モザイクの輪郭
室内を大きく切り取るように開け放たれた窓からは、遠く切れ切れに湧き上がる人々の歓声が、そよぐ風に乗って聞こえてきていた。
この場所は、術師養成所の講師陣が居を構える研究室が並ぶ棟の一角である。その三階の一番隅に位置するとある一室に三人の男たちが集まっていた。
来客用のソファーに腰を下ろしているのは、小柄な老人だった。豊かな頭髪には多くの白いものが混じっている。たっぷりとした長い外套を羽織り、ふさふさとした眉毛は、顔の輪郭からはみ出さんばかりの勢いで控え目な自己主張をしていた。長い年月を経て細かい皺が刻まれた顔のその顎の部分には、疎らに長い髭が生えていた。
そして、もう一人は、この部屋の主である男だ。神殿に仕える神官であることを表わす簡素な白い上下に淡い紫色の帯を巻いていた。その上から防寒用として室内用の茶色い襟なしの長い上着を身に着けていた。
そして、最後の一人は、軍部の詰襟に身を包んだ男だった。男が身に着けている隊服は、正装ではなく略式のもので、明るい光沢のある灰色の生地は同じだが、装飾の類が一切省かれているものだった。辛うじて詰襟の左側の部分に男の所属を表わす赤い色の石が徽章として付いていた。それは、軍部の第三師団幹部であることを表わす職章でもあった。
男は、軍部の兵士の例に漏れず、その腰に一振りの長剣をぶら下げてはいたが、それが抜かれることは滅多に無かった。剣を佩いていなければ、そのまま宮殿に仕える文官のようにも見えるだろう。
三人分のお茶を淹れたこの部屋の主であるレヌート・ザガーシュビリは、珍しく、その柔和な面立ちに困惑の色を隠すことなく、偶然にもこの部屋を訪れることになった二人の客人を流し見た。
「どうぞ」
「おお。これは忝い」
差し出された湯気の立ち上るカップに無類のお茶好きである老講師・イオータが嬉々として手を伸ばした。
イオータは中身を一口啜ると満足そうにその目を細めた。
同じ養成所で教鞭を振るう講師として、イオータの訪問は珍しくはあったが、それでも理解できないものではなかった。だが、まぁ、大抵は、養成所内を擦れ違い様に挨拶を交わし、ごく稀に世間話をする程度のもので、相手が鉱石を主に研究する宮殿お抱えの地質学者であることもそうだが、神殿の神官であるレヌートとはその日常の行動範囲も趣味や興味を惹かれる対象も全く違っていたので、この養成所内でも変わり者と目されている老講師が態々自分の研究室を訪ねてくる目的をレヌートは想像することが出来なかった。
お茶を進めながら、レヌートはもう一人の客人(と呼ぶには些か引っ掛かりを覚えざるを得なかったが、それ以外の言葉が生憎思い浮かばなかったのでそう呼ぶことにする)を流し見た。
線の細い、男にしては些か繊細な面立ちをした人物だ。略式とはいえ、軍部の詰襟を身に着けていなかったら、同僚の神官としても問題なく通用してしまうような落ち着いた印象を与えなくもない。
だが、レヌートの耳にもこの男に関する評判はそれなりに入ってきていて、そこから形成されたその者の輪郭はおぼろげながらも保持していた。
しかしながら、元々第七師団の副団長を拝命している義弟以外、軍人との交流を持たないレヌートの所に、この男が態々訪ねてくる理由もレヌートには思い浮かばなかった。
片や風変わりな地質学者。片や優しい面立ちの仮面の下に強かさを隠した癖のある軍人。そして、神官であるレヌート。一つ所に会しているその組み合わせは、端から見ても多くの謎を秘めているように見えるだろう。
各人を其々一つの円と見做し、その三つの円が重なるところには、何があるのか。それは、やがて明らかになる。
大きな歓声の切れ端が、窓の所で揺れる薄い日除けに反射する。ここから少し離れた所にある宮殿前広場では、毎年恒例の開会式が行われているのだろう。複雑に鳴り響く独特な鐘の旋律にいよいよ待ちに待った戦いの火蓋が切って落とされたことが知れた。
「始まったようですな」
ゆっくりと窓の外に視線を走らせながら、イオータがのんびりと口にした。
「そのようですね」
レヌートも静かに合槌を打った。
今日は、軍部主催の武芸大会の開催日だった。この冬一番の街を挙げてのお祭りだった。開催期間中の三日間は、いつも賑やかで人馬の往来の絶えない大通りも日中は人通りが閑散となる程だ。沢山の人々が、大会が開かれる宮殿前広場へ手弁当持参で見物に押し寄せた。
夜は夜で昼間の大会の話を酒の肴に男たちが杯を酌み交わし、団体戦ではどこが優勝するのか、個人戦では誰が上位に食い込むのか、皆、いっぱしの予想家気取り、俄か軍人評論家の気分で己が持論をぶつけあった。
