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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第四章:王都スタリーツァ
140/232

伝令狂騒曲


 リョウが神殿へ向かい、緩やかな坂道を登っている頃と時を同じくして。

 この国【スタルゴラド】が誇る首府、王都【スタリーツァ】の軍部が入る建物である【アルセナール】の館内を悠々と我が物顔で歩みを進める小型の灰色の毛並みを持つ猛獣が一頭。生来の俊敏さを思わせる軽やかな足取りに、その口には、何やら封書と思しき小さな手紙のようなものが銜えられていた。


 【スタルゴラド第三師団】副団長の肩書を持つヒューイ・サフォーノフは、廊下を左側からこちらに向かって歩いて来るその珍妙な生き物を前に足を止めた。

「ティティーではないか!」

 その小振りな四足の獣は、現在、王族のとある姫君の下で暮らしているというのが専らの認識だった。姫君のお気に入りというよりは、獣の方が姫を気に入っているらしい。

 というのも、小さいからと言ってこの獣を見縊ってはいけない。獰猛な肉食獣であるその口元には、一噛みで人一人の息の根を止めることが出来る程の鋭い牙が二本生えていた。性格は見かけによらず意外に温厚で常識的な方だろう。但し、それも獣の中でみた場合という注釈が付くだろうが。

 この国に暮らす獣たちの例に漏れず、この灰色の四足も人の生と比べれば格段に長生きだった。自分の父親が子供の頃にも同じようにこの宮殿の敷地内を悠々と闊歩していたと聞いている。ある意味、その存在は、宮殿の敷地内に仕える者たちにとっては有名だった。

 獣たちは、人知では測り知ることの出来ない知性を持っている。その事をよく知るこの国の貴族連中は、決して【獣風情】などと侮ることはしなかった。そんなことを口にしたら最後、痛い目を見るのは、確実にそれを口にした人間の方であったからだ。


 その獣は、ティティーと呼ばれていた。随分と可愛らしい呼称だ。本当の名前は、どうも違うらしいのだが、それを敢えて尋ねる者もいなかった。

 ヒューイが声を掛ければ、ティティーと呼ばれた灰色の獣はうっそりと目を細めた。その口に何やら物を銜えているようなので、声は出ないらしい。

「こんな所にどうしたのだ?」

 自由気ままな性質ではあるが、通常、宮殿の敷地内で暮らすティティーが、その区画を抜け出し、このような軍部の集まる【アルセナール】にやってくるのは珍しいことだった。

 ヒューイが知る限り、初めてのことかもしれない。

『ふん、サフォーノフのところか』

 目の前に立ちはだかる体格の良い男を見て、ティティーはどこか尊大な態度で返していた。

 このティティーに限らず、人と交流のある獣たちは、大抵、その家名で人を認識・判断している節があった。ヒューイも初対面の時には、自らの名を名乗った訳だが、このかた名前で呼ばれたことはなかった。

 人よりも格段に長い寿命を生きる存在だ。いい加減、覚えるのも面倒なのかもしれない。

 だが、家名だけでも区別を付けてもらえるのだから、その点は有り難いと思わなくてはならないのだろう。

 軍部が専ら伝令に使う鷹や鷲、隼といった猛禽類たちもそうだ。人との関係は、対等な立場か、時として獣の方が上であったりする。特に新米の兵士に相対する時はそうだ。

 軍部に於いても人が獣を使役するのではない。対等な関係の下、人の方が獣に協力を仰いでいる形になるのだ。両者の関係にひびが入れば、獣たちはそっぽを向く。そこを上手く取り持って両者の関係維持を図ることが【伝令】という重大な任務を統括する兵士たち(要するに鷹匠たち)の腕の見せ所であった。


 ヒューイは、ティティーの口に小さな封書のようなものが銜えられていることに目を留めた。

「珍しいこともあるものだな」

 そこには、薄らと術師の施した印封が見て取れた。宛名の一部も確認できたが、それはまるで教科書のお手本にあるような綺麗な飾り文字で刻まれていた。

 どうやらティティーはお使いの途中のようだ。だが、小さな灰色の獣が、【伝令】の如く封書を口に銜える様は、実に珍しくヒューイの目には映った。大体にして人に媚を売ったり、懐いたりすることはしない性質だ。

 そのことをヒューイが仄めかせば、ティティーはフンと鼻で笑った。

『うぬには関わりのないこと』

 ティティーは廊下が交差する突き当たりで、軽やかにヒューイの隣に並ぶと、その前に躍り出た。するとその軌跡が、小さな光の帯のようになって現れたのが分かった。

 ティティーの口にある封書が、仄かな青白い光を放っているのにヒューイは気が付いた。そして、瞬時に、その封書にはかなり強い呪いが掛けられているらしいことを見てとった。


