街中の治療院
衝撃の事実から一夜明けて、久し振りにユルスナールと濃密な一時を過ごしたリョウは、明け方、【アルセナール】へと戻って行く男の姿を窓辺に立ち、見送った。
昨晩、突然、ユルスナールが養成所の学生寮の自室を訪ねて来たことに驚きを隠せなかったが、再び男と肌を合わせて、そこにある【想い】を確かめることができて、沈んでいた気持ちが再び浮上できたのは、確かなことだった。
そして、再び、新たな気分で新しい日を迎えた。身体は疲れていたが、心は満ち足りていた。
寮の食堂で簡単な朝食を取った後、リョウは支度を整えるとシーリスの義兄でもある講師、レヌート・ザガーシュビリの元に向かった。今日はこれからレヌートの講義を受けることになっていた。
それから、レヌートに連れられてやってきたのは、養成所内の教室でもレヌートが使っている講師の部屋でもなく、養成所からは離れた王都の街中だった。そこにある神殿の管轄下に置かれている治療院で実践的な祈祷治癒の授業を行うことになったのだ。
神殿所属の神官であるレヌート・ザガーシュビリは、昨日、神殿でリョウが見かけた神官たちと同じように簡素な白い上下に艶やかで柔らかい薄紫色の帯を締めていた。その上に同じように少しくすんだ色合いで洗いざらしのたっぷりとした襟の無い外套を羽織っていた。一目で神官だと分かる装いである。
穏やかで知性溢れる眼差し。その顔立ちも『神官』という言葉から想像するに違わず、密やかで慈愛に満ちた優しいものだった。
神殿の役割の中には、神に祈りを捧げ、その宣託を聞くという未来予知や占いの分野の他に、知の集積を担うという一面もあった。古くから様々な知識を集め、分析をし、そして系統的に纏め上げて行く。神殿に仕える神官たちは、長きに渡り、神に仕える傍ら、この土地に暮らす人々の模範者であり、助言者であり、先導者のような立場でもあったのだ。所謂、知識人というものだろう。
そして、学問や知識の集積から派生した医薬の分野に於いても、同じようにその先導的立場にあった。
神官たちは皆、高い素養の持ち主だ。多くの人々が既に失ってしまって久しい古来の能力を保持していた。この国、この地域のみならず、世界的に見ても、能力を持つ【術師】の数は年々、減少傾向にあった。そういった世界情勢の中でも、神殿は、常に素養のある人間を多く抱えている場所であり、そういう意味で、人知の最後の砦となるべき存在でもあった。逆に言えば、昔から、そのように素養のある人間を積極的に集め、囲ってきたともいえる。
今では珍しくなってしまった能力の内、神殿が脈々とその伝統を引き継いできた分野の中に【祈祷治癒】があった。【祈祷治癒】とは文字通り、神への祈りの文言を紡ぐことで、人本来に備わる治癒能力を一時的に高め、それを引き出すことで病や怪我の治療とするものである。
基本的に民に開かれた場所である神殿は、病を得た人々を広く受け入れ、癒す場でもあった。困窮した人々に手を差し伸べる慈愛の精神と奉仕の精神を引き継いでいた。そういった流れから、この国の首府である王都【スタリーツァ】は、唯一、神殿が存在するお膝元でもあり、街中には、神殿が管理する治療院が数か所、設けられていた。
かつては神殿内にそういった病に苦しむ人々を受け入れる場所があったとのことだが、街が発展して大きくなるにつれて様々な不都合が出てきた為、現在は、神殿内から街中にその拠点が移されているとのことだった。
神官たちは持ち回りで、この治療院に祈祷治癒を専門とする治療師として入った。
代金は基本的に取らなかった。ここに派遣される治療師が、主に見習いから一つ位を上がったくらいまでの新米神官が殆どだからだということもあるが、そこには昔ながらの奉仕の精神が生きている為でもあった。代金を受け取るとしても少量の薬草代に少し毛が生えたくらいのもので、貧困に苦しむその日暮らしのような人々からは何も取らなかった。
この街には他に薬師も医療の分野を得意とする【術師】も多く居を構えている。腕が良いと評判の者もいて、金持ちや金銭的に余裕のある人々は、大抵がそちらに行った。それに貴族は、皆、昔から懇意にしている専属の薬師や術師を抱えているものである。
それに対して、こちらの治療院にやってくるのは、貧しい人々が多かった。薬を買うお金も持たない人々だ。