この三日間は、養成所の授業も休みになっていた。国の中でも大きな影響力を持つ軍部が大々的に主催をするということもあるが、養成所の生徒たちはその多くが男子生徒である為、講義を開いても大会の行方が気になって、てんで授業に身が入らない為である。
ということで、この期間中は、教授する側の講師陣は、お役御免とばかりに暇となるのだった。皆、其々別に本職を持つ者たちでもあるので、これ幸いと束の間の休息を取る者もあり、はたまた同じように男としての秘めた血が騒ぐ者は、観客の一人として試合会場で大声を張り上げることで日頃の鬱憤を晴らしたりもした。
「このような所にいてよろしいのか?」
レヌートは自分の分のお茶に口を付けながら尤もらしい問いを発して、対面のソファーにゆったりと足を組む気品ある男を見た。
レヌートの記憶が正しければ、この男は軍部の人間であるばかりでなく、第三師団の師団長という肩書を持っている筈だった。第三の代表者が、このような所で油を売っていてよいのか。今更ながらのことを心配したのだが、対する客人は男にしてはやけに鮮やかと思われる笑みを浮かべて、ゆっくりとお茶に口を付けた。
「ああ。問題ありませんよ。私はこちらの方はからっきしですからね」
そう言って細くて長い指先を小さく縦に振って、言わんとすること―――要するに剣の腕前のことだ―――を仄めかした。
「うちの所は副団長が張り切っていますからね。適材適所というものですよ」
だが、代表者としてその部下たちの雄姿を傍らで見物しなくてもよいのかとレヌートは思ったのだが、そのことは敢えてこの場では触れなかった。
「それにしても一体、どんな風の吹き回しですかな?」
イオータが、喉の奥を小さく鳴らして、からかうように隣に座る第三師団・団長ゲオルグ・インノケンティを見遣った。
レヌートはこの度の訪問の用件をどうやって切り出そうかと思っていたのだが、イオータのその台詞に手間が省けた形となった。
「宮殿で面白い話を小耳に挟んだものですからね」
ゲオルグは、そう言うと意味深に含み笑いをした。
艶やかな笑みを浮かべたゲオルグの対面で、レヌートは控え目に首を傾げた。
「面白い話………ですか」
「ええ」
それが、ここを訪ねて来ることとどのような関係があるのだろうか。
「宮殿ということは、私の管轄外ですね」
養成所の講師をする以外は、専ら神殿か、その管轄下に置かれている街中の治療院に顔を出すくらいとその行動範囲が限られているレヌートにしてみれば、宮殿での話は自分とは関わりが無いように思えた。
ということは、イオータを探していて、偶々ここにかち合ったというのだろうか。そう思ってゲオルグを見れば、その色素の薄い明るい灰色の瞳が、小さく煌めいたように思えた。
「いえ、ザガーシュビリ殿にも関わりのあることですよ」
「私にも……ですか?」
「はい」
尚も首を傾げる落ち着いた物腰の壮齢の神官に勿体ぶるような素振りを見せてから、ゲオルグは徐に切り出した。
「ザガーシュビリ殿が、今、後見人として面倒をみている生徒が居りますでしょう?」
―――――――大変優秀だと評判の。
そこでゲオルグは、レヌートの反応を窺うように言葉を切った。
「その子に関することで、少しお聞きしたいことがありましてね」
「…………リョウのことか?」
少しの間を置いて、レヌートの口から出た声は、予想よりも硬い響きを持っていた。
無言のまま、ゲオルグは相手の問い掛けに対して肯定をするようにすっと目を細めた。
室内の空気に緊張のようなものが走った気がした。
レヌートが今現在、面倒を見ている生徒というのは、一人しかいない。義弟を仲立ちにその身を引き受けた少し風変わりな空気を持つ人物だった。
その子にこの男が一体何の用があるというのだろう。
「ふむ」
それまで沈黙を守っていたイオータが不意に間に入った。
「それは、この間の会議の件ですかな?」
そう言って、隣に座るゲオルグを流し見た。
怪訝そうな視線を寄越したこの部屋の主に、ゲオルグの発言に思い当たる節のあったイオータが、昨日、リョウを伴って宮殿内の会議に参加したことを明かした。それは、鉱物資源と鉱山開発を行っている鉱脈の存続の是非を問う調査会の一幕で、そこで試験的に採掘されていた鉱石の原石をリョウに加工させたのだとイオータは語った。イオータとしては、自分の講義を選択した生徒に対する修了試験の意味合いと実益を兼ねていたらしい。
