっくりと閉じていた目を開くと横目で傍らに控える神官の腰元から垂れ下がる淡い紫色の帯の色を見てとった。

「レヌートか」

「はい」

 祭壇の前で跪いていた老齢の神官は、ゆっくりと体を起こすと立ち上がった。

猊下(げいか)

 柔和な顔立ちをした壮年の神官は、数多もの弟子の中でも実に真面目で実直、仕事熱心なことで有名だった。敬虔な神に仕える(しもべ)である。いつになく真剣でどこか思い詰めた感さえある弟子の表情に神官長は静かな眼差しを向けた。

「お聞きしたいことがあります」

 神殿内部の最奥とはいえ、ここは然るべき高位の者であれば立ち入ることの出来る場だった。それにこの一室は声がよく反響するように作られた場所だ。

 人払いが必要だと感じた長は、

「では私の部屋へ」

 一つ小さく頷くとそのまま踵を返した。軽やかに翻る長の白い長衣の裾を見ながら、弟子のレヌートは、その後ろに続いた。


 禁域として度合いの違う二つの祈りの間を抜けて、より開かれた本殿へと通じる木の扉を開き、神聖な間から神殿内のより雑多な空間へと移る。神殿はそもそも世俗から離れた場所ではあるが、そこに暮らす神官たちが【人】である限り、程度の差こそはあれ、生活感のある世俗的な空間は点在した。

 高い位置にある明かり取りの窓から降り注ぐ柔らかな日差しは、僅かな光でも白い石壁に反射して、回廊をぼんやりと明るく照らし出していた。神殿内は基本的に白一色の作りである。要所要所には、繊細で細かな彫刻が施され、一見、殺風景にも思える空間に控え目な華やかさを添えていた。その内部を歩く神官たちの階級に合わせた色とりどりの帯は、この荘厳な建物の中で、唯一の色たり得た。

 年を重ねても尚、背筋の伸びた矍鑠(かくしゃく)とした背中を眺めながら、レヌートはふと明かり取りの窓に差した影に視線を上げた。そこには伝令として使われている【ゴールビ()】が、一羽、くるると喉を鳴らしていた。

 それを視界の隅に留めながら、レヌートは、過日、義弟であるシーリスと交わした会話を思い出していた。




「義兄上」

 珍しく、レヌートの元を訪ねて来た義弟は、いつになく硬い声を出してその義兄の名を呼んだ。

 養成所内にある講師の部屋の一室で。今年、この場所を義弟が最初に訪ねて来たのは、かれこれ半月以上も前のことだった。

「どうした、シーリス? そんな怖い顔をして」

 自分の妻によく似たレステナント家特有の繊細な面立ち。そこにいつも浮かんでいるのは仮面のように張り付いた微笑みの残骸のようなものだった。出来そこないの微笑みだ。

 代々神官を輩出するレステナントの家で唯一これと言った高い素養の開花を見せなかったシーリスは、実家と袂を分かつように騎士団に入隊し、そこで軍人となった。今では北の砦を預かる第七師団の副団長として数多くの部下たちを抱える立場にある。普通の人にとっては人当たりの良い笑みに思える表情は、シーリスが幼い頃に身に付けた処世術でもあった。

 半ば家出同然でレステナントの家を出てから、長じても尚、その敷居を跨ごうとはしなかった。レヌートの妻であり、シーリスにとっては唯一の理解者でもあった姉のクラーヴィアは、年の離れた弟のことをいつも気にかけていた。近くに来ているのならば顔を出して欲しい。弟が武芸大会に合わせて王都に来ていることを風の噂に聞いたクラーヴィアは、そう零していた。

 クラーヴィァは、良くも悪くもレステナントの血筋を色濃く引き継いだ気丈な性質だった。そして高い素養を持つ女性だった。性別の理由から神官にはなれなかった。だが、その代わりに神官の男を婿に取った。レステナントの血筋を絶やさぬ為に。そうして弟の為に家を守ったのだ。