煌びやかで華やかな王都の中で埋もれてしまいがちな厳しい現実が、ここには見てとれた。街が大きく栄えていればいる程、そのような暗部は自然と大きくなるものだ。人が集まれば、職を求めて外から様々な人が街中に入り込む。一旗挙げようと希望を胸に都会にやってきても、そこで誰もが上手く行くという訳ではないからだ。
神殿の治療院がある場所は、一般的な賑やかな商業区域の中心からは外れた、少し寂れた所にあった。術師養成所や【アルセナール】がある宮殿に近い区画とは、天と地ほどの差があった。
【プラミィーシュレ】で少し陰鬱な脇道に入った時のような独特な空気が、いかがわしさのようなものとして漂っていた。道の端には、空になった酒瓶が転がり、荒んだ赤ら顔の傭兵崩れのような柄の悪い男たちが安い酒場に屯する。酔っ払いの喧嘩やいざこざの絶えないような場所でもあった。治安はお世辞にもいいとは言えないだろう。停滞し、淀んだ空気がそこかしこに影のように潜んでいた。
だが、この街にも当然のことながら、【プラミィーシュレ】のように治安維持を司る専門の軍部があると聞いていた。【プラミィーシュレ】はドーリンの所の第五師団が統括していたが、首府である【スタリーツァ】は、第四師団の管轄下にあるのだと過日、シーリスより教わった。
王が住まうお膝元であるということもあるのだろうが、それなりに街中の治安維持組織は、しっかりと機能しているとのことだった。第四師団の詰め所は、【アルセナール】にもあるが、【アルセナール】は、基本、中央との折衝や軍部の横繋がりでの調整をするような本部であるので、街の治安維持機能としては、その中心部に近い商業地区の傍らに専門の詰め所があるとのことだった。
リョウが訪れた治療院は、その第四師団の詰め所から見ても、もっと場末の区画にあった。
治療院は、石造りの小さな診療所のような趣だった。規模は驚くほどに小さい。昨日訪れた母体である神殿が驚嘆に値するほどの大きな施設であったので、その息が掛かった場所であれば、それなりのものだと思っていたのだが、どうも予想とは違ったようだった。
その辺りの事を純粋に疑問としてレヌートにぶつけてみれば、穏やかな気性の壮年の神官は、ほんの少しだけ困惑に似た苦々しい顔をその優しい面立ちに浮かべて、かつてはそれ程でもなかったのだが、近年、こういった奉仕活動の分野を縮小しようという動きが神殿の内部で出てきており、年と共に規模を縮小せざるを得なくなっているのだと目を伏せて語った。神殿の上層部の中には、このような街中に貴重な若い人材を回す余裕などないと主張する声も高く、それが近年、富みに強まっているのだと寂しそうに微笑んだ。
神殿内では、先読みや宣託を得る儀式の方に力を入れようとする流れが出てきている。神殿のそもそもの成り立ちでもある古来よりある原点に回帰しようとする動きが強く出始めているのだと言った。
近年、この国の中での神殿の立場は、以前に比べても弱くなっていた。その傾向を憂慮する声が、神殿の内部で高まっているとのことだった。神殿の神官たち、中でも、主に上層部では、この国の未来を占い、正しい宣託を得ることでこの国を良い方向へと導いてきたという自負があった。
昨今は、国政、つまり宮殿への発言権を強める為に、かつての威光を高めようとする動きがあった。その中では、神殿の上層階級、主に神官長の補佐の間で熾烈な派閥争いのようなものが生まれているらしい。神殿は、神官長を筆頭にその下に様々な階級の神官たちが集まる組織ではあるが、女神リュークスへの信仰を取り去れば、そこに残るのは、どうやら一枚岩の組織ではないらしい。神官と雖も人であり、この国に政治的に組み込まれた組織であるがゆえに、そこには随分と俗物的な固執や権勢欲、及びキナ臭い動きが見え隠れするとのことだった。
従来の伝統を重んじ、古き良き時代に回帰しようとする【保守派】とそれでは世の中の流れに取り残されるだけだと反発をする【革新派】の対立が、水面下にはあった。民の中にある神殿、大地の中の均衡を重んじ、政治からは一歩引いた立ち位置を取ろうと主張する一派とその反対に、政治に食い込み、その発言権を強めようと画策する一派があった。
革新派の中には、神殿に祀られている女神【リュークス】の力を高める為に、古代伝承の中で、その伴侶と目されていた一柱の男神【エルドーシス】の復活に向けての儀式を行おうと目論む者たちがいた。【エルドーシス】信仰を復活させれば、リュークスの力も相乗効果として強まるであろうとの考えだった。それによって、より正確で威力のある宣託を得ようということだった。約二年前に行われたという宣託を受ける儀式は、この革新派の一派が、強引に推し進めたものでもあったのだ。