「あの子は、鉱石処理の能力も発現しているのですね?」
レヌートが専門とする【祈祷治癒】の分野の他に薬草学一般の知識を得る為の講義を幾つか選択していたことは聞き及んでいたが、その中にイオータが教授をする【鉱石処理】の分野が含まれているとは思わなかった。
「そうじゃな。儂としても教えがいのある生徒じゃわい」
「成る程」
イオータの説明にゲオルグは、何かを考えるように目を伏せた。
ゲオルグが小耳に挟んだ興味深い話というのは、イオータが宮殿内に弟子を連れてとある会議に参加したということだった。まだ年若いどこの者とも知れぬ少年を重要な会議の席に同席させたということで快く思わない者もいたというようなことだった。だが、それと同時にそれだけイオータが見込んだ人物が現れたということで、珍しいこともあるものだと半ば奇異の目で見られたりもしたようだ。そして、その者は一風変わった顔立ちをしていたということで中には警戒心をもった者もいたようだ。
「それでは、リョウはイオータ殿の目から見ても、かなり優秀な部類に入る生徒ということなのですね?」
確認の為に言葉を重ねれば、
「そうじゃな」
地質学者は、小さく頷いて見せた。
「それよりもお前さんは、あの子を知っておったのか?」
「ええ。こちらで何度か言葉を交わしています」
「相変わらず耳の早い男だ」
「お褒めに預かり恐縮です」
「褒めてはおらんわ」
飄々と嘯いた男にイオータは小さく鼻を鳴らしたが、
「おや、そうですか」
相手はまるで気にも掛けていないように柔らかく微笑んだ。
それで、口慣らしが済んだらしかった。
―――――――単刀直入にお聞きします。
そう前置きをしてから、ゲオルグはイオータとレヌートを静かに見つめた。
「リョウは、ガルーシャ・マライの縁ではありませんか?」
それは、現時点でゲオルグが弾き出した一つの仮定だった。それを確かめるべく、この場所に訪いを入れたのだ。
これまで独自に集めた様々な情報を再び精査して改めてみれば、点と点でしかなかった切れ切れの小さな独立した断片が、何らかの直線を作り出していることに気が付いたのだ。
北の辺境にある広大な森の片隅に隠居を決め込んでいたガルーシャ・マライ。その男の影に寄り添うようにして、突如として現れた一人の少年の存在。黒という色彩。異国風の顔立ち。そして【プラミィーシュレ】で追っていたガルーシャの弟子だとされる人物の足跡。そして、【エリセーエフスカヤ】に派遣していた女の情報。これら全てものが、一つの大元から派生していると考えるのが、妥当だった。
不意を突くような問い掛けに、広い室内に暫し沈黙が落ちた。
「リョウが………ガルーシャ・マライの……縁?」
驚きに目を見開いたレヌートの横で、
「それを知ってどうなさるお積りですかな?」
これまでの飄々とした口振りからは一転、イオータが真面目な顔をして、その発言者を静かに見つめていた。
真摯すらある灰色の瞳は、今も濁らずに深淵なる輝きを宿している。言葉の裏に隠された真実を暴きだす眼差し。イオータの瞳は、誤魔化しを許さなかった。
ゲオルグは、観念したように小さく息を吐き出すと、ほんの少しだけ口角を上げた。
「個人的な興味と言ってしまえば、それに尽きるのでしょうが」
そう言って、珍しく困惑気味に苦笑を滲ませた。それは対人関係に置いて、常に腹の探り合いを優先し、己が手の内を簡単に明かさない策士の男にしては珍しい反応だった。
「この春、『ガルーシャ・マライが旅立った』と風の噂に聞きました」
それは、ゲオルグが長を務める第三師団の伝令の獣たち経由で聞きだした情報を分析し、集めた上で導き出した一つの結論だった。
稀代の術師と謳われた謎の多い男の去就が宮殿内で取り沙汰され始めたのは、今年の夏の終わりから秋の初めの頃だった。
これまで、あの男が遠く離れた北の辺境に暮らしているというのは、宮殿内でも周知の事実であったが、あの男が隠居を決め込んだのは、今から十数年以上も前のことで、それ以来、ガルーシャ・マライの名が、表だって人々の間に出て来ることはなかった。宮殿内の人々の記憶には、既にその男の名前は、忘却に近い所にあったのだ。その一方、養成所の中では、その昔、教鞭を取っていたガルーシャ・マライを呼び戻そうと画策する動きもこれまでに何度もあったようだが、いつも険もほろろに突っぱねられて、失敗に終わっているとのことだった。
同じ術師として、ゲオルグは前々からガルーシャ・マライに興味があった。今回も降って湧いたような宮殿内でのざわつきにあの男がどのような反応を返すのかを気に掛けていたのだ。
