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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第三章:工業都市プラミィーシュレ
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心の鎧を脱ぎ捨てて

漸く、ヴェチェリンカ(夕食会・パーティー)の場面に入れそうです。


「さぁ、どうぞ。ご覧になってください」

 差し出された手鏡に映る女の顔には、控え目ながらも化粧が施されていた。薄く塗られたおしろいに、小さな唇には深紅の紅が引かれている。いつもは敢えて無造作に束ねられていただけの髪もきっちりと結い上げられて、寸分の乱れも無く巻き上げられ、艶やかな鈍い光を放っていた。

 目の端にその縁を強調する様な銀色の線が薄く入っている。

 鏡に映る女の顔が、ぎこちなく笑みを刷いた。

 そこには、久し振りに化粧を施したことへの戸惑いと懐かしさ、そして気恥ずかしさのようなものが綯い交ぜになっているように見えた。

「いかがでございますか?」

 鏡を手にしたまま、黙りこくってしまった女の様子を案じるように、化粧を施していた仕立屋の女房が、柔らかな微笑みを湛えながらその顔を覗き込んだ。

 剥き出しになった項は白く、そこから伸びる首はほっそりとしている。女の耳には、長い銀色の房の付いた繊細な鎖を編んだ耳飾りが揺れていた。広く開いた胸元には、青い石の付いたペンダントが肌の上で仄かな光を放っていた。

 隣から案じるような視線を受けて、女は顔を上げると、そっと苦笑に似た微笑みを浮かべて振り返った。

「なんだか……自分じゃないみたいですね」

「ふふふ。すごくお似合いですよ」

「ありがとうございます」

 満足そうに満面の笑みを浮かべる、ふっくらとした身重の女特有の頬を暫し見て、鏡を手にした女もどこか照れ臭そうに微笑んだのだった。




 昨晩から続いた濃密な一時を終えて、リョウが再び日常を取り戻したのは、昼を過ぎた頃だった。

 リョウは再び、質素な男物のシャツにズボンを穿いて、これまでと同じ服装に戻っていた。

 ユルスナールからは、念の為、今日一日は、一人でふらふらするなと釘を差されていたので、取り敢えず部屋の中で薬草の整理やらを行った。

 それから、大鷲のヴィーから話を聞いたのか、様子見にやってきた鷹のイーサンに使いを頼んで、レントと昨日訪れたラリーサ・コースチャ姉弟の父親の容体を見に行ってもらった。帰って来たイーサンから、子供たちの父親の踝の腫れが大分収まったらしいとの報告をもらい、そのことに一先ず安堵した。


 そんなこんなで時間を過ごしていると、出掛けていたユルスナールがブコバルを従えて部屋に戻って来たのだ。

 ブコバルは、部屋の中にいたリョウの顔を見るなり、目配せをして意味深な笑みを浮かべた。

「昨晩は随分と楽しんだみてぇじゃねぇか」

「な………」

 リョウは潜められた囁きに絶句した。

 ブコバルのことだ。絶対に何か言われるのではないかとは危惧していたが、思った通りのことを仄めかされて、居たたまれなさに硬直した。

 リョウは目の縁を赤らめて、黒目がちの大きな目を伏せるとふいと横を向いた。

 そして、一時の衝撃をやり過ごしてから、ブコバルに呆れたような視線を向けると知らないとばかりに返事を返さないまま、向こうへ行ってしまった。


 ブコバルはその後ろ姿をほくそ笑みながら眺めていた。

 リョウの白い肌は、艶やかで昨日よりも血色がよかった。その分だと尋ねるまでも無くユルスナールにたっぷりと可愛がってもらえたということなのだろう。好きな男から愛された女は、その翌日、一皮剥けた様に美しくなる。それは、過去の経験から導き出されたブコバルなりの持論でもあった。

 リョウの身体からは、満ち足りた空気が色気のようなものとして滲み出ていた。

 ――――――おいおい、これまでとは大違いじゃねぇか。

 ブコバルは、内心、舌を巻いた。

 ちょうど固い蕾がほころんで開花間近の花を見ているような雰囲気とでも言えばいいだろうか。

 凛とした清々しさの中にも艶やかさが立ち上るようにして匂う。リョウの中にある生来の女としての僅かな変化を嗅ぎ分けたブコバルは、一人、悶々とした。

 リョウは外見だけを見るならば、その辺りにいそうな少年だ。だが、今日は、そこに、そこはかとない艶めかしさが色を付けて醸し出されていた。端的に言って、見る者が見れば分かる美味そうな匂いを発していたのだ。