 【印封】とは、術師が宛先に記された者以外の人物にその中身を改められないようにする為に施す措置だった。然るべき密書や機密を扱う重要書類、そして親書の類に利用されていた。呪いが強固であればあるほど、そして、それを施した術師の能力が高ければ高いほど、その印封には、薄らと光のような帯が巻かれているのが見えるのだと聞いている。

 ティティーが口に銜えているものには、そのような強い呪いが掛けられていた。あのように強い光を放っているものをヒューイは間近で目にした機会は、これまで余りなかった。

 ヒューイは、不意に片方の眉をくいと引き上げて、興味深そうな顔をした。

 あれは、余程のことが書かれている内密な文書なのだろう。昨今、類を見ない現象に不意に胸が騒いだ。と言っても、その心の内は、表面上、男の姿には表れていなかったが。

 ヒューイは、ティティーに負けず劣らず、どこか尊大な空気を持つ男だった。濃いめの茶色の髪をすっきりと脇に流して、その瞳は緑色をしていた。見る者に硬質で鋭利な印象を与える顔の造作だった。それなりに名の知れた貴族、所謂、上流階級の出身であることも起因しているだろう。

 因みに、リョウが【アルセナール】で初めて見掛けた人間で、道を尋ねようと声を掛けたのがこの男だった。


「おい、ティティー」

 ヒューイは、自分の前に躍り出たかと思うと軽やかに去ってゆく獣に追いつこうと長い脚を繰り出した。

「その封書は誰に宛てたものだ?」

 ティティーはちらりと後方を振り返ったが、鼻で笑って相手にしなかった。

『そなたに教える義理もない』

 小馬鹿にしたようにこちらを見たティティーの態度にヒューイは内心ムッとした。

「余程、大事な封書のようだな?」

 伝令の役目を負っているティティーは、みだらに依頼者とその宛先の情報を開示する筈がなかった。

 だが、そのまま歩調を緩めることなく、廊下を歩くティティーに、ヒューイは尚も食い下がった。小さな獣の背中を追うように歩く速度を速めた。

『いづれの封書も大事。優劣などないわ』

 どうやらティティーはその宛先を教える積りは更々ないようだ。

 ヒューイは、こうなったらティティーがどこに向かうのか、その先を見届けてやろうと思った。

 ヒューイ・サフォーノフという男には、見掛けに寄らず、意外に負けず嫌いで子供染みた所があった。


 こうして【アルセナール】の広い館内を悠々と軽やかに駆けて行く灰色の小型の獣とその後方を必死に付いて行こうとする強面で大柄な第三師団副団長という珍しい組み合わせが見受けられた。

 小さな獣の後を追いかける男の物凄い顔付きに、途中、廊下を擦れ違う兵士たちは、ぎょっとして飛び退き道を譲った。軍部の礼式に則り、敬礼をするが、簡単な頷き一つで返される。今にも駆け出しそうな程の競歩に似た勢いで通り過ぎる、どこか滑稽すらあるその追いかけっこのような顛末を、目を白黒させながら見送った。

 一陣の風のように一頭と一人が通り過ぎた後、残された兵士たちは、徐に顔を見交わせ、肩を竦めた。 そして、触らぬ神に祟りなしと、今しがた目にした一部始終を悪い夢か、若しくは見なかったこととして処理したのだった。


 ぐるぐると暫く館内を巡ってから、ヒューイは不意に自分がティティーにからかわれているということに思い至った。ティティーのことだ。本気を出せば、直ぐにヒューイのことなど撒けるだろう。獣の脚力と人間のそれとでは身体能力の差は一目瞭然だからだ。それを、ある程度の速度で付かず離れずの絶妙な距離感を保たせながら館内を回っていたことにふとヒューイは気が付かされたのだ。