そして、叶うことならば、今一度、あの男と言葉を交わしてみたいと思っていた。あの男の目に今、この国はどのように映っているのか。この世界をどのように見ているのか。それを聞いてみたいと思っていた。
今でもある一定の年齢に達している術師や宮殿内の官吏、貴族たちの間では、ガルーシャ・マライという男の存在は、ある種の伝説のようなものとして生きていた。
ゲオルグの記憶の中にあるガルーシャ・マライの姿は、その昔、術師養成所で講師として教鞭を振るっていた時のものだった。あの頃のゲオルグは、まだ幼く、ガルーシャ・マライという男の本当の凄さというものをこれっぽっちも理解していなかった。隣で机を並べたその他大勢の生徒たちと同じようにガルーシャ・マライに対する評価は、『どこか近づき難い偏屈で変わった男』というものだった。
あの時の自分はなんと勿体ないことをしていたのだろう。もっと積極的にあの講師と関わりを持って、色々な事を学んでおけばよかった。後悔先に立たずとはまさにこのことで、今でもあの頃を思い出すと己の浅はかさと至らなさに歯がみをするほろ苦い記憶だ。
そのガルーシャ・マライが、この春先に『旅立った』のだという。それは、獣たちから得られた情報だった。獣たちは、事実を捻じ曲げたりはしない。故にそこに偽りがあろうはずはなかった。
あの男が、この世を去った。その報せは、ゲオルグの中に思わぬ衝撃をもたらした。
ガルーシャ・マライとて、同じ人であるには違いないから、その寿命に限りがあることは、十分承知している積りだった。だが、それでもまだ先の話だろうとどこかで楽観的に考えていたのだ。
人嫌いと揶揄されていた男だが、王都を去って以来、人と全ての関わりを絶っていたいう訳ではなかった。ごく限られた術師仲間や古くから繋がりを持つ人々は、あの男と細々と関係を保持していたのだ。そして、ゲオルグ自身は、どうにかしてその中に食い込もうと密かに機会を窺っていたのだった。
だが、もう、その機会は、失われてしまったのだ。永遠に、そして唐突に。
その報せを受けた日は、一日、何も手に付かなかった。だが、翌日、あの男がこの世からいなくなったとしても、あの男が遺したものがあるということに思い至った。すると今度は、どうしてもそれを手に入れたいという思いが湧き上がってきた。
ガルーシャ・マライは、北の辺境にある広大な【原始の森】―――人々の間では畏怖を込めて【帰らずの森】とも呼ばれている―――の片隅にひっそりと暮らしているという話だった。ただ、それを伝え聞くだけで、宮殿内はおろかゲオルグの周囲では、誰もその場所を突き留めたという話は聞いたことがなかった。辛うじて伝令に使う獣たちから、そのようなことを聞くだけだった。
ゲオルグは、あの男の住処を知る為にあらゆる限りの手を尽くした。親交があったとされる術師を片っ端から調べ上げ、繋ぎを取るべく手紙を送ったりもした。その過程で、この国の最北端に位置するスフミ村には、あの男が定期的に顔を出していたという情報を手に入れたのだ。そして、そこを手掛かりにあの男が生活をしていたという足跡を辿ろうとしていた矢先、僥倖とも言うべき思いがけない吉報が飛び込んできたのだった。
―――――――ガルーシャ・マライと共に暮らす人物がいる。
―――――――ガルーシャ・マライには弟子がいる。
それを聞いた時は、思わず拳を握り締めて歓喜の声を上げそうになる程だった。全て絶たれたかに見えた糸が繋がった。そして、その後、その周辺を洗ってゆく内に(ここまで来ると執念のようなものだ)、その人物が、この国で確実に息をし、生活を営んでいるということが見えてきたのだ。そして、今度はその者が【プラミィーシュレ】に向けて旅立ったという話を聞き及び、そこにかねてより懇意にしていた有能な女を派遣したのだ。女は情報収集能力に長けており、独自の伝手を持っていた。
そこで得られた情報は、その者が黒髪に黒い瞳を持つ少年だということだった。
だが、興味深い情報は、それだけではなかった。思わぬ副産物も転がり込んできたのだ。
それは、女が訪れた【エリセーエフスカヤ】―――そこは、【プラミィーシュレ】の有力者たちが客人たちを持て成したり、情報交換によく使うとされるサロンのような場所だった―――で【夜の精】を彷彿とさせる美しい女が現れたというものだった。その女を同伴していたのが、第七の双璧と呼ばれる二人と第五の団長ということで、女にとってはそちらの方が、意外性が大きかったようでしきりにそのことを話し、途中で情報が錯綜してしまって閉口したのだ。改めて女の元を自ら訪ねて、その辺りのことをもう一度、整理し直した。そして、少しずつ散り散りになっていた欠片の断片を合わせてゆくと、それが一人の人物を浮かび上がらせるモザイク画のようになって来たのだ。