そのような神殿上層部の事情はさておき。
治療院は、その後も、志ある末端の神官たちの手によって、規模の縮小を余儀なくされながらも細々と運営されているとのことだった。
レヌートは、偶にこうして治療に当たる新米神官たちを励ます形で様子を見に訪れているとのことだった。
レヌートは、本来の神官である務めを忘れ、派閥争いに無駄な時間と労力を割いている現時点での上層部の方針を憂慮していた。神に仕える者が情けないというのが本心なのだが、この神殿が、遥か昔、この国に取り込まれた時点で、政治的な色合いを強く帯びてしまったことは避けて通れないことだったのだ。
以来、神殿の中では、そこから脱却しようとする動きと支配権力に迎合して上手く関係維持を図って行こうとする動きのせめぎ合いの中で、時代の移り変わりと共にその振り子が右にぶれたり左にぶれたりしながら揺れ動いて来たのだ。
それから、リョウは、レヌートの助手のような形で治療院での手伝いをすることになった。レヌートに付き従いながら、訪れた患者の話を聞き、症状を診立て、それに適していると思われる薬草を選び出した。そして、その薬草を症状に合わせて、軟膏のようにしたり、粉末にして飲み薬にしたりと手を加えて行った。
流石、長きに渡って知識を集め、学問の一端として系統立てて来た神殿の治療院だ。在庫する量的には少ないようだったが、その薬草の種類は驚くほど豊富であった。
訪れる患者の症状は、軽微なものから深刻なものまで多岐に渡った。打ち身から捻挫、切り傷や火傷など実に様々だ。でも大概が医者や術師に掛かる金銭的余裕の無い人たちである所為か、傷を放っておいたり、若しくは適切な処置をしなかったりで悪化させてしまっている場合が多かった。
胃が痛いという人の為に、飲み薬にする為の薬草【ジェルーダク】をすり鉢の中でせっせと粉末にしていると、小さな子供を抱えた母親と思しき若い女性が血相を変えて駆け込んできた。
「先生! 子供が鍋を引っ繰り返しちまって!」
わんわんと泣き叫ぶ子供を抱えた母親の言うことには、料理の最中にちょっと目を放した隙に子供が誤って鍋を触り、煮立っている中身をぶちまけてしまったのだという。その時にぐつぐつと煮え立っていたスープが子供の足に掛かってしまったのだ。
「水を持ってきます!」
リョウは、急いで水場に走ると桶にたっぷり水を汲み、治療院の部屋に戻った。懐から小振りの【冷却石】を取り出して、中に入れると手を翳した。
――――――【パハラデェーニェ】
小さな呪いの言葉を口にしてから意識を水と石に集中させ、汲んだ水を冷たくした。
手がビリビリと冷たくなったのを確認してから、その中に真っ赤になった男の子の足を浸すように促した。
「大丈夫。大丈夫だよ」
リョウは不安そうにしている母親と痛みに泣いている男の子に微笑み掛けた。
これである程度、熱を取ってから火傷用の軟膏を塗って様子を見るしかないだろう。
リョウは桶の中にある男の子の足にそっと触れた。単なる水とは違い、塩分や油分の入ったスープは、沸点がかなり高くなっている。お湯を被った時よりも炎症が酷くなることは必至だった。比較的軽度の火傷の場合、その第一段階で患部を冷やすことが肝要だった。
子供はまだ五つになるかならないか位の小さな男の子だった。ここに連れて来られた時は、突然に襲った熱さと痛みとで泣きじゃくっていたが、急に冷たい水の中に足を入れられる形になって吃驚したようだった。冷たさで痛みが麻痺してきたのか、泣きやんでじっと堪えていた。
リョウはその男の子の小さな手になにやら白い人形のようなものが握られているのに気が付いた。良く見れば、犬のような形をしている。
母親にもう少しこのまま冷やす必要があると告げてから、リョウは子供の気を紛らわす為にその人形の事を聞いてみることにした。
「キミが持っているのは、白い犬?」
桶の中に手を入れて、冷却の加減を見ながら、しゃがんだまま男の子に視線を合わせれば、
「違うよ! これは【ヴォルグ】なんだよ!」
泣きじゃくった涙の跡をそのままに男の子が言った。
「へぇ、【ヴォルグ】なんだ」
「【ヴォルグ】でも只の【ヴォルグ】じゃない。長老なんだよ。真っ白いんだから」