「騎士団に入り、心身共に軍人になったつもりでしたが、やはり私には、レステナントの血が流れているのでしょうねぇ」

 広い講師部屋の中で、促されるままに応接用のソファに座ったシーリスは、そう言って、少し自嘲気味にひっそりと笑った。

「でも、今回ばかりは、その血筋で良かったかも知れない。そう思いましてね」

 ―――――忘れたはずの【家】という重みも偶には役に立つものですね。

 そんな前置きをしてから、シーリスが語ったことは、良くも悪くも直球だった。装飾や誤魔化しの無い剥き出しの言葉。のらりくらりと核心から外れた宮殿特有の言葉遊びに長けた義弟にとっては珍しいことで、それだけ義弟が真剣であることがよく分かった。

「義兄上、単刀直入にお聞きします。今、神殿では何を始めようとしているのですか?」

 そう言って、薄らと特徴的な菫色の目を細めたシーリスは、実に冷え冷えとした色の無い表情をしていた。柔らかな顔立ちの下に隠れるこの義弟の本質は、恐ろしく凍てついた冷たいものだった。情よりも理を重んじることのできる軍人としては類まれな資質を持った男だった。

「何の話だ?」

 その言葉に隠された意味合いに、レヌートととしては思い当たる節が色々とあった。その中で、義弟に話しておかなければならないと思ったこともあった。だが、表面上は知らない振りをした。

 そんな義兄の態度にシーリスは全てを悟ったような顔をして困ったように笑った。

「義兄上、今日は【ユプシロン】の方々がお得意とする言葉遊びをする積りは全くありません。今からお話しすることは、あなたが義兄上だからお尋ねするんです。姉上が唯一認めた方だからです。どうか私の信頼を裏切らないでください」

 そうして吐き出された言葉は、驚く程の威力を持ってレヌートの身体を貫いた。

「リョウの黒という色彩は、【贄】としては最上級のものになるのですよね?」

「なん…だと?…………」

 それからシーリスは、これまでリョウの周りで起こった不可解な出来事と神殿との繋がりを一つの仮定として提示した。近々、神殿では儀式を予定している。その下準備の為に軍部に接触を持った高位神官がいた。

「そういう噂が出たのは、二年前のことだ」

 神からの宣託を得る為に、リュークスへ捧げる特別な儀式が行われた。その時にどうやら黒という色彩を持った人間が犠牲になった。これはある一定以上の神官たちが知ることになった口外出来ない神殿の闇の一つだった。

「では、今回も?」

「まさか……そんなはずは……」

 神殿内部の儀式推進派の中にそのような動きがあることはレヌートも感じ取っていた。

 だが、実際にそれが実行に移されるとは思えなかった。儀式には神官長の許可が必要だ。良識ある敬虔な信者でもある高潔な長が、そのような野蛮な愚行を許すはずがなかった。特に二年前の失態が明るみになった今では。

 だが、不安定要素があるのも事実だった。レヌートが仲間の神官から小耳に挟んだエルドーシス復活の祭事の計画。遥か昔、神代にリュークスの恋人であった男神エルドーシスを復活、降臨させることでリュークスを勧請し、もたらされる宣託の精度を高めようという途方もない計画だった。それはリュークスがエルドーシスに執着していたという言い伝えから来ていた。

 この大地にスタルゴラドという国が誕生する遥か昔、この大陸一帯は、エルドシアと呼ばれていた。別名、【テラ・ノーリ】―――【魂巡る大地】という意味を持つ。だが、この【エルドシア】の名は、失われてしまった。一柱の神の名と共に。その神が【エルドーシス】だった。

 神殿の最奥の書庫に眠る古文書の中から、その失われた男神復活に関わる秘儀を発見した。それを興奮気味に語る仲間の話を聞いた時、レヌートは耳を疑った。所々失われた曖昧な穴あきだらけの古文書を鵜呑みにするなどとは、危険(リスク)が大きすぎた。その解読も解釈も未だ謎の部分が多いのだ。