「もし、その子がガルーシャ・マライに学び、何からのものを引き継いでいるのだとしたら、その辺りのことを聞いてみたいと思ったのですよ」
―――――――あの男が生きた証を知る者として。
「そして、あわよくばお前さんの所に引き入れたい………という訳か」
老講師は、ゲオルグの下心などお見通しだとばかりに小さく鼻で笑った。
ゲオルグは、それには答えずに人好きのする笑みを浮かべて見せた。
敢えて否定はしなかった。ここで否定をした所でこの老講師には直ぐに看破されるだろう。そして、その笑みが、やがて苦笑のようなものへと変化していった。
ガルーシャ・マライ云々は抜きにしても、今の所、そのことを打診した当人からは色良い返事をもらえていないのだ。接触した当初は、簡単に相手を言いくるめられるかとの予想に反して、その人物は驚くほどに真っ直ぐで、一本芯の通った人だった。攻略するには中々に骨が折れそうだ。かといって、ゲオルグは諦めた訳ではない。そして、今、その者がガルーシャ・マライと繋がることを導き出し、余計に手元に引き付けて置きたいと考えるようになったのだ。
何らかの意思疎通を測っていたゲオルグとイオータの前で、一人、ソファーに座るレヌートは、呆気に取られたような顔をしていた。その大きな手は、何かを考えるように口元に当てられていた。
一方、ゲオルグは、イオータの態度に自分の仮定が正しかったということを確信した。思えば、このイオータも隠遁生活を営んでいたガルーシャ・マライと親交があったと目される数少ない者の一人であったからだ。もしかしたら、その辺りの事を生前、ガルーシャ・マライから聞き及んでいたのかもしれなかった。
「あと、もう一つ。これは、ザガーシュビリ殿にお尋ねしたいのですが」
そう前置きをして、ゲオルグはレヌートの方へ顔を向けた。
対するレヌートは、これまでの自分の考えを整理するように茶を啜った。お茶は既に冷めていたが、その分、喉通りが良かった。それで、少し落ち着きを取り戻した。
「リョウに、兄弟の類、もっと言ってしまえば、姉か妹といった近しい女性の肉親者はいるのでしょうか?」
レヌートの孔雀石を模したような深い緑色を湛えた瞳が瞬いた。
「いや、詳しくは知らないが、義弟の話では身寄りの無い孤児だと聞いている」
―――――――それが、どうかしたのか?
「そうですか」
レヌートにはゲオルグの質問の意図が全く読め無かった。だが、ゲオルグは望む答えが得られたのか、満足そうに綺麗な笑みを刷いた。
【プラミィーシュレ】に現れたという美しい女性の話。懇意にしている女に依れば、第七のユルスナールが同伴していたのは、小柄な女だったという。まるで【夜の精】のようだったとお伽噺に出てくる精霊を捕まえて、皆、口々にそう評していたのだと言った。誰もお伽噺の中の存在である【夜の精】を本当に目にしたことのあるものはいないというのにだ。艶やかな黒髪を結い上げて、その漆黒の瞳は一度目を合わせたら、魂ごと吸い込まれてしまいそうな不思議な魅力(というよりも魔力かもしれない)を持っていたとのことだった。
この国では余り見かけない黒い色彩と異国風の顔立ち。その姿を垣間見た女も其の者がこの国の女たちとは明らかに異なる風貌をしていたと語った。
これまでに手に入れた情報を寄せ集め吟味して、ゲオルグがまず思い浮かべたのは、リョウのことだった。
リョウと初めて言葉を交わした時のことはよく覚えている。養成所内に優秀な生徒がいる。日頃から懇意にしている講師たちの話の中で出て来た未来の術師の存在にゲオルグは直ぐに興味を持った。逸材であれば、自分の所にも引き入れたい。有能な人材は、貴重だった。そして、それとなく探りを入れて、どうせならとその者の人と成りを見る為に接触を図ったのだ。
リョウの第一印象は、大人しく控え目な少年というものだった。勉強熱心のようで復習の為にか開いていた帳面には、びっしりと細かい字で埋め尽くすように様々なことが書かれていた。
その色彩と顔立ちを見た時、報告書にあったガルーシャ・マライのことが直ぐに頭を過ったが、その時はその思いつきは、余りにも都合がいいように思えたのだ。単に髪と瞳の色が同じ黒というだけだ。その色彩は珍しいには違いなくとも、ただそれだけの情報で判断を下すのは、お粗末だった。
