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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第三章:工業都市プラミィーシュレ
109/232

東の翁


 待合室にいる間、ユルスナール、ブコバル、ドーリンの三人の男たちの下には、実に様々な客が入れ替わり立ち替わり挨拶に訪れては、言葉を交わしていた。

 リョウは、その遣り取りの様子を、最初の内は傍にいて聞いていたのだったが、制服を着た給士が着飾った客たちの合間を器用に縫うようにしてやって来て、その手に恭しく掲げられた【タレールカ(お盆)】の上に並んだ飲み物を差し出されて、カクテルのように綺麗な色の付いたソーダ水らしきものの中身を尋ねたりしながら選んでいるうちに、いつの間にか、男たちを囲む人垣の中からはみ出してしまったことに気が付いた。

 リョウの手には、ほんのりと薄紅色の付いたソーダ水のグラスが握られていた。

 これは、春に採れる果物の【ヤーガダ】を漬けて作った果実酒をソーダ水で割ったものだというのが給士の説明だった。懐かしい桜色に心惹かれて手に取れば、さっぱりとした飲み口が女性には中々に評判の飲み物なのだと、品のある丁寧な口調で言葉を継いだ給士に勧められたのだ。

 一口飲むと、口内に爽やかな甘みが広がった。弾けるソーダ水が、食欲増進を促す。食前酒にはもってこいのものだと思った。


 リョウはその小さなグラスを手に、人垣に押し出されるようにして少し離れた壁際に身を寄せると、そこから自分の連れの様子を眺めた。

 あの中にいても恐らく話の邪魔になるであろうし、当然のように男たちと言葉を交わす客たちから、もの問いたげな視線が自分にまで注がれるのは、余り気持ちのいいものではなかった。

 三人の男たちは、其々挨拶にやってきた着飾った男女と、その顔に薄らと微笑みさえ浮かべながら雑談をしていた。

 それは、今まで目にしたことのない男たちの一面でもあった。

 優雅で洗練された空気が室内を満たし、表面上は和やかな雰囲気で言葉を交わし合う。

 だが、この場所が関係作りや情報交換の場であるならば、それらは社交辞令的薄ら寒さを内包してもいるのだろう。


 リョウは、どこか非現実的な動く絵巻物を眺めているような不思議な気分に陥っていた。

 人々の話声、ひっそりとした笑い声や囁きが、独特な漣のように揺れては押し寄せて来る。この国の言葉の特徴的な疑似音階が、重低音に乗って歌のように聞こえていた。

 約二年前には単なる音の羅列でしかなかった響きが、今はちゃんとした意味を成す言葉として自分の耳に届いていた。その事実を、少し感慨深く感じた。

 今後、この場所でこれからの人生を送ることになるとしたら、いずれこの身に染みついている筈の母国語も忘れてしまうのだろうか。

 不意に浮かんだ疑問は、恐ろしいまでの喪失感を呼び起こした。


 リョウの脳裏には、とある男の話が思い出されていた。

 戦争で出兵し祖国を離れ、終戦の混乱の最中、現地の人と結婚をし、最終的には国を捨てて、その場所に残ることを選ばざるを得なかった男の話だ。故郷の言葉を口にする機会を失った男は、その後、何十年という長い年月を経て、すっかり自分の母国語であった言葉を忘れてしまったのだ。

 その話を初めて聞いた時の衝撃は、未だ忘れることが出来ずに心の片隅に残っていた。

 人間の脳の記憶は、一度、習得したものを失ったりはしない。一度、得た情報は、脳内の引き出しの中にしまわれて残ってはいるのだが、その場所へと辿り着く為の道筋が分からなくなってしまうのだとその昔、話に聞いた。

 だが、たとえ記憶そのものを失っていなくとも、そこへ辿りつくべき術を失ってしまえば、それは『忘れてしまった』という事態として見るならば、余り変わらないのかも知れない。