「ティティー! おのれ、謀ったな!」

 勝手に後を付けていた事は棚に上げて置いて、ヒューイが悔しそうに呻いた。

『なんだ? 追いかけっこはもう終いか? 根性がないのう』

 今にも欠伸を噛みそうな程にのんびりと尻尾を揺らされて、ヒューイは忌々しげに舌打ちをした。

「宛先の主が待っているのではないか? このように遊んでいる暇などなかろう?」

 半ば悔し紛れに早く届けてしまえとせっつけば、

『ハハハ。そなたに言われんでも』

 ティティーは愉快気にうっそりと目を細めてから、そのまま踵を返そうと身体を反転させたのだが、

『おっと』

 ちょうど廊下の角を曲がってきた人物にぶつかりそうになり、慌ててその体を器用に捻って難を逃れた。

「おやおや、こんな所で何をしているんですか?」

 額際に薄らと汗を滲ませて、忌々しげな表情をして憚らない己が部下とそれをせせら笑うかのような小さな灰色の毛並みをした獣を廊下の途中に見かけて、一頭と一人の間にある剣呑な空気に可笑しそうな声を挙げたのは、

「ゲオルグ………」

 ヒューイの上司であり、第三師団を取りまとめる団長である男、ゲオルグ・インノケンティであった。

「ヒューイ? それからティティーも。こんな所でどうしたというんです?」

 にこやかな笑みを浮かべながらこちらを見下ろした人物をちらりと横目にして、ティティーは、あからさまに嫌そうな顔をした。


 ティティーにとって、ゲオルグは面倒な相手だった。一見、人当たりの良さそうな優男というには随分と綺麗な顔立ちをしてはいるが、その中身は、この王宮に潜む狐狸の類も真っ青になるくらいの腹黒さで、抜け目の無い策士の匂いがぷんぷんとした男だった。

 要するにティティーにとっては甚だ臭いのである。鼻が曲がりそうな程に。

「おや? 何やら珍しいものを銜えていますね」

 早速、ゲオルグは、ティティーが口に銜える仄かに青白い光を放つ封書の存在に目敏く気が付いたようだった。

 そして、徐に上体を屈みこむとそこにちらりと見え隠れする宛名を瞬時に読み取ったようだった。

「第七のルスラン宛てですか」

 目端の良さは、相変わらずだった。ヒューイの時のようにただからかう相手ではなかった。

 ティティーはその身に纏う空気を瞬時に変えて引き締めた。威嚇の体勢に入る。

「何やら面白そうですね?」

 そう言って男にしてはやけに艶っぽく微笑んだその表情を見て、ティティーは、薄ら寒いものを感じた。本能に忠実な獣としての直感である。

「随分と強固な呪いの掛かった封書のようですねぇ? 中にあるのは余程の機密文書か何かですか」

 その言葉に、ティティーは、これを預かった人物の能天気に微笑む顔を思い浮かべて、げんなりとした。

 ティティーが銜えるものはリョウから預かったものだった。印封の講義を受けたので試しに施術を試みてみたのだと嬉しそうに笑っていた。

 ティティーは、リョウが嘘を付いているとは思わなかった。精々、中身は恋文の類というのが関の山だろう。この男たちもとんだ勘違いをしたものだ。リョウは、きっと初めてのことで【印封】を施す際の加減が分からなかったのではあるまいか。だから、単なる試しの印封に思いの外、強固な呪いが掛かってしまったのだ。初めて印封を掛けてみたと嬉しそうに綻んだ顔を思い浮かべて、今度、顔を合わせた時には、その辺りの事情を今一度、含み置かなければなるまい、『やれやれセレブロ殿もとんだ骨の折れる相手を選んだものよ』と溜息を吐いたのだった。


『やれやれ。お主らの早とちりにも困ったものよ』

 ティティーはしみじみと大儀そうに口にすると、すぐさま踵を返して、軽やかに駆け出した。

「あ、おい! ティティー!」

 ヒューイの声が廊下に響いた。

「おやおや、相変わらずつれないことで」

 ―――――――行ってしまいましたねぇ。

 ゲオルグは、どこか愉しそうに微笑むと、軽やかに去ってゆく小型の灰色の獣の姿を目で追った。

「ヒューイ。行きますよ」

 ゲオルグはいまだ悪態を吐いている部下を促すと颯爽と身体を反転させた。

「戻るのか?」

 怪訝そうな顔をしたヒューイにゲオルグは呆れたように振り返った。

「勿論、第七の所に決まっているじゃありませんか」

 ―――――――何を言っているんです? その為にそんなにまで汗だくになったのでしょう?