少し探りを入れれば、レヌートの推薦で養成所に入学をしたことが分かった。そして、その身元保証人の所には、第七の副団長であるシーリス・レステナントの名が記載されていた。入学申請書の台帳を、伝手を使って見せてもらったのだが、そこには出身はスフミ村とあった。
スフミ村は、この国最北端の辺境の村だ。その村には、ガルーシャ・マライと親交のあった術師が暮らしていた。かつてゲオルグもその術師宛てにあの男の消息を尋ねる手紙を出したことがあったが、返ってきた返事は当たり障りの無い儀礼的なものだった。
そのスフミ村の出だという少年が、距離的には比較的近いとはいえ、北の砦にいる軍部の人間と個人的な繋がりを持っていることをゲオルグは意外に思った。術師になる為の申請をするのならば、何故、その村にいる術師を仲介にしなかったのだろうか。その辺りの疑問はもう少し調べてみるか、機会があればさり気なく当人に聞いてみるしかないだろうと考えていた。
リョウの優秀さは、さり気なく会話をした講師たちが口を揃えて太鼓判を押した。そして、とても意欲的で熱心であるということを聞いた。よく質問をし、その中身も中々に鋭いものであるのだという。
実際に言葉を交わしてみると、大人しく自己主張をしないように見えて、その実、自分の核となるものをしっかりと持っていた。外見だけを見るなら、その辺りに居そうな普通の少年だ。だが、少し会話をすれば、落ち着きがあり聡明さの片鱗を覗かせる。世間話をする傍ら、それとなく術師に登録をした後の予定を聞いたが、軍部への誘いは、はっきりと否定されてしまったのだ。だが、その理由付けは曖昧なものでゲオルグは納得した訳ではなかった。
引き続き、ゲオルグはリョウの周辺事情を並々ならぬ関心を持って探っていた。自分の所に引き入れる為の策を色々と練る為だ。そして、少しずつ明らかになってくる事柄にゲオルグはある一つの仮定に行きついたのだ。
リョウは少年にしても線の細い小柄な方だ。何よりもその顔立ちと色彩が女の説明に合致する。
簡素なシャツにズボンを履いて男と同じ格好をしているが、その中身が本当は女性だったとしたら。少し考えが飛躍しているかとも思われたが、そう考えると、これまでの小さな欠片が実に生き生きと動き始めたのだ。ユルスナールが手にしていた封書の印封が形作った光の粒子―――あれは呪いを掛けた者の【想い】が結晶化したものだ―――が浮かび上がらせたのは、美しい女のしどけない後ろ姿であったが、その映像はゲオルグが良く知るこの国の女たちの豊満な肉体と比べると幾分控え目というか、どこか中性的な匂いのするものだった。
あの贈り主が、養成所でも高い素養と持つと目されているリョウであったならば。そう考えると全てが繋がった。
「リョウは………女性なのですね」
思わず漏れた―――というよりは、やや確信犯的な匂いもあるが―――自己内対話に、正面に座るレヌートが小さく肩を揺らしたのが分かった。
狼狽えた。もしくは、動揺をしたようだった。そこでゲオルグは、レヌートには何か思い当たる節があるのだということに気が付いた。
「ご存じではありませんでしたか?」
態とカマを掛けるようにゲオルグはそのような問いを発していた。
レヌートはその繊細な眉を困惑気味に下げて、緩く頭を振った。
「シーリス殿は何も仰らなかったのですか?」
「ああ」
レヌートは上半身を前方に屈めると膝の上に肘を突いて、縦に合わせた両手で覆うように口元に宛がった。そして、大きく息を吐き出した。
レヌートの脳裏には、昨日、改めてリョウの首元の怪我を治療した時のことが思い浮かんでいた。
傷を塞がり難くする毒草、【ヤード】の毒が回っているらしい。その事実にも仰天したのだが、首元に磨り潰した中和剤となる薬草を張り付けた時に、男ならばある筈の喉仏が見当たらないことに気が付いたのだ。顎を上げて反らした首元は、細く、ともすれば折れてしまいそうなくらいだった。そこに走る刃傷の跡がやけに痛ましく見えた。
その細い首元に、あるべきはずの小さな凹凸はなかった。まだ声変わりをしていないのではとも考えたが、リョウがそこまで幼いとも思えなかった。
その時の事をここで口にして良いものかとレヌートは逡巡した。ゲオルグの口振りでは、リョウが女であることを確信しているようにも思えた。