「サクラ サクラ ヤヨイ ノ ソラハ………」

 無意識にリョウの口から、微かな旋律が漏れ出していた。

 手にしたグラスの色は、故郷の景色を思い起こさせていた。

「ミワタス カギリ カスミカ クモカ ニホイゾ イヅル」

 目裏に浮かぶのは、舞い散る無数の花弁。この肉体を構成する遺伝子の中に脈々と受け継がれてきた心の原風景だ。

「イザヤ イザヤ ミニ ユカン……」

 少し哀しさを漂わせる独特な音階と音の揺らぎ。この身体を流れる血に染みついた自分を形作るであろう根幹の意識。

 この源を失いたくは無かった。

 この国でしっかりと地に足を付けて立つ為にも、失ってはならないと思った。

 リョウはグラスに口を付けた。

 ほんのりと甘酸っぱい香りに記憶の中の景色を重ねた。




「綺麗な旋律ですね」

 ふと聞こえてきた渋みのある声に、リョウは我に返った。

 振り返ると、すぐ隣に一人の男性が立っていた。

 濃い灰色の光沢のある上下が真っ先に目に入った。

 そこから視線を上げて行く。

 その先には、ひっそりとした温和な空気を身に纏い真っ白になった髪を綺麗に後ろに撫で付けた初老の男がいた。

 切り立った峻厳な山の頂きを思わせる高い鼻梁を挟んで、静かな灰色の瞳を囲む目尻には、沢山の深い皺が刻まれていた。その間にある優しさを滲ませた灰色の瞳が、糸のように細められて、こちらを静かに見下ろしていた。

 品のあるにこやかな微笑みに、リョウもひっそりと微笑んでいた。

 無意識の鼻歌を他人に聞かれてしまったことが恥ずかしくもあり、そこには若干、照れが混じっていた。

「古い歌です。故郷に伝わる」

 気が付けば、そんな言葉が口を突いて出ていた。

 どこか懐かしそうに遠い目をしたリョウに、

「そうですか」

 白髪の老人は、うっすらと微笑みを浮かべたまま、静かに合槌を打った。

 そして、少し興味深そうな好奇の光をその灰色の瞳に乗せた。

「先程の旋律は、どのようなことを歌ったものなのですか。恋の歌ですか?」

 リョウは、そっと微笑むと穏やかに首を横に振った。

「残念ながら、恋の歌ではありません」

「おや。それは残念」

 ついと上がった老人の白い眉をリョウは微笑みを湛えながら見上げた。

 そして、ゆっくりと言葉を継いだ。

「春に咲くとある花を歌ったものです。春になって花が咲いたのでお花見に出掛けようという意味合いです。春になると一斉に咲く花がありまして、ちょうど、このような淡い薄紅色をしているんです」

 そう言って、リョウは手にしたグラスを掲げて見せた。

 そこには、先程、給士から勧められた淡い桜色をしたソーダ水が、細かな気泡を立ち昇らせていた。

「【ヤーガダ】のソーダ割りですな?」

「はい。その花は、同じ時期に一斉に咲いて、それから一斉に散るんです。咲いてから【デェシャータク(10日)】もしない内に。花弁が雪のように降り注いで吃驚する位の速さで散ってゆく。風が吹くと花吹雪になって辺りを一面、淡い薄紅色に染めるんです」

 その光景を想像したのか、老人からは溜息のような息が漏れていた。

「ほう。それは実に興味深い。さぞかし美しい光景なのでしょうなぁ」

 感じ入った様な声音に、リョウは同意を示すようにそっと微笑んでいた。

「ええ。この世のものとは思えないくらい幻想的な景色です。夜は特に格別で、闇の中にぼんやりと白く、花を咲かせた木が浮かび上がるんです。散り時は、その木が涙を流しているよう。まるで儚い束の間の夢のように……」

 どこかうっとりとした息を漏らしたリョウに、白髪の老人は、ひっそりとした笑みを浮かべた。

「さぞかし綺麗なのでしょうね。まるで、貴女のように」

 意味深な目配せを受けて不意に流れを変えた空気に、リョウは苦笑を滲ませた。

「こちらの殿方は、皆、お上手ですね」

 ここの男たちは、思いも寄らない褒め言葉を平然と口にする。そういうことを日常的に聞き慣れていない自分には、その対処の加減がまだよく掴めていなかった。さらりと受け流せばよいのだろうが、どうも気恥ずかしさが先に立ってしまうのだ。

「そのようなことはありませんよ。男というものは、皆、自分の心に正直ですからね」

 老人は朗らかに告げると、少し声の調子(トーン)を落とした。

「それよりもお連れの方はどうなさいましたかな。貴女のような美しい人をこのような端に放って置くとは男の風上にも置けない」

 男に同伴されるべき女が、こうして一人壁際に立っているのは、やはり礼儀的には余り感心することではないらしい。

「連れは、今、あちらに」

 リョウが視線を向けた先には、人垣の中に埋もれる銀色の頭髪があった。

 遠目に見る、余り感情の乗らない澄ました横顔からは、その心の内が分からなかったが、男の周囲を囲む着飾った女性たちは、その色艶のよい頬を染め、その傍にいる男達も実にいい笑顔を浮かべていた。