 嫌みたっぷりに的確に己の陥った状況を指摘されて、ヒューイは押し黙った。

「で、差出人は誰だか分かったんですか?」

 その問いにヒューイは、口の端を僅かに下げた。

「いや。それは、上手くはぐらかされてしまった」

「やれやれ、仕方ありませんねぇ」

 こうして、足取り軽やかに第七師団が居を構えている一室に向かって歩き出したゲオルグは、背後を付かず離れず静かに付いてくるヒューイに向けて、前を向いたまま鷹揚に肩を竦めて見せたのだった。


 それにしても、あのように強い印封を施すことの出来る人物など第七の繋がりであっただろうか。ゲオルグは頭の回転をいつも以上に速めながら首を傾げていた。

 術師絡みの情報は常に把握をしている積りだった。第七の団長は、元々、術師としての素養は余り開花しなかった口だ。その昔、養成所で共に机を並べたこともあったが、自分が覚えている限り、そちらの方面はからっきしであった筈だった。

「ティティーが態々伝令の役を買って出るなんて、相手は王族なのでしょうか?」

 あの獣が専ら姿を現すのは、とある王族の姫君の周辺が多いと聞いている。現国王の第二皇子の一人娘、現国王には孫娘の一人に当たるエクラータ嬢だ。確か、今年で六つになったかならないかという年齢だった。

 だが、第七師団の団長、シビリークス家の三男坊である強面な男といまだ幼い王族の令嬢との接点は、思いつかなかった。

「まぁ、着いてみれば分かりますかね」

 いずれにせよ、あの男に王族との個人的な繋がりが見えれば、それはそれで収穫となる。

 と同時に、あのように強い印封を施す術師がいたことにゲオルグは興味を惹かれた。


 通常、術師というものは、あのように己の能力をみだらに明らかにしないものだ。強かで警戒心の強い人間が多いからだ。他者を欺く為に、研いだ爪は常に隠しておくのだ。それをあのように表立って見せて憚らないというのは、まだ不慣れなものなのか、それとも偶々なのか、それとも、それ程までに重要な文書であるのか。一度考え始めたら限がない。

 だが、本当の機密書類であれば、通常、印封には、幾重にも仕掛けが掛かっているものなのだ。一見、何の変哲もないように見せかけて、その実、誰にも解くことが出来ないようにするものなのだ。

 そう、あのガルーシャ・マライのように。

 ゲオルグの脳裏には、この国稀代の術師と謳われた男の存在が思い出されていた。あの男の周辺はいつも多くの謎に包まれている。この国の貴族連中にそっぽを向いて、辺境で隠遁生活を始めたと聞いたのはもう二十年近く前のことだった。それ以来、政治の表舞台からは姿を消したが、今でも時折、その男のことは噂に上っていた。

 いずれにしても興味深いことに違いは無かった。自分のすぐ後ろを歩くヒューイもその辺りのことを嗅ぎつけたのだろう。ゲオルグから見ればいつも詰めが甘いが、その独特な嗅覚の鋭さは部下としては買っていた。

 ゲオルグは、その男にしては艶めかしい繊細な面立ちに妖艶な笑みを浮かべた。

 それを横目に見たヒューイは、ほんの少しだけ嫌そうに口の端を引き攣らせた。ゲオルグがこのような顔をする時は、大抵碌なことを考えていない。それは過去の経験から導き出されたヒューイなりの法則だった。




 ほうほうの体でティティーは、【アルセナール】内を素早く駆け抜けると、第七師団が拠点とする執務室の前に辿りついた。器用に扉の取っ手を跳躍して飛びついて開けると、その隙間に身体を滑り込ませた。

 いきなりノックの音もなく扉が開いたかと思うとその隙間から飛び込んできた灰色の小さな塊を目にして、己が執務机に座って書類に目を通していたグリゴーリィー・ダルトゥーは、顔を上げると目を凝らした。