女性であることを隠し、態と男の服装に身を包んでいる。それには何か重大な理由があるのだろうとレヌートは考えた。本人がその辺りのことを隠している以上、周囲がとやかく口にすることではない。
「性別など、どちらでも構わんじゃろうに」
イオータがお茶を啜りながら、窘めるような言葉を吐いていた。
「男だろうが、女だろうが、その者の核は変わらぬ。そのようなことに囚われるのは、笑止千万」
それは、術師が心得として持つべき基本理念のようなものでもあった。獣たちと交わる時の心得として、その昔、耳にたこが出来るくらい繰り返し説かれたものだった。
獣たちは、人に対峙する時、その相手の核を見る。性別など瑣末なことなのだ。
「妙な気を起してはおらぬだろうな?」
ゲオルグの手広い女性関係の噂を知っているイオータは、釘を刺すように隣を見た。
リョウが女性であることを知り、その手のちょっかいを掛けるのではないかという心配をしたようだ。
「おやおや、イオータ殿まで。人聞きの悪いことを仰らないでください」
ゲオルグは可笑しそうに小さく喉の奥を鳴らした。
「どうだかのう? そなたの周辺はなにかと姦しいからの。あらぬ鞘当てに巻き込まれたりしたら堪ったものではないわ。のう、レヌート殿?」
ゲオルグの良からぬ噂は、レヌートの耳にも及んでいたのだが、いきなり話を振られて、分別ある大人である穏やかな気性の神官は、ただ曖昧に微笑んで見せるに留めたのだった。
ゲオルグは心外だとばかりに肩を竦めて見せた。
「あの子には、この上なく大きな後ろ盾がありますからね。人の者に手を出す趣味はありませんよ」
―――――――私もそこまで酷くはない積りですよ?
術師としての興味はあるが、女としてそういう目で相手を見ている訳ではない。それにあの子の後ろに控える第七の面々を敵に回すのは限りなく面倒なことだった。
そうきっぱりと口にしたゲオルグに、イオータはどこか胡散臭そうな目を向けていたが、敢えてそこには触れなかった。
「それよりも、ザガーシュビリ殿」
―――――――神殿の方で、なにやら妙な動きがあるようですね。
これまでの和やかな表情からは一転、不意に真面目な顔付きをしたゲオルグは、やけに真剣な眼差しで探るように神殿の神官を見ていた。
レヌートがその腰に巻く帯の色は淡い紫。それは神官でも高位に在ることを意味していた。
「妙な動き……とは?」
仰ることの意味が分かりませんが―――とでも言いたげに、レヌートはその発言者の真意を測るように男の薄い灰色の光彩を見つめ返した。
それにゲオルグは鷹揚に微笑んで見せた。
「この期に及んで下らぬ隠し事は止めにしませんか? 時間の無駄です」
無表情になったレヌートを諭すように、ゲオルグは静かに、だが、辛辣とも言える空気で言葉を継いだ。
「我々は、もう少し互いに寛容な所を見せるべきだと思うのですが、如何でしょうか?」
同意を求めるようにゲオルグがイオータを見れば、
「それは話の内容にも依るじゃろう」
年老いた地質学者は、その発言者をちらりと横目に見ながら、ゆっくりと息を吐き出した。
「先日、妙な噂を耳にしましてね。何でもそちらでは近々儀式を予定しているのだとか、いないのだとか」
ただでさえ微妙な力学の上に均衡を保っているように見せかけている宮殿と神殿の力関係の天秤は、どちらかからのほんの少しの力加減で大きく傾く危険性を秘めていた。前回の神殿側による突発的な儀式執行によって宮殿内では、神殿関係者への不信感がまだまだ強く残っていた。そのような状態で、宮殿側への打診無しに再び儀式が行われることになったら、それこそ宮殿と神殿の間の溝は深まるだろう。今は国内で無駄な混乱を招く時ではない。
ゲオルグが両者の関係亀裂を憂慮するには訳があった。関係が悪化すれば、系統は違えども同じ【術師】として、宮殿内での第三の立場は思わぬ風当たりを強く受けることになるのだ。とんだとばっちりと言ってしまえばそうに違いないのだが、王族を始めとするこの国の中枢部には、まだまだ術師という存在を忌避し快く思わない者たちも多くいたからだ。そのような理由から軍部の中でも術師を多く抱える第三師団はかなり特殊で、常にその立場は中央の影響を被り易かった。ゲオルグは第三の取り纏め役として、自分の部下たちを守る責務があった。
「単なる噂話ならば良いのですが、こちらとしても二年前の二の舞は踏みたくないですからねぇ」