そう言って手にした人形をリョウの方に向けた。
「それはすごい。かっこいいね」
「きらきらしてるんだよ。体中が真っ白なんだ」
そう言って嬉しそうに顔を綻ばせた男の子にリョウも微笑み返した。
男の子が手に持つ人形は、なんと【ヴォルグ】の長であるセレブロを模したものであるという。こんな所で小さなセレブロに御対面だった。随分と可愛らしい形になっている。
この国のお伽噺の中に描かれている【ヴォルグ】の長は、聡明で勇ましく、子供たちの間でも人気があるらしかった。実物のセレブロは、それよりもずっと慈愛に満ちて優しい温かな存在だ。そして文句なしに凛々しい。リョウは、何だか身内が誉められているような気分になり、嬉しくなった。
「キミは、セレブロが大好きなんだ?」
「セレブロ? なんだそれ?」
「【ヴォルグ】の長の名前だよ」
その言葉に男の子は目を輝かせた。
「セレブロっていうのか?」
母親の膝の上から身を乗り出しそうになった男の子を支えて、リョウは小さく笑った。
「そうだよ。その毛並みが、真っ白で銀色に光り輝くから、【セレブロ】なんだ」
「そんなの知ってるよ。当たり前じゃん」
「そうだね」
幾ばくかの元気を取り戻した男の子にその背後で母親がほっとしたような顔をした。
「お兄ちゃん、足がびりびりしてきた」
少し、気持ちが解れてきたのか、落ち着いて自分の感覚を訴え始めた男の子に、
「うん。今、冷やしているからね。もうちょっと頑張ろうね。ここでちょっと我慢したら、あとでうんと楽になるからね」
リョウは宥めるように優しく言葉を継いだ。
「ほら、キミのセレブロもその方がいいって言ってるよ」
「うん」
大体の経過を見て、そろそろかと判断したリョウは、母親にその子の足を桶から上げるように声を掛けた。
「よし。もういいよ。頑張ったね。セレブロもきっと誉めてくれるよ」
そう声を掛ければ、男の子はほんの少しだけ嬉しそうに胸を反らした。
それから、リョウは火傷に効くとされている一般的な薬草【ガレーニィエ】を磨り潰した。欲を言えば、金創や火傷に良く効くとされている【ストレールカ】があれば一番いいのだが、贅沢は言えなかった。あれは街中では滅多に出回らない希少な部類の薬草で、おいそれと使われるものではないことを講義の中で知り、リョウは鞄の中に手持ちの【ストレールカ】があったのだが、ここではみだりに使わない方がいいだろうと自粛したのだった。この治療院の在庫の中にも【ストレールカ】はあるようだったが、もっと重症の場合の為に残してあるようだ。代わりになる薬草も沢山ある。万能薬に頼るよりは、手に入り易いその代替品を利用することも学んだ方がいいだろう。
油紙に磨り潰した薬草を馴染ませた軟膏を塗り、それを男の子の足の火傷が尤も酷く腫れている部分、ふくらはぎの辺りに張り付けた。そこに膝下からそっと包帯を巻いて行った。包帯を巻きながら、祈りを込めて、かつて小屋の中で見つけたガルーシャの呪い集の中にあった文言を小さく紡ぐ。
【禍巡りて、源に帰す。我、古の約定に従い乞い願う。古きには再生を。新しきには強靭なるしなやかさを】
包帯を巻き終えると、炎症の部分にそっと手を翳し、神経を集中させた。
―――――――【ウマリャーユー】
末尾の言葉を紡ぎ、そっと手を放した。
「さぁ、これで終わったよ。頑張ったね。セレブロもきっと誉めてくれるよ」
「ほんと?」
「うん。本当だよ」
手作りなのだろう。男の子の手の中にある少し不格好な、それでも味のあるセレブロの人形をちょんと指で突いてから、リョウはそっと男の子の頭を撫でた。
それから母親に今後の注意事項を与え、明日、包帯を取り換えに来るようにと告げた。
「――――――で、いいですよね?」
一頻り治療を終えてから、ずっと傍らにいたレヌートと今日、この治療院に専任で入り、患者を診ていた二年目だというもう一人の新米神官を振り返った。
レヌートももう一人の神官も途中、口を挟まなかった。ということは、その治療の方法自体に間違った点があった訳ではないのだろう。見過ごせない部分は、妥協をする訳はないのでしっかりと訂正が入る筈だからだ。
振り返ったリョウに、レヌートは、静かに頷いた。
「ああ。問題ないだろう」
そして、ここを訪れた際、簡単な自己紹介の時にスタースと名乗った新米神官は、ハッと我に返ったようにリョウを見ると頷いた。
「ああ。大丈夫だ」