 大分話し込んでいるらしく、和やかな空気に人波の熱が被さる様にして乗っているのが伝わって来ていた。

 他の二人の男たちも似たり寄ったりの状況だった。

「どうも忙しいようで」

 この状況を心細く思わないでもなかったが、それは仕方がないことだった。そもそも自分はオマケで、あの三人には、彼らなりの目的とその付き合いがある訳だからだ。

 そう思い、少し困ったように小さく微笑めば、対する白髪の老人は、茶目っ気たっぷりに片目を瞑った。

「ですが、今はそのお陰で、こうして貴女のような美しいお嬢さんとお話が出来る訳ですから、天のお目零しに感謝しなくてはなりませんな。私もあと二十年若ければ、貴女のお手を取ろうと躍起になっていたでしょう」

 そう言ってのんびりと目を細める。

「お嬢さん、貴女のお名前をお伺いしても?」

 老人の言葉にリョウは静かに頷くと己が名前を告げた。


 ふと老人の視線が、リョウの胸元を捉えていた。背中側は言うまでも無いが、前も随分と深く開いている。左側、たっぷりとした生地が襞を作る胸元からは、セレブロの紋様が三分の一程覗いていた。

 老人は、左胸の部分に薄らと覗くその不思議な色合いの紋様を見て、一瞬、驚いたように目を見開いた。

「……貴女は、長の【魂響(たまゆら)】なのですね」

「タマ……ユラ?」

 初めて耳にする言葉にリョウの頭の中で疑問符が立ち込めるが、老人は何かに一人納得したように合点して見せた。

 そして不意に真剣な眼差しをすると、実に意味深な言葉を吐いた。

「貴女は、大いなる揺らぎの中にある。そのことを忘れてはいけませんよ」

 リョウは、半ば茫然と老人の言葉を反芻していた。

 正確な意味を捉えようと思考を目まぐるしく回転させるが、空回りするだけで理解には到底至らなかった。

「今後、王都を訪れることがあれば、東の神殿へいらっしゃい」

 そう締めくくると、顔を上げて、表情を元に戻した。

「おや、どうやら、もう時間のようだ。楽しい時間をありがとう。それでは」

 そう言って恭しく礼をした後、踵を返そうとした老人の白い頭髪を引き留めるように、リョウは声を掛けていた。

 聞きたいことは色々あったが、老人はこちらの反応を気に留めていないようだった。自分が理解しているかいないかは問題ではないのだろう。

 だが、リョウはこのまま、老人の背中を見送る訳にはいかなかった。

「あの、貴方は?」

 せめてもの手掛かりを尋ねていた。

「【デェードゥシュカ・イズ・ヴァストーカ】。そう言えば分かります」

 ――――――――東の翁。

「それではお嬢さん。またお会いしましょう」

 そんな意味深な言葉を残して。

 不思議な老人の背中は、人混みに紛れるようにして消えてしまった。




「このようなところに可憐な花が隠れているとは。壁の花にしておくのは実に勿体ない。花は愛でてこそ。そうは思いませんか?」

 ―――――――お嬢さん。

 白髪の老人が消えた先を半ば煙に撒かれたような気分で追っていれば、思いの外、近い位置から声を掛けられて、リョウは我に返った。

 この場所は、ある種の社交場だ。放っておいて欲しいと思っても、ここの慣習では女を独り壁際にぽつんとさせておくわけにはいかないのだろう。

 それにしても、この国の男たちの口説き文句は実に多種多様だ。そのような言葉に免疫のない自分には到底、慣れそうもなかった。どう軽く見積もっても話半分で流さないと大変なことになるに違いない。

 歯の浮くような台詞に内心、苦笑しながら、そっと振り返れば、そこには思いも寄らない男の顔があった。

 ―――――――ウテナ。

 一癖も二癖もある【ツェントル】の兵士だ。

「………………」

 余りの驚きに言葉を失えば、見知った筈の顔が『おや?』という表情に変わった。

 相変わらず感情の読めない笑みを張り付けて人好きのする柔らかい気を身に纏っている。

 だが、ウテナの性格を知るリョウにしてみれば、それは実に胡散臭いものにしか見えなかった。

 このようなところで顔を合わせるとは思ってもみなかった。

 ウテナに若干の苦手意識があるリョウは、内心、冷や冷やしたのだが、

「どうかしましたか?」

 相手から重ねられた問いに目を瞬かせた。

 もしかして、気が付いていないのだろうか。

 だが、ウテナは自分が女であることは承知の筈だった。少し化粧をして夜会用の服を着ただけで、元々の造作は変わっていはいない。

 気が付いていないのならば、それはそれで構わなかった。寧ろ、好都合というものだ。ウテナは勘の良い兵士だと思っていたのだが、向こうもこちらがこのような場所にいるとは思わないのだろう。思い込みというのは、人の認識を大いに左右するということだ。