 それに神を呼び出すには器が必要だ。選ばれた依り代の中に神の降臨を願う。薬によって眠りに就いた生身の人間が依り代になった。だが、一度、膨大な(エネルギー)を持つ神を降ろした人間は人としての自我を失う。大きすぎる力に精神が耐えられないからだ。儀式後、一命を取り留めたとしても廃人同様になった依り代は、やがて死に至る。

 二年前の儀式の顛末を詳しく調べたレヌートはその事実に行きついた。それは直視するにはおぞましい出来事だった。

 二年前、神託を得る為に神を降ろされたという二人の贄は、その最中で負荷が大きすぎて息絶えてしまったのだ。そして、儀式は失敗に終わった。得られたという神託がかなり曖昧なものになったのは、リュークスの降臨途中で器が壊れ、儀式が強制終了されてしまったからだった。そして、神官たちはその事実を隠す為に散らばった欠片を集めてそれらしい体裁を整えたという余りにもお粗末な話だった。

 儀式の最中に亡くなった二人の贄にされた男女は、神官たちの手で秘密裏に神殿裏にある共同墓地に埋葬されたという。


 レヌートの口から静かに語られた神殿内部の禁忌に当たる情報に、シーリスは顔を凍りつかせた。

 だが、伏せた眼を上げると真っ直ぐに義兄を見た。

「先日、第四の管轄内で、男が一人斬殺されました。義兄上もご存じのイースクラという灰色の縮れ髪をした傭兵風の男です。その男は、二人の男女を探していたそうです。共に黒い色彩を持つ若者。その二人は、男の血を分けた子供だそうです」

 つまり、その男は二年前贄にされた男女の係累とのことだった。繋がった点と点にレヌートの目が驚きに見開かれた。

「その男は神殿を探っていたようです。そして、恐らく、知ってはいけない事実に辿りついてしまった」

「それで………消されたというのか?」

 常に善行を謳う神殿の神官たち全てが、真っ当な道を進んでいるとは限らない。神殿は長きに渡りこの地に栄えてきたこの国の誕生よりも古い歴史を持つ場所だ。時と共に姿形を変え、時代と共に解釈を変えた因習は、淀んだ澱が溜まり(ひず)みを生む場所でもあった。その深い闇を抱えながら、神官たちは日々勤めを果たしている。

 光の裏には、それを際立たせる闇が存在する。途方もない闇が。

「そう考えるのが妥当でしょうねぇ」

 シーリスはそう言うと緩慢な動作でソファーに腰を下ろした脚を組み替えた。そして、少し身体を前傾させると声を一段低くした。

「その男が死の間際、リョウに伝言を残したそうです」

「リョウに?」

「ええ。偶々、男が刺客に遭った直後に傍を通りかかり、懸命に手当てをしたそうですが、その場で息を引き取ったそうです」

 そこで語られた最期の言葉が―――【ユプシロン】に気を付けろ―――ということだった。

「これは一体、何を意味するのでしょうねぇ、義兄上?」

 ソファの対面に座るレヌートは、膝の上に肘を突くとそこで頭を抱えるように項垂れた。きつく目を閉じる。状況は、自分が考えていたよりも更に悪い方向へ進んでいる。それを認めない訳にはいかなかった。

 口の前で両手を合わせたレヌートは前傾姿勢のまま、目だけで前に座る義弟を見た。

「神殿内部で儀式推進派の連中が、再び活発に動き出していることは聞き及んでいた」

 だが、あの儀式自体は、神殿の戒律からみても禁忌に当たるものだ。人の命を贖いに宣託を得ようなどとは、命を言祝ぐ慈愛の女神でもあるリュークスを祀る神官たちにはあってはならない事態だった。それに二年前、一部の神官が手を染めた領域は、人が触れてはならない神の領域だった。だから、人である贄は、凄まじい神気に耐えきれずに死んだ。