先達二人からのお墨付きに漸くリョウもほっと胸を撫で下ろした。
元々医薬の知識があった訳でも専門に学んだ訳でもない、皆、こちら側に来てから見よう見真似で覚えたもので、自分の知識など、医薬と呼ぶにはおこがましい程のもので、恐らく家庭療法の域を出ない物であるとは常々思っていたからだ。
火傷がまだ軽傷の部類でよかったと思った。重症であればきっとどうしていいか分からなかったに違いない。患者を前に気が動転してしまったかも知れなかった。
リョウも子供の頃に誤って熱湯を被ったことがあり、火傷の辛さは身を持って経験していた。あの時も単なるお湯ではなく、塩分の入ったスープだった為、散々な思いをしたのだ。
ひょっとしたら炎症部分が爛れて水膨れができるかもしれないが、今後は、様子を見る他ないだろう。
少し元気を取り戻した男の子を抱いて、母親が帰って行った。
それから細々とした手伝いは続いた。薬草を選び出したり、薬蕩を煮出したり、磨り潰したりと細かい作業を行った。
やってくる人もその症状も実に様々だった。その昔、鍛冶職人をしていたという男や石切り場で鉱石の採掘をしていたという老人もやって来た。彼らには、【プラミィーシュレ】で目の当たりにしたあの特有の痣があった。発症の程度は、遅いようだったが、長年に渡って静かに男たちの身体を蝕んでいることが分かった。慰めくらいにしかならないのだろうが、リョウは現れている症状に合わせて薬蕩となる薬草を選ぶと、ガルーシャの残した呪い集の中からそれに尤も近いものを選んで、心を込めて呪いを唱えながら、治療の手伝いに当たった。
訪れる患者の中には、偶にこうして巡回にやってくるレヌート目当ての人もいた。持病を抱えた恰幅のいい男だった。その人はそれなりの生活水準にあるらしく、暮らしには困っていない裕福な部類の人のようで、いつも薬草代に治療代と称して、幾ばくかの小銭を包んだり、家で奥さんが焼いたというパンなどを差し入れに持ってきてくれるとのことだった。
「俺が今こうしてぴんぴんしてるのも、この大先生のおかげさ」
そう言って豪快な笑みを浮かべた男に、レヌートは大げさだと苦笑を滲ませながらもどこか嬉しそうに笑っていた。
小さいながらもこの場所には、温かい空気があった。それは、きっとこの場所を守っているレヌートを始めとする神官たちの人柄が現れているのだろう。
「少し休憩を入れようか」
やってくる患者の波が一旦、引いた所で、レヌートがリョウに声を掛けた。
「はい。ではこれを片付けてから」
傷口の洗浄に使った洗い桶を手にリョウは立ち上がると戸口から外に出た。
桶の中の汚れた水を洗い場に捨ててから、空になった桶を手にぐっと大きく伸びをした。室内を細々と動いていた積りであっても、薬草を磨り潰したり、薬蕩を煮出したりと一か所で腰を下ろしての作業が多かった為か、身体がバキバキと鳴った。凝り固まった筋肉を解すように肩を回した。
中に戻れば、レヌートがお茶の用意をしている所だった。
小さな簡素な木の丸椅子に腰を落ち着けるとリョウはそっと長い息を吐いた。
「疲れたかい?」
同じように丸椅子に腰を下ろしていたスタースの言葉にリョウは小さく笑った。
「少し。こんなに大変だとは思いませんでした」
本当にこんなにひっきりなしに患者が訪れるとは思ってもいなかったのだ。息を吐く間もなかった。
正直な所を吐露すれば、
「ハハハ。ここは結構患者が多くて、ひっきりなしに人がやってくるからね」
それだけこの地域にこの治療院が根付いているということなのだろう。
リョウはレヌートから差し出されたお茶のカップを、謝意を述べてから受け取った。そっと口に含む。柔らかなほんのりとした甘みが口の中に広がった。
「美味しいです」
思わず笑みを漏らしたリョウに、
「それは良かった」
レヌートも静かに微笑んでいた。
「キミは術師を目指しているんだよね?」
一息吐いてから、新たな患者が来るまでの間、スタースが徐に口にした。
神官の服装に身を包んだスタースの帯の色は赤色だった。
神官たちが腰に巻く帯の色は、そのまま階級を表わしているという。見習いの内が白で、そこから正式に神官として採用され、位を一つ上がるごとに色が暖色系から寒色系に徐々に移行するのだという。最初の位は赤で、その次が橙、黄、茶、緑、水色、青、紫、黒の順になるとことだ。