その時も、神殿側の突発的行為を快く思わない中枢の貴族たちの煽りを受ける形で、同じ【術師】として、第三は何かと面倒事の矢面に立たされることになったのだ。粘着系の厭味の応酬には殊更辟易した。そして、ここぞとばかりに日頃から第三に対して良い印象を持っていない者たちが、加勢する形になった。【術師】という共通事項の前に、向こうは神殿に仕える【神官】で、こちらは国に仕える【軍人】であるという根本的な立場の違いがあるのだが、批判をする側にとってみれば、腹立たしい限りだが、関係の無いことであったようだ。
「………そのような動きはこちらでは関知していませんな」
幾ばくかの間の後にレヌートはそう口にした。
「そうですか」
ゲオルグはその返答に一瞬、目を眇めて見せたが、それ以上は突かなかった。
神官は、何かを隠しているようだ。ゲオルグの勘はそう訴えていた。だが、ここでは明かす積りはないようだ。それならば、こちらとしても絶えず注意を払いつつ、その周辺を独自に探ってみるしかないだろう。
「では、もしそちらで何か動きがあった場合には、こちらに知らせては頂けませんか。私としても何らかの対策を取る必要がありますので」
「ええ。お約束いたしましょう」
相手がどこまで譲歩を見せるかは分からなかったが、取り敢えず、そう締めくくることでこの件は一旦、不問とした。
「それでは、儂はこの辺でお暇するとしましょうかな」
ゆっくりと立ち上がったイオータのその一言で、この少し風変わりな面子を揃えたお茶会はここで終わりとなった。
養成所の棟内をゆっくりと歩きながら、イオータは一人、回廊に等間隔で設けられている窓辺の一角に立ち止まった。武芸大会が行われている宮殿前広場の方角からは、湧き上がる歓声と集まった人々の熱気のようなものが切れ切れにこちら側にまで届いて来た。
毎度の事だが、随分と白熱しているようだ。あの大勢の観客の中にあの子の姿も紛れているのだろう。
イオータの脳裏には、少しはにかむようにして控え目に微笑むとある生徒の顔が浮かんでいた。そして、その穏やかな笑みの上に斜めに構えて人を食ったような笑みを張り付けた一人の男の姿が重なった。
―――――――やれやれ。何年経っても、あの男の周りは騒がしい。
あの男から伝令が飛んで来たのは、今年の春の初めのことだった。自由気ままな性質で束縛を嫌う術師としての特徴を顕著に備え、それを遺憾なく発揮していた男だった。あの男のことは、その能力の高さゆえに周囲が放っておかなかった。
あの男が連絡を寄越すのはいつも唐突で、その内容も突拍子もないことが多かった。往々にして人騒がせな男だ。
そして、今回も。
伝令がもたらした手紙の中には、イオータにとっては予想外の事が書かれていたのだ。余りのことにイオータは、その文面を何度も何度も読み返した。そして、その内容に驚愕の余りもう少しで顎が外れそうになったのも記憶に新しかった。
手紙には、あの男が近いうちに『旅に出る』とのことが書かれていた。天命には逆らえない、それはもう受け入れているから良いのだが、唯一、心残りにしていることは、今、共に暮らしている子を一人置いていってしまうことだと書いてあった。
イオータが仰天をしたのは、その男の『旅立ち』ではなく、その後の『共に暮らす者がいる』という部分だった。他人からの干渉を酷く嫌っていたあの頑固な男が、都会の真っただ中からど田舎の何もない所へ引っ込んだあの孤独を愛する男が、誰かと共に生活をしているということが、信じられなかったのだ。
今後のことはどうなるかは分からないが、もし、その子が王都に出てきて、そちらに顔を出した折には、よくよく面倒をみてやってくれ。そんなことがしたためられていた。
生涯独り身を貫き己が血筋を残さなかったあの男が、まるで人の子の親になったかの如く愛情を滲ませた文面を書いて寄越したのだ。何の心境の変化か。はたまた天変地異の前触れか。そのようなことを疑うほどの驚きだった。
あの男がどこまで先を見通していたのかは分からない。だが、あの男が残した愛し子は、季節が移ろい、そして再び巡ろうかという頃になって、自分の前に現れた。あの男がその昔、使っていた古ぼけた鞄を背中に担いで。
あの男の手ほどきがあった為かは知らないが、その子は、並々ならぬ高い素養を持っていた。まるで何かの示し合せのように。
あの男と同じく、その子の周辺も実に賑やかだった。あの子が無事、術師として登録の認可が下りるようになるまでは、陰ながらあの男が果たせなかった責任を負ってやろう。それが、せめてものあの男の旅立ちの手向けになるだろう。
そして、再び、小柄な体躯の老人は、長い外套の裾を軽やかに翻しながら、己が研究室に向かうべく踵を返したのだった。