「リョウは、その色彩もそうですが、義兄上もご存じのように高い素養を開花させています」

 それからシーリスは少し前にブコバルから耳にした不思議な出来事をレヌートに語った。それは神殿裏の墓地で、そこに残る死者の魂に反応し、リョウが依り代となって残っていた残像思念に一時的に飲み込まれたということだった。

 それを聞いたレヌートは穏やかな表情を一変させ、目を眇めた。

「シーリス、そのことは他には言っていないだろうな?」

「ええ。勿論、話が話だけに、そのことを知るのは当事者のリョウはともかく、ブコバルと私、そしてルスランだけです」

「ならば、これまで通り他言無用だ。伏せておけ」

 なんと言うことだ。レヌートは心を落ち着ける為に深く深呼吸をした。シーリスが語った出来事は、リョウが別の魂を入れる器として適していることを意味したからだ。人の思念であるから神のものとは大きく違うが、それでも原理としては同じだ。そして、高い素養と持つということは、リョウがとても強靭でしなやかな精神を持つことを意味した。それは言ってみれば、神を降ろす為の器としては最適な人物だった。その事実があちら側に知られれば、何が何でもリョウに接触を持とうとするだろう。いや、ひょっとしたら、その手はもうリョウに伸びようとしているのかもしれない。だから、真実を知る為に、義弟は自分の元を訪れたのだ。

 それからレヌートはリョウが、宮殿での侍女の不審死に関わったとされる疑いを持たれた上に酷い扱いを受け、その静養の為にユルスナールの実家であるシビリークス家に移された事を知らされた。

 リョウがそのようなことに関わっているはずがない。事実を大きな衝撃を持って知らされたレヌートは、リョウの喜怒哀楽に富んだ屈託のない笑顔を思い浮かべて、心を痛めた。

 シーリスは、その一件に、神殿の神官が関わっているのではないかと推測した。全ては贄を得る為に。罪人とされれば、その身柄を色々な理由を付け、そして賄賂を使い、神殿側に移すことが可能だ。罪人であれば、その者が後にどのような扱いを受けようとも非難されることもない。

 もし、それが本当だとしたら、同じ神官として由々しき事態だった。


 そして、この日、レヌートはリョウに試験結果を伝える為に満を持してシビリークスの家を訪れたのだ。久し振りに見たリョウは、すっかり女らしくなっていた。顔にあったという痣も消えていた。服装が違うだけでこんなにも人は変わるものだろうかと半ば眩しい気持ちで柔らかく笑う弟子の姿を見つめた。

 この日、レヌートは気持ちを新たに引き締めた。リョウは自分にとっても大事な弟子であった。その弟子をむざむざと神殿内部の陰謀に利用されるのは決して許せないことだ。

 そして、並々ならぬ決意を持って、事の次第を糺すべく、神殿の長の所へと足を運んだのだった。




 神官長の後を付いて、レヌートがやって来たのは、神殿内部の中でも奥まった所に位置する長の私室だった。

「ここならば、人に聞かれたくない話もできる」

 長の私室の一室には結界が張られ、内部の音を外に漏らさないように呪いが掛けられていた。

「ありがとうございます」

 師匠の心遣いに弟子は感謝の言葉を口にした。

 それからレヌートは促された簡素な椅子に腰を下ろすと、静かに訪問の目的を語った。余すことなくこれまでに自分が知り得た事実と、方々からもたらされた情報を照らし合わせて、一つの結論を長に提示した。

 それは、この神殿に仕える仲間を糾弾するものでもあった。

「良からぬ動きがあることは私も感知している」

 弟子の話を聞き終えた後、神官長は、憂慮するように白いものが多く混じる眉を寄せた。

「あの者たちは野心を持ち過ぎた」

 異端に走ろうとする仲間たちの原動力となる行動の根底には、この神殿の影響力を高めようとする想いがあった。かつては等しくあった宮殿との力の天秤は、この所著しく、神殿側に不利な状態が続いていた。それを是正しようとする反動とも言えた。