神官に正式に採用されてから二年目であるというスタースの帯は赤色だ。淡い紫色の帯をしているレヌートは、神官の位の中でも高位の部類で、本来なら、このような場末の治療院に気軽に顔を出すような位にはいないのだとのことだった。それを態々、時間を見つけては、この場所に足を運んでくれているということで、スタースはレヌートに対し、並々ならぬ尊敬と感謝の気持ちを持っているようだった。それは、スタースの態度や言葉の端々によく表れていた。
「ザガーシュビリ殿に師事をしているんだろう? こっちに来る気はなかったのかい?」
神殿で神官を目指す積りはなかったのかと問われて、リョウは緩く頭を振った。
「いいえ。神官を目指すなんて、考えたことはありませんでした」
そんなことなど考えてみたこともなかった。自分は辺境に暮らす田舎者で、世話になった人が偶々術師であったから、それを引き継ぐ形で術師になりたいと思ったのだ。偶々、自分にはそれに見合うだけの素養らしきものがあったからということもあった。
なんの能力も無ければ、ずっとあの辺境でひっそりと暮らしていただろう。この国の中心である王都などという場所を見るのは夢のまた夢のようなことで、でなければ、ここを訪れる機会などなかった筈だ。今回、王都に来られたのも知り合いの伝手を頼ってのことで、その伝手の中に偶々、レヌートが居て、自分を引き受けてくれたのだ。
そう語って聞かせれば、スタースは小さく笑って納得したようだった。
「スタースさんはどうして神官になったのですか?」
「僕は孤児でね。幼い頃、神殿に預けられたんだ。素養の開花が比較的早かったから、神殿の方でも受けれ入れてくれて、お陰で野垂れ死にしないですんだのさ」
そう言ってお茶を飲むと小さく微笑んだ。
語り口は飄々としていたが、その言葉が語るスタースの人生は、実に重みのあるものだった。
途端に気まずそうな顔をしたリョウに、スタースは気にすることはないと笑った。
「だから僕としては恩返しをしている積りかな。神殿にはこれまでかなり世話になったから。少しでも、出来ることをしたいんだ。で、漸く、それができる機会に恵まれたって所かな」
だから、率先してこの治療院に入っては、治療師としての任を全うしているのだと言った。
神殿の神官は、皆、男性だった。それは祀られている神【リュークス】が女神であることと関係をしている。女神に嫉妬を起こさせない為に、仕える者は男のみという取り決めが古くからあるのだそうだ。
それを聞いた時は、成程と思ったものだ。ということは自動的にリョウとしては、自分が望む望まない以前の問題で神官への道は閉じられていたということになる。だが、まぁ、レヌートやスタースにしてみれば、リョウの外見は少年にしか見えないのだろうから、先程のような質問が出たのだろう。
そうして束の間の休憩を挟んでいると、
「スタース、薬草の補充はどうする?」
薬草の棚を改めていたレヌートが、静かに口を開いた。
「ああ。今、必要なものの目録は作っておきましたので、後で【セミョーノフ】に行こうと思います」
「一覧はこれだな?」
レヌートは簡素な木の机の上にあった一枚の紙を手に取ると、中にざっと目を通した。そこに手にしたペンにインクを付けて、なにやら書き足し始めた。
そして、顔を上げるとリョウの方を見た。
「リョウ、すまないが使いを頼まれてくれないか?」
「あ、はい」
レヌートの声にリョウは立ち上がった。
スタースが驚いたようにレヌートを見たが、レヌートは新米神官に何がしかの目配せをした。
「ここから通りを二本挟んで東の方角、【ムィーシュキン】通りに薬草を扱っている【セミョーノフ】という店がある。店先に大きな看板が掛かっているから、すぐに分かるだろう。そこへ行って、この紙を見せて、この一覧にある薬草を用意してもらってほしい」
【ムィーシュキン】通りの【セミョーノフ】。リョウは通りと店の名前を復唱した。
「支払いはどうしているんですか?」
「ああ。後で月毎に纏めて神殿から代金を払うことになっているから、薬草と一緒に受け渡しの確認をこの紙にもらってくれればいい。向こうでも一覧を作るから、この紙と照合して問題が無ければ署名をしてくれ」
「分かりました」
リョウは一覧を手にすると、早速、使いに出掛けることになった。
黒い頭髪を靡かせて、小柄な背中が戸口から颯爽と消えた後、スタースはやや困惑をしたようにレヌートを見た。