 ティティーは、執務室内をぐるりと見渡すと高らかにその声を上げた。

『我は伝令なり。第七師団・団長はあるか?』

 グリゴーリィーと獣の言葉を理解する能力を持つ兵士が、すぐさま立ち上がり、小さな灰色の伝令と思しき獣の前に膝を着いた。

『シビリークスの末はおるか?』

 その声にグリゴーリィーは静かに頷いた。

 グリゴーリィーは、その獣の口に小さな封書のようなものが銜えられていることに気が付いた。

「はい。今、お呼びいたしましょう」

 そう言って、慇懃な態度で立ち上がると隣の団長室へ向かった。その後にティティーも付いて来た。

「貴殿は王宮に住まうお方とお見受け致しますが」

『いかにも』

 グリゴーリィーは、宮殿に暮らすという灰色の獣の存在を知ってはいたが、実際にこのような近くで対峙し、言葉を交わしたことは無かった。


 団長室の扉をノックしてから開けると、中には第七師団の団長であるユルスナールとその片腕、副団長のシーリスがいた。

「どうした?」

 扉を開いた途端、勢いよく中に飛び込んできたティティーを見て、中にいた二人は、怪訝そうにグリゴーリィーを見た。

 生憎、この二人はグリゴーリィーのように獣の言葉を理解する素養を持ってはいなかった。

『シビリークスの末よ。そなたに手紙だ』

「隊長に手紙だそうです」

 すぐさま、グリゴーリィーが間に入って獣の言葉を通訳した。

「そちらは宮殿にお住まいの方ではありませんか? かのエクラータ嬢が目を掛けているという」

 灰色の小さな獣の姿を見て、シーリスが目を丸くして言った。

 ティティーは軽やかに跳躍してテーブルの上に飛び乗ると口にくわえた封書をユルスナールの前に置いた。

 そして、ぼやいた。

『やれやれ。えらい目におうたわ』

 その台詞にグリゴーリィーは、眉を跳ね上げた。

『気を付けよ。途中、厄介な奴らに捕まってのう。あ奴らもここを訪ねて来るやも知れぬ』

「どういうことですか?」

『我が伝令の役目を負ったが、興味を惹いたらしい。心せよ』

「どなたに勘づかれたのですか? 厄介なとは一体誰のことですか?」

 面食らったグリゴーリィーが重ねて問いを発したのだが、

『封書はしかと渡したぞ。応え(いらえ)はいらんそうだ』

 言いたいことだけを口早に言い残して、ティティーは身体を翻すと来た時と同様、恐ろしい程の素早さでこの執務室を後にしたのだった。


 中に残された第七師団の面々は、余りの出来事に顔を見交わせた。ユルスナールとシーリスは、伝令の獣と何がしかの言葉を交わしていたグリゴーリィーに説明を求めるように顔を向けた。そのグリゴーリィーも珍しく困惑の表情を浮かべていた。

 シーリスは、徐に手を伸ばすとテーブルの上にある封書を手に取った。表面の宛名を見てから裏書きを見る。

「ルスラン宛てですね。差出人は、リョウのようですね」

 シーリスもユルスナールも印封の施された封書をそれなりに扱う仕事柄、そこに記された古代エルドシア文字には精通していた。ブコバルもヨルグも読むだけならば出来るだろう。貴族出身者は、最低限の教養として概ね幼いころに学問所でこの国の歴史と共にみっちりと扱かれるので大抵読む事は出来た。

「それにしてもティティーはいつリョウと知り合いになったんでしょうか」

 封書を手に取りながらシーリスが首を傾げた。

 まぁ、獣たちに好かれる性質であるリョウのことであれば、ひょんなことから仲良くなっても不思議はなかった。

 その言葉に、ふと思い当る節のあったユルスナールは、ああと合点した。

「以前、ここに来た時に迷子になって宮殿の方に迷い込んだとスヴェトラーナが話していた。恐らく、その時に知り合いになったのだろう」

 あの時にスヴェトラーナはどこか苦々しい顔をして、リョウがエクラータ嬢と言葉を交わしたと語っていたのだ。

 それを聞いたシーリスはさもありなんと納得したようだった。

 シーリスの手の中にある封書には、薄らと仄かな青白い光が膜のように表面を覆っていた。それを見て、随分と手の込んだ呪いが掛けられていることに気がついた。余程、他人の目に触れては欲しくないことなのか。恐らく個人的な恋文の類だろうと気を回したシーリスは、からかうようにユルスナールを見た。

「席を外しましょうか?」

 その言葉にユルスナールは怪訝そうに片眉を上げた。

「何故だ?」

「だって、こんなにしっかりと印封が施されているんですよ? 余程のことではありませんか」

 そう言って可笑しそうに笑う。

 きっとリョウのことだ。中身が他人の目に触れたと知ったら、顔を真っ赤に染めて狼狽するに違いない。それはそれでからかい甲斐があって面白そうではあるのだが。

 シーリスは小さく微笑むとユルスナールに封書を手渡した。

 ユルスナールはそれを手に取ると、なにやら神妙な顔つきで表の宛名部分を改め、そして裏面を返して、その差出人の部分を確かめた。

 そこに記された几帳面な程に整った印封を見て、それを施した本人の性格が良く表れている飾り文字に思わず微笑が零れた。

 そこへ間合い(タイミング)を測ったようにグリゴーリィーが声を掛けた。

「ルスラン」

「ん?」

「先程の伝令の言なのだが……」

「そう言えば、酷く焦っていたようですが、何だったんです?」

 グリゴーリィーは暫し言い難そうに複雑な表情を作った後、

「何やらここに来る途中に【厄介】な相手に見つかり、興味を持たれたようなので、【心せよ】とのことでした」

 グリゴーリィーはそう口にすると困惑気味に眉根を寄せた。

 対するユルスナールもシーリスもその言わんとすることが良く分からずに顔を見交わせた。


 そうこうするうちに、執務室の扉を再びノックする音がして、第七の兵士の一人が珍しくその顔に困惑の色を浮かべながら、顔を覗かせた。

「どうした?」

「いえ。第三のお二方が隊長を訪ねていらしたんですが」

 ―――――――如何いたしましょう?