「いいえ。なんでもありません」

 リョウは穏やかに微笑むと、ウテナに対しては初対面の相手に徹することにした。

 相手が気付くか気付かないか、それも見ものだと思った。その位のお遊びがあってもいいだろう。

「お嬢さんはお一人ですか?」

「いいえ」

 再びの問いに、リョウは品のある淑女の振りをしながら鷹揚な態度を貫くことにした。

「連れは今、あちらで捕まっておりますの」

 口元に手を当てて、室内へゆっくりと視線を走らせた。

 銀色の頭部に濃淡のある褐色の頭部が二つ。先程まで固まっていた三人は、今はばらけて其々離れたところにいた。

 リョウは艶やかな銀色の髪を撫で付けた精悍な男の横顔を見詰めた。

 そろそろ気が付いてほしいという本音をほんの少しだけ覗かせて。

 そして、すぐに逸らした。

 自分の連れがユルスナールだと知れてしまうと、きっと自分のこともすぐに分かってしまうだろう。何せ、この瞳の色と髪の色は、この辺りでは余り見ないものなのだろうから。

「なるほど。それにしても、幾ら話に興じているとは言え、貴女のようなお美しい人を放っておくなんて信じられない」

 そう言って大げさに肩を竦めて見せる。

 浮ついた調子は健在だ。

「それではお連れが戻るまで、私がお相手をしてもよろしいですか?」

 まぁ、全く知らない相手よりも、顔見知りの方がまだいいか。そう考えるとリョウは諾と頷いた。

「はい。ワタクシでよろしければ」


 改めて見るウテナは、周囲に集う男性陣と同じように正装をしていた。【ツェントル】にいた時も余り兵士には見えない文官的な匂いのする男だと思ったが、そうしていると本当にどこぞの金持ちの子息に見えた。―――――と、そこまで考えて、この場所に集うのは、専ら貴族階級が多いと聞いたことを思い出した。するとこの男もそうなのかもしれない。

「それでは、お近づきの印に」

 ウテナはそう言って、滑らかな所作でリョウの左手を取ると、その甲に触れるだけの口付けを落とした。

 リョウは内心、苦笑を漏らした。

 なんと抜け目のないことだろう。余りに自然な仕草に、最早抵抗するのが、却って失礼にあたってしまうのではと思えるくらいだ。やはり、このくらいの身体的接触は、この国の男たちには標準装備なのだ。

 リョウはうっかり流されないように改めて気を引き締めた。

「お名前を教えては頂けませんか?」

 手を持ち上げたまま、何やら熱の籠った眼差しを向け、出された問い掛けに、

「その必要はないのではありませんか?」

 リョウはおっとりと微笑むと相手の願いを軽く受け流した。

「随分とつれないことを仰る」

「いいえ。ワタクシがここに来るのは今宵限りのことですから、もうお会いすることもないでしょう。束の間の邂逅に名など不要ではありませんか」

 それに自分はもうすぐこの街を離れる。今後、この【プラミィーシュレ】を訪れる機会などありそうもない。だから、必然的に【ツェントル】に居るこの男にも会うことはないだろう。

「この街の方ではないのですか?」

「ええ」

「そうですか。因みにどちらからいらっしゃったのか、お聞きしても?」

 やや焦れたように重ねられたウテナの声に、リョウは無言のまま、首を横に振った。

「貴女はとんだ秘密主義者だ」

「ふふふ。詰まらない日常に適度の刺激(スパイス)は必要ではありませんか」

 ―――――――その方が面白いでしょう?