レヌートとは自分が幼い頃から知る長年の付き合いだ。スタースは、レヌートが自分と内密な話をする為に、態々、弟子として連れて来たリョウという名の少年を使いに出したのだと分かった。薬草の補充は、別段、急ぐものではなかったからだ。
「何か問題でもありましたか?」
その問い掛けに、レヌートは珍しく逡巡をしたような様子を見せてから、どこか躊躇いがちに口を開いた。
「スタース、キミは、あの少年、リョウのことをどう思った?」
「それは、術師としての素養に関してですか?」
「それもある」
何故、そのような事を訊くのだろう。内心、訝しく思いながらもスタースはこの短い間で感じたことを淡々と言葉にしていった。
「第一印象から言えば、実に落ち着いていますね。判断も的確で実に冷静です。先程の火傷の子供に対する処置は、正直、驚きましたよ。動きに無駄が無かった。それに患者の事を良く見ています」
そこで一旦、言葉を区切ったスタースにレヌートは無言のまま続きを促すように頷いて見せた。
「術師を目指しているということですが、専門は、【祈祷治癒】の分野になるんですか? 薬草の知識は、まだまだだとしても、あの呪いの文言は、我々が神殿で学んだものとは若干、異なります。実際の効果の程は、もう少し時間が経ってみないと分かりませんが、不思議な気を帯びたのを感じました。あの子は、ここに来る前にどなたかに師事をしていたのですか?」
「私も詳しいことは分からないのだが、あの子が暮らす田舎で術師であった人物に初歩的な手ほどきを受けていたようだ」
その言葉にスタースは、考える風に手を顎の辺りに宛がった。
「もし、あの子の能力が本物であったら、神殿としては欲しい所でしょうね。それも喉から手が出るほどに。単なる術師にしておくには勿体ない。神官向きだと思いますよ」
「お前もそう思うか」
ということは行き掛かり上、あの少年の面倒をみることになったレヌート本人もそう思っているということなのだろう。先程の会話から察するに、当の本人は全く神官になる積りはないようだったが。
だが、少し考えた後、スタースが眉を寄せた。
「ですが、あの子の外見は、少し厄介かも知れません」
スタースの言葉に、レヌートもその目をすっと細めた。
そうするとレヌートの印象はかなり変わった。春の陽気から一転、底冷えのする冬の寒さのような剣呑さを帯びた。
そのような顔をするレヌートを久々に見るとスタースは内心、思った。
「確かに。あのような黒髪に黒い瞳だ。革新派に目をつけられたら、大変なことになるだろう」
それは神官たちの中でも急進派である一派が、黒い色彩を持つ人間を血眼になって探しているという噂だった。それも【エルドーシス】復活のための儀式、若しくは新しい宣託を得る為の儀式に利用するという噂だ。
神殿の中で黒い色彩はある種、神聖化されていた。と同時に禁忌でもあった。それは神殿の内部に切れ切れに伝わると言う古い伝承に端を発していた。
【黒は全きを飲み込む力。闇は無限の始まり。そが色を持つは内なる力を宿す。そを神の御許に還せしめよ。言祝ぎに応えむ】
古いリュークスに関する伝承の中にその一節があった。時代が下り、その本当の意味というのは、残念ながら正確には伝わらなかった。神官たちは、そこを自分たちなりに解釈しようとした。
それを念頭に置いたのかは分からないが、二年前に得られた宣託の際の儀式には、黒い闇のような噂がひっそりと神殿内部でも囁かれていたのだ。宣託を受ける際の儀式の為に、黒い色彩を持つ人間が贄として捧げられた。それは黒い髪と黒い瞳を其々に持つ二人の人間だったと。
それは、驚嘆に値するほどのおぞましい話だった。人の命を購いに宣託を得るなど間違ったやり方だ。それが神官ならともかく、この神殿の神官たちの中にそのような色彩を持つ者は一人としていなかった。 そうまでして得られた宣託の内容は、【聖なる森に神の御柱が立つ】という曖昧なもので、その宣託が意味することを神殿はいまだ解明できていなかった。
もしその噂が本当の事ならば、余りにも馬鹿げている。人の命を冒瀆したものだ。
「二年前の噂は本当なのですか?」
スタースは真剣な面持ちで声を低くした。
儀式の為に神殿とは関係の無い人が犠牲になったという話だ。本来、儀式を行うのは、高い能力を持つ上位階級の神官たちだ。秘密裏に行われるという儀式の内容は、その中身が明らかになることはなく、下位の神官たちには、皆目、見当が付かないものだった。