 先程の伝令が言っていたのはこのことなのか。

 その瞬間、室内の空気が一気に凍りついた。

「取り込み中です。機会を改めてもらってください」

 実に輝かしい笑顔を浮かべてバッサリと切り捨てたシーリスであったが、

「おやおや、酷いじゃありませんか。随分とつれないことを仰る」

 いつの間にか、制する(と言ってもそれは恐らく形ばかりであっただろう)第七の兵士たちを擦り抜けて、第三師団の団長とその右腕である副団長が執務室の戸口に現れていた。

 室内の空気が一気に冷え、体感温度が急降下したのを周囲にいた兵士たちは感じ取った。

 ―――――――【ゴースパジ(ああ、神よ)!】

 グリゴーリィーは頭が痛くなる思いがした。

 よりによってこの二人がやってくるとは。

 成程、あの伝令の言う通り、【厄介な相手】というのは言い得て妙であると思った。


「御機嫌よう、ルスラン。それにシーリス。お久し振りですね」

 ゲオルグは、にこにこと底知れぬ微笑みを浮かべながら団長室に入ってくると断りもせずにユルスナールとシーリスが腰を下ろす対面の長椅子に優雅な仕草で腰を落ち着けた。

 ゲオルグの後ろにいたヒューイも何食わぬ顔をしてそれに続いた。

 ユルスナールは、突然の闖入者を冷え冷えと睨みつけた。

 過日、この男が原因でリョウの事を悲しませてしまったのだ。もう少しで仲違いをしそうになったことは記憶に新しかった。それにゲオルグが度々、養成所の方でリョウに接触を持っていたことを知り、ユルスナールもシーリスも第三師団長に対しては、極度の警戒状態にあった。

 勿論、ユルスナールとしてはそれ以上の含みがあった。自分が中々会えない相手にゲオルグが毎日のように会って言葉を交わしていたと聞いて妙な嫉妬心を刺激されていたのだ。

「いきなり何の用だ?」

「まぁまぁ、そんな怖い顔をしなくてもいいじゃないですか」

「これは地顔だ」

「久しく友人の顔を見ていなかったと思ったものですからね」

 ゲオルグは白々しい台詞を吐いて、片目を瞑って見せた。

「おや。それはそれは。このような無礼な方々を友人の範疇に入れた覚えはないんですがねぇ。どうしたものでしょう」

 対するシーリスも負けてはいなかった。威圧感を隠すことなく、冷笑を浮かべてゲオルグとヒューイを見遣った。

 室内は、恐ろしいまでの緊張感と緊迫感が張りつめていた。

「こちらにティティーが伝令で来たでしょう? その封書の差出人に興味を惹かれたんですよ」

 あけすけなもの言いにユルスナールは呆れたように溜息を吐いた。

 何を言い出すかと思えば。

「これはただの信書だ。俺宛てのごく個人的なものだ。お前たちが期待するようなことは何もない」

 政治的な意味合いなどこれっぽっちもないのだ。

「ただの個人的な手紙に何故かように強い呪いが掛けられているんだ?」

 仄かな青光りする封書を睨みつけながらヒューイが尊大に言い放った。まるで鬼の首を取ったような言い方だ。

「それは偶々だろう」

 ユルスナールは、差出人の名前が刻まれている印封を見て小さな笑みを零していた。

 それは、いつも無愛想で強面と揶揄されることの多い硬質な男が見せるには珍しい類の柔らかな微笑みだった。

 とんだ誤解を受けたものだとユルスナールは思った。リョウのやつが聞いたらたまげるに違いない。そして、すぐさま顔を青くさせるだろう。そんな感情の動きのままにころころと変わる表情が思い浮かんで、なんだか可笑しかった。