「なるほど」

 その言葉にウテナの目が何故か怪しく輝き始めた。

「詰まり、この私に貴女を探して欲しいということなのですね。ふふふ。貴女は随分と恥ずかしがり屋さんなのですね。そうですか。それではそのご期待に応えなければなりませんね。探し当てた暁には、私に御褒美を下さいませんか?」

 話の流れが、不意に変化したことにリョウは内心、ギクリとした。

 もしかしなくとも、不味いことになってきてはいまいか。

 いや、でもこれは、単なる言葉遊びの延長にしか過ぎないのだから、向こうも当然、その辺りのことは承知済みだろう。

「まぁ、褒美だなんて。鼻先に好物の【マルコーフィ(人参)】をぶら下げられた馬のようではありませんか」

「ですが、この広い国の中で、何の手がかりもない貴女を探すのですよ? 中々に骨の折れることに違いないですからね。その位の楽しみがなくては。そうは思いませんか?」

「まぁ、そのようなこと、ご自分から仰ってはいけませんわ。それにそこまでなさらなくても」

 ―――――――そこまでして知るほどの名前ではない。

 そう言って小さく笑うと徐に辺りを見渡した。

 すると、ちょうど同じようにこちらを向いたユルスナールと目が合った。


 リョウはこちらを案じるような色を乗せた瑠璃色の光彩にそっと微笑んで見せた。

 ユルスナールの視線が、リョウの脇に立つまだ若い男の姿を捕らえた。

 冷たいきらいのある鋭い眼差しがすっと細められた。

 ユルスナールは、リョウに一つ頷いて見せると、周囲を取り捲いていた客たちと一言・二言言葉を交わすと、その輪から離れ、壁の方に歩きだした。

「時間のようですわ」

 リョウはウテナに向き直ると微笑んだ。

 柔和な顔立ちをした男の肩越しに、こちらへと近づいて来る銀色の頭部が見えた。

「おや、もうそんな時間ですか。楽しい時程、時間の経つのは早い。そうは思いませんか?」

 そんな囁きと共に人当たりの柔らかい優しげな顔がずいと迫ってきて、リョウは咄嗟に身体を引いた。

 ウテナはやんわりと拒絶をされたことにほんの少しだけ傷ついた顔をして見せたが、それが振り(ポーズ)だと思ったリョウは、あっさりと流していた。

 相手の視線が逸れていることに気が付いたウテナが、その先を追うように振り返った。

 それと時を同じくして、リョウの隣に影が差し、腰の辺りに大きな男の手が触れた。


「すまない。待たせたな」

 耳元にそっと吹き込まれた囁きに、リョウは擽ったそうに肩を震わせた。

 房になった耳飾りが、その振動に合わせて揺れた。

「いいえ」

「大丈夫か?」

 臀部の緩やかな曲線をなぞりながら口にされた問いに、リョウは、男の方を見上げた。

「何がですか?」

「ここに集まる輩は、綺麗な花に目が無い。無体な事をされてはいないか?」

「ルスランまで」

 何を言い出すのかと思えば。

 リョウは的外れとも思える男の心配に可笑しそうに喉の奥を鳴らした。

「大丈夫ですよ。皆さん、御親切に話し相手になって下さっただけですから。この方もそうです」

 そう言うと視線を前に戻した。

 前にいるウテナは虚を突かれた顔をして、ユルスナールとリョウの顔を見比べた。

「…………シビリークス隊長」

「ああ。連れが世話になったな。お前の上司はすぐそこだ」

 その言葉に合わせるようにドーリンの神経質そうな顔が、こちらへと向き、ユルスナールへ何がしかの目配せをした。

「ルスラン、時間だ」

「ああ」

 ドーリンは、壁際にいた部下を一瞥すると、一つ頷きを返した。


 そして、ユルスナールはリョウを促して歩き出した。

 リョウは背後から注がれる視線に、そっと振り返ると、まだ事態が良く飲み込めていないような顔を晒している男に悪戯っぽい顔をして微笑んだ。

「それでは御機嫌よう。ウテナさん」

 ウテナの目が驚愕に見開かれた。

「……まさか」

 ウテナは確認するように隣に立つ上司を見遣った。

 返って来たのは、簡潔な頷きが一つ。

 余りにも淡々とした上司の反応に、ウテナは片手で顔を覆うと、唐突に喉の奥を鳴らし始めた。

 堪え切れない笑いが、漏れ始めていた。

「これは一本取られたな」

 それにつられるようにドーリンが複雑な顔をした。

「まぁ、あれは仕方なかろう。気にするな」

 ユルスナールに寄り添われてこの場を離れて行く、白い肌を晒した華奢な背中を見ながら、ドーリン自身、先程の衝撃を思い出してか、同じような精神状態にあるであろう部下に、幾ばくかの同情の眼差しを送ったのだった。


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