「ならば、既に猊下(げいか)にお話しが届いているということなのですか?」

 儀式を行う許しを得る為に。

「いや、正式な申請は未だ来てはおらぬ」

 だが、儀式に向けて着々と準備は進められているようだった。

猊下(げいか)は、勿論、この件をお認めにはなりませんよね?」

 レヌートの問い掛けに、神官長は暫し、瞑目した。そして、沈黙の後、ゆっくりと長い息を吐き出した。

「我らは常にリュークスと共にある。神の御心に従うのみじゃ」

 【ユプシロン】特有の言い回しに、レヌートは奥歯を噛み締めた。

「あれは禁忌に当たります。何よりも僭越で、神を冒涜する行為です。そのようなやり方は間違っています。二年前の過ちを再び繰り返すお積りですか?」

 静かに語気を荒げた壮年の神官に長は静かに一瞥をくれた。

「過ちを認めるも、それを正すも、我らが人の定め。神の怒りに触れれば、鉄槌は必ず下される」

「そのような悠長な事を言っている場合ではないかもしれません。私は断固として反対です」

 相手を煙に巻くような言い方にレヌートは焦れたように言葉を紡いだ。だが、この神殿を取り仕切る長である男には、また別の考えがあるようで、レヌートの進言は、一神官の意見として流されてしまったようにも思えた。

猊下(げいか)の英断を信じております」

 最後にそう一言、強い眼差しで己が師匠を見据えるとレヌートは、椅子から立ち上がった。そして沸々と湧き上がる怒りと口惜しさをその背中に滲ませながら、長の私室を辞したのだった。

「やれやれ。どやつもこやつ血の気の多い者どもよ」

 弟子の背中を見送って、長は大きな溜息を一つ吐くと、これからの事態を思い描くようにゆっくりと目を閉じた。

「全てはリュークスの御心のままに」

 苦渋に満ちた小さな述懐は結界の中に消えた。




 レヌートが帰った後、影になった扉の向こうから、二つの人影が滲み出るようにして長が座る室内に現れた。白い豊かな白髪を撫で付け後ろでゆったりと束ねた彫の深い老齢の神官と同じ装束を身に纏った男と光輝く白い豊かな長い頭髪を垂らしたままにしている恐ろしく整った顔立ちの若い男の姿だった。