 一人、含み笑いを始めたユルスナールをゲオルグとヒューイは、気味悪そうに見遣った。

 ユスルナールの考えていることが手に取るように分かったシーリスは、どこか呆れたような曖昧な表情を浮かべていた。

「ルスラン。その気持ち悪い顔を引っ込めてください。鳥肌が立ちそうです」

 堪りかねたゲオルグは、そう口にするとこれ見よがしに腕を摩って見せた。相変わらず失礼な男である。

「ならば、それはごく親しい人からの手紙なのですね? もしよろしければ封書を見せては頂けませんか。個人的には、その印封が非常に気になるんですが」

「それは駄目だ」

 間髪入れずにユルスナールに突っぱねられてゲオルグは白けた顔をした。

「差出人は秘密ですか」

「そういうことだ」

「秘密とはまた、それは凄く気になりますねぇ」

 ティティーの知り合いであのように強い術式を使える人物が誰であるかを突き止めたかった。こと術師に関しては、ゲオルグの興味は貪欲だった。

「ルスラン」

 中々腰を上げそうにない相手を見かねてか、シーリスがある提案をした。

「封書を開封してみてはいかがですか? 中を見せる必要はないでしょう。ただ、そこのお二人は、印封が大変気になるようですので、それを無くしてみてはいかがでしょう」

 中身は、恐らく、ごく個人的なことだろう。リョウの事だ。熱烈な恋文の類を書いたとはとてもじゃないが考えられなかった。それはそれで悲しいものがあるが、仕方がないだろう。

 何か知らせたいことがあったのかもしれない。あの日以来、ここ数日は会えない日々が続いていた。もしかしたら、この間の伝令への返信の積りなのかもしれない。

「分かった。いいだろう」

 このままでは引き下がりそうにない第三の二人組を見て、ユルスナールはシーリスの提案に乗った。だが、このことが後で裏目に出るとはユルスナールもシーリスも思ってもみなかったことだった。

 

 ユルスナールは薄らと青白い気を纏う小さな封書の宛名部分と差出人部分に開封を念じながら触れた。

 その瞬間、淡い光が濃さを増し、その封書の上に立ち上るようにして青白い光が集まった。

 そして、その光の中から現れたのは、あろうことか、優しい微笑みを浮かべた美しい女の姿だった。

 情事の後を彷彿とさせる軽くシャツを羽織っただけのしどけない姿。いつも束ねている髪は解かれたままで背中に滑らせている。

 リョウの姿を取った光の粒子は、そのまま、ほっそりとした腕を伸ばしてユルスナールの首にかじりつくとそっと男の薄い唇に触れるだけの口付けを与えた。そして、満足したように微笑むと青白い光は煙のように霧散して掻き消えたのであった。


 ユルスナールは余りのことに度肝を抜かれた。半ば呆けた顔をして、緩慢な動作で手にした開封済みの手紙へと目を走らせた。

 だが、余程、気が動転しているのだろう。そこにしたためられていたのは短い文章であったのだが、動揺している余り、何度目を走らせても中々その内容が頭に入ってこなかった。

 それから、何度か瞬きを繰り返して、漸くそこにある内容を読み取った。

 中身は、実に他愛の無いことだった。古代エルドシア語の講義を受けて印封のやり方を学んだので、試しに施してみた。上手くいっていたら、後で知らせて欲しい。そんなことが書かれていた。

「ルスラン?」

 窺うようにこちらを見ていたシーリスは苦笑いをしていた。

 ユルスナールは無言のままシーリスに手紙を差し出した。

「私が見ても?」

「ああ」

 まさか、あのように差出人である当人が、幻影となって現れるとは思ってもみなかった。

 だが、ふとユルスナールは、リョウに初めて出会った時のことを思い出していた。

 あの時、ガルーシャの封書を手にしていたリョウは、知らず、その印封に自分の記憶を付加していたのだ。そして、開封の瞬間、今と同じような幻影(あれはリョウの記憶の一部のようだった)が青白い光の粒子によって作られ現れたのだ。

 手紙の最後には、追伸として【ツェルーユー(あなたに口付けを)】の一語が添えられていた。

 まさか、この一語がこのように幻影を伴って具現化するとは思いも寄らなかった。

 ユルスナールの本心から言えば、歓喜の余りに小躍りしそうなくらいだが、これを自室でこっそり開封するならまだしも、このように人目に晒してしまったことを内心、苦々しく思った。

 本当にリョウはいつも自分の予想の斜め上を行く。それが界を跨いだ異邦人だからなのか、それともリョウがリョウであるからなのか、はたまた単に自分がリョウに対する認識が足りないだけなのか、その辺りのことは良く分からなかった。