それなのに、あの当時には、実しやかに儀式の裏には犠牲になった人がいたという噂が流れたのだ。それは、どこか作為的ですらあったかもしれない。
「本当の所は分からない。だが、火の無い所に煙は立たないと言うからな」
レヌートはただ、そう口にするとそっと目を伏せた。
「あの子は、キルメクの出身なのですか?」
スタースはふとあの子の顔立ちがこの辺りでは余り見慣れないことに思い至った。色合いとしてはキルメクの民に近いのではと思ったのだが、その問いにレヌートは緩く首を振った。
「いや、どうも違うらしいのだが、その辺りのことも分からんそうだ。身よりのない孤児だと聞いている。田舎の村で拾われて育ったという話だ。あの子も親の顔は覚えていないそうだ」
「そうなると益々厄介ですね」
つまり、この国には、表だってあの少年を守るような係累が居ないと言うことなのだ。身よりのない少年。しかも、顔立ちと色彩から想像するにこの国の人間ではない。そのような人物が突然、この場所から一人いなくなったとしても、大きな問題にはされないだろうということだ。そのことを知った儀式推進派の連中は、喜び勇んで接触を持とうとするだろう。そして、言葉巧みに誘い出し、あの少年を罠に嵌めるかもしれない。
「ああ。あいつらにとっては、都合が良すぎるところだろうな」
だがそこで、ふとスタースは顔を上げた。
「ですが、あの子の身元保証人はどうなっているんですか?」
術師の養成所で学ぶ為には、身元を保証する人間が必要とされているからだ。申請時の書類に提示が求められている筈だ。通常ならば、親や、その申請者が師事していた術師が担うことが多いのだが、あの少年の場合はどうなっているのだろう。
「ああ。私の義理の弟が保護者代わりになっている」
「弟さんは、………確か、軍部の方でしたか」
その昔、神殿の中でも一時期、噂になったことがあった。代々神官を輩出する家であるレステナント家から、軍部に入る者があったと。当時、スタースはまだ子供であった為、その辺りの事情はよく飲み込めていなかったが、大人たちが眉を顰めて噂話に花を咲かせていたのは覚えていた。長じてから、レヌートがそのレステナント家から妻を娶る形になったのを知り、そう言えばと思い出したのだ。
「ああ。今は第七師団で副団長をしている」
レヌートはそう言うと、先程までの固かった表情を少し改めて柔らかいものにした。それだけで、レヌートにとってその義理の弟が大切な存在であることが感じ取れた。
第七の副団長。そして、本家はレステナント。それだけの肩書があれば、後ろ盾としては、相当なものだろう。
そう思うとスタースは、少し安心した。
「ならば、迂闊には手は出せないのではありませんか?」
「そうだといいがな」
「あの、その辺りの事情を弟さんはご存じなのですか?」
「いや、恐らく、まだだ。私も話してはいないからな。だが、今度、折を見て知らせておこうと思っている」
流石に神殿内部の恥を晒すようなものだから、幾ら身内とはいえ、外部の人間にその辺りのことを口にするのは憚られるのだろう。ことは機密事項にも触れる可能性がある。往々にして神殿というのは、秘密が多い場所でもあった。
「………そうですか」
いずれにしろ、下位の神官であるスタースには、途方もないことのように思えた。
恐らく、後輩の指導にも熱心で、面倒見が良いとされているレヌートのことだ。義弟経由とは言え、今回、あの子の術師申請に関わることになり、もしかしたら、面倒事に巻き込まれるかもしれないという万が一のことを考えているのだろう。
だが、裏を返せば、逆にレヌートがそのような心配をするだけの不安定材料が神殿内部にあるということなのだ。
「私の方でもなにか気が付いたことがあったらお知らせしますよ。まぁ、私が知り得ることの出来る範囲なんて高が知れているとは思いますが」
これまでレヌートには世話になっているという自覚があるスタースとしては、その憂いを取る為に出来るだけの協力は惜しまない積りだった。
微力ながらも力添えをすると口にすれば、優しい面立ちの高位神官は、
「ありがとう。スタース。恩に着る」
そう言って、少し影のある微笑みを浮かべたのだった。
冒頭の部分で少しだけ触れた『ユルスナール突然の訪問』の顛末は、Messenger の大人向け短編集 Insomniaの方に掲載しています。もしよろしければ、そちらもどうぞ。