 静かに現れた二人の存在に神官長は、恭しく一礼をした。

 二人の視線は、先程この部屋を立ち去った壮年の神官の軌跡に注がれていた。

「あれはザガーシュビリの所の次男だな? レステナントに婿入りをした」

「はい」

 老齢の男の問い掛けに長は静かに頷いた。

「リョウが世話になっている男だ」

 若い作りの美貌の主が、その外見にしてはしわがれた深みのある言葉を継げば、

「そういう訳か」

 その隣に立つ老齢の男は、したり顔で頷いた。

 冒しがたい沈黙が、暫し、然程広くはない室内に落ちた。

「イシュタールよ」

 厳かでどこか異形の神々しい気を発しながら、若い作りの男が、虹色に煌めく類稀な瞳を神官長へと向けた。それは、いつになく険を含んで長を射抜いていた。

「我らは、元より人の理からは外れた存在。必要以上の干渉は許されぬ」

 その声はどこか苦渋に満ちていた。

「なれど、あの子は、【そちら】よりも【こちら】に近いところにある。その言わんとすることは、そなたならば分かるな?」

 峻厳な山の頂のような高い鼻を挟んで、玉のように煌めく灰色の瞳が神官長・イシュタールを見つめていた。

「リョウには我が加護を与えている」

 その言葉に神官長は弾かれたように神々しい美貌の青年を見た。

「では、あの者は長の【魂響(タマユラ)】なのですね?」

「左様。こちらではそのように呼ぶらしいな」

「あの子を害することは、我らに対する冒涜と同じ。それをお忘れなきように」

「人の世に介入を許されぬ我らと(いえど)も、同胞(はらから)を害されれば黙ってはおらぬ」

「御意」

 室内を震わせるような静かな確固たる宣言に神官長は恭しく頭を垂れた。




「【フセェレンナイ】よ。こたびほど歯痒き思いをしたことはない」

 とうの昔に失くしたはずの名を呼ばれて、【東の翁】は、そっと傍に立つ絶世の美貌を誇る青年の横顔を見た。【人】ではない存在が【人】としての形を取るのは、その神代に近い遥か昔に、人と獣との境界があいまいだった時期の名残だった。その頃、人は獣と交わり、然るべき秩序の下、共に暮らしていた。己が血潮に眠る遥か昔の記憶を探り、辛うじて【人】としての形を持つ【東の翁】は、複雑な表情を憚ることなくその顔に浮かべた。

「人はいつになっても過ちを繰り返すのだな」

 長い悠久の時を生きる白銀の王には、比べ物にならない程短い生涯を送る【人】の在り方が、理解できない時がままあった。人の世を見限り、長い間、太古の森の奥に引きこもっていたセレブロが、再び人と交わることになったのは、己が領域である森の片隅に隠居を決め込んだ風変わりな男が居たからだった。

 あの男との交わりの中で、再び、人の世も捨てたものではないかと思い始めていた。そして、リョウというこの世の人の理から外れた知己を得た。

 リョウを気に掛けたのは、それが己と似たような境遇であると思ったからだ。この世にありながらも、この世の誰とも交わることの無い別の次元にあった魂。ゆらゆらと不安定に揺らぐそれを繋ぎとめようとしたのは、半ば無意識のことだった。

 セレブロにとって、リョウは仲間だった。清らかな心を持つ少し変わった愛すべき【人】だった。保護者を任じていたガルーシャ・マライ亡き後、この広い世界の中で自らの足で立とうとする姿をずっと見守ってきた。

 人にとっては恐ろしく長い年月を生きる森の王にとっては、リョウの一生など瞬きにも似た僅かな時間だった。その束の間の時を人に交わり過ごしてみるのも偶には良いかもしれないと思ったのだ。

 ヴォルグは深き森にある気高き種族で同胞を大事にする一族だ。交わり、加護を与えられた者は、その仲間に等しい。仲間が傷つけられることを黙って見過ごすわけにはいかなかった。

 この地にあり、遥か遠い昔に天と地の理を説く役目を授かったヴォルグの一族は、静かなる天秤として、徒に人の世に介入することを禁じられていた。それは【知】と【記憶】をこの世に引き継ぐ、【東の翁】とて同じことであった。

 大いなる揺らぎの中にありながらも、人の世にあり、自らその中で生きる術を探そうとしているリョウは、セレブロたちのような存在と【人】を繋ぐ稀有な存在でもあった。その大事な仲立ちを自らの手で(ほふ)ろうとしている。この所、リョウの周りで起こっている不審な動きは、セレブロの神経を逆撫でていた。

「セレブロ殿、過度の手出しはなりませぬぞ」

 珍しく苛立ちを顕わにびりびりとした空気を帯びた人の形を取った白銀の王に、輪廻を繰り返すことで人としての長い生を生きてきた東の翁は、釘を刺すように言った。

「分かっておる」

 ―――――分かっておる。

 再び、同じ言葉を繰り返して。白皙の美貌を苦渋に歪めた青年は、付き合いの長い翁から見ても実に人間臭い表情をして、虹色に輝く瞳をそっと閉じたのだった。


前回の「千客万来の一日」と同じ日の出来事です。東の翁やセレブロといえでも、万能ではない。その一端を垣間見る回になりました。次回は再び、リョウの生活に戻ります。

お知らせ:「千客万来の一日」の夜のお話を、ムーンライトノベルズのほうで連載しているMessenger の大人向け短編集(Insomnia)で更新しました。もしよろしければそちらもどうぞ。

ありがとうございました。

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