 手紙の内容にざっと目を通したシーリスは、その柔和な面立ちに同じように苦笑に似た笑みを浮かべていた。だが、見る者が見れば分かる優しい眼差しをしていた。それは、まるで近親者の突拍子もない悪戯を困ったと言いながらもどこか微笑ましく眺めるような、そんな生温い表情だった。

「らしいと言えば、実にらしい。でも、これは些か予想外でした」

 そう結論付けるとシーリスは手にしていた手紙をユルスナールに返した。

「本当にあの子に出会ってから退屈しませんね」

 それはシーリスにとっても想像の斜め上を行くものであったらしい。


 ユルスナールとシーリスの二人が暫し、封書の差出人に思いを馳せながら和んでいると、漸く幾ばくかの衝撃から回復したらしい第三師団の二人が呆けたような声を上げた。

「今のは………」

「ああ。ちょっとした目の錯覚ですよ」

 眩しい程の笑顔でシーリスが嘯いた。

「そんな馬鹿な! あのように【想い】が実体化するなど滅多にあることではないですよ!」

 ゲオルグは、珍しく興奮したように立ち上がっていた。

「ルスラン。あれはお前のコレか?」

 その横で、ヒューイは、右手の薬指を差して尋ねた。

 それは、この国の男たちの間では情婦や恋人を表わす隠語のようなものだった。

「あれは一体誰なんです? 実に綺麗な女の人だ。まるで、そう、【夜の精】のように美しい」

 そこでゲオルグはハッとしてユルスナールの方を見た。

「まさか、【プラミィーシュレ】で共にいたという人ですか?」

 ちょうど、あの時、ゲオルグの息の掛かった人物(情婦と思しき女だった)が【エリセーエフスカヤ】にいたのだ。街の有力者であるアシュケナージの傍に張り付いていたのも記憶に新しかった。

 ユルスナールは、どこか尊大な笑みを浮かべて余裕たっぷりに二人の闖入者を見遣った。

「もういいだろう? お前たちの用事は済んだはずだ。持ち場へ帰れ」

 その声は低く静かで、決して荒げたものではなかったのだが、臓腑がちりりと竦む程の威圧感を持っていた。

 ゲオルグは、これ以上相手に食い下がっても、めぼしい情報は得られないだろうと、その微妙な空気の変化を的確に感じ取った。引き際を見誤ってはいけない。これ以上、無駄に突けば、余計に心象を悪くする。

 心の中では、口惜しく思いながらもそれを表には出さずに平然を取り繕うようにして、小さく微笑んだ。

「分かりました。今日の所はこれでお暇するとしましょう」

 そう言うと静かに立ち上がり優雅に一礼をした。


 収穫はあった。ユルスナールの影にちらつく女の存在。それも術師としての高い素養を持つ人物だ。あの封書の差出人と先程の幻影の女は、恐らく同一人物だろう。男への愛情が溢れんばかりの優しい気に包まれていた。

 ゲオルグは、【プラミィーシュレ】に派遣した女からもたらされた情報をもう一度洗い直してみることを決めた。何か、見落としている気がしてならなかった。それもとても重大なことを。

 【プラミィーシュレ】でも上ったが、ガルーシャ・マライに関する噂とその弟子だという人物に関する情報。散り散りになった欠片(ピース)を掻き集め、そこに現れる実像、若しくは虚像が、どのような形を取るのか。

 こちらからは、その後ろ姿と横顔が少ししか見えなかった。さらりと揺れた癖いの無い黒髪。華奢な骨格。この国の女たちと比べれば格段に細いが、あれは紛れもなく成熟した女の身体だった。

 ゲオルグは、お伽噺の中に描かれているような黒髪を持つ美しい女性に暫し、思いを馳せた。

 ゲオルグ自身、お伽噺を単なる子供騙しの物語だとは考えていなかった。あれは過去の真実の断片を巧妙に虚構の中に織り交ぜた歴史書の類だと思っていた。それを考えるとまるで子供の頃に戻ったように心が躍った。誰かの秘密を暴くことは、いつもワクワクする。


 それからゲオルグは、いまだ、どこか不服そうな顔をしているヒューイを促すようにして、第七師団の執務室を後にした。

「さてさて、俄然やる気が出てきましたね。もう少し調べてみましょうか」

 そう小さく呟くと実に足取り軽く、気持ちも新たに第三師団がある執務室を目指したのであった。


 こうして、授業で習ったことを試してみたいという実にささやかな思い付きから始まったこの印封を巡るちょっとした騒動は、それを施した本人(つまり、リョウのことだ)の与り知らぬ所で、思わぬ方向へ独り歩きをすることになったのだった。


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