 というのはその道に詳しいブコバルの診立てである。


「おい。大丈夫か?」

 ブコバルは、直ぐ隣に立つ、その変化の原因となった男の澄ました顔を横目に見た。

 『何を』というのは、この男ならば言わなくても分かるだろう。

 あんなのを【エリセーエフスカヤ】なんかに連れて行って大丈夫なのかということだ。

 あそこには、こっちの分野で鼻の利く連中が集うからだ。

 あの場所は、この国の貴族たちがよく利用する店だった。一種の社交場、情報交換の場でもあるからだ。ユルスナールの腹積もりでは、リョウをそれなりに着飾らせようとしているのだろう。その為の準備を何やらしていたようであった。

 ブコバル自身もその魂胆に加担する形で、今回の会食を受け入れたのだ。

 そこには、純粋にリョウの本来の姿を見てみたいという好奇心があった。いつもズボンばかり穿いて、男と同じ格好をしている奴がどんな風に変わるのか。女としてどういった姿を見せるのか。大いに興味があった。

 だが、そのような曰くつきの場所にドーリンを加えた自分たちが、リョウを伴って現れる。

 噂好きな貴族の暇人どもにとっては、格好のネタになることだろう。

 まさか、そっちの方を焚きつけておいて、ガルーシャ・マライ関連の噂を有耶無耶に濁してしまおうとでも考えているのだろうか。それはそれで分からないでもないが、ある種の賭けのようにもブコバルには思えた。

 どの道、良くも悪くもリョウの存在は、注目を集めることには違いない。何せ、これまで社交界で浮いた噂の一つも無かった強面の相棒が、女を同伴するというのだから。

 などと、珍しく、ブコバルとしては諸々の諸事情を鑑みて、心配をしてみた訳だが、

「ああ。問題ない」

 対するユルスナールの返事は、随分とあっさりとしたものだった。

 声音だけを聞けば、いつもの調子ではある。

 だが、それを口にした男の顔を横目にちらりと見て、ブコバルはあからさまに大業な溜息を吐いて見せた。

「あああ。やってらんねぇな」

 ――――――とんだ腑抜けになってやがる。

 第七師団の兵士たちの間でも強面・冷酷と揶揄されている険のある吊り上がり気味の目尻が、今朝からやけに下がっていた。

 何故かとは言われなくとも分かるだろう。

 その先にいるのは、出掛ける準備をする為に、手早く黒い癖の無い髪を束ねている華奢な背中だ。

 ブコバル自身、ユルスナールとは、それこそ物心が付く頃からの付き合いの長い相手であるが、その男が、そんな表情をすることを初めて目にした。

 なんだか背中がむず痒くなりそうだ。素直に喜ぶべきなのか、そうでないのか、実に微妙なところである。


 だが、そんな複雑な表情をしたのも束の間、ブコバルは不意に思い出したように顔を上げると、嬉々として、ユルスナールの首に己が太い腕を回した。

 そして、その耳元に吹き込んだ。

「で、どうだった?」

 首に回した腕にぐいと力を込めて、その横腹を意味あり気に突いた。

 ユルスナールは、無言のまま、横目でブコバルへ胡乱気な視線を投げた。

「お前がそんな顔をする位だ。相当よかったってことだろ?」

 途端に声を潜めて、ニヤついた顔をしたブコバルに、ユルスナールはあからさまに眉を寄せると、実に冷ややかな視線を送った。

 下世話にも程があった。

 ギロリと相手を睨み付けるも、そんなことで今更怯むような相手ではなかった。

「誰が言うか。勿体ない」

「そんなこと言うなよ。俺とお前の仲じゃぁねぇか。………にしてもよぉ。あんな、ほそっこい身体でよくお前の……グェ…」

 そのまま淀みなく続くかに思えたブコバルの口説は、【リャグーシュカ()】が潰れたような声に取って替わった。ユルスナールが有無を言わせずにあからさま過ぎるブコバルの猥談を、その長靴を思い切り踏み付けることで、強制終了させたからである。


 突然、後ろから妙な声が聞こえたことに気が付いて、リョウが振り返った。

 そこには、相棒の肩に腕を回しながら、何故か顔を真っ赤に顰めて何かに耐えているブコバルと、逆に空恐ろしい程の冷笑を浮かべているユルスナールの姿があった。

「ええと………どうか……しましたか?」

 只ならぬ雰囲気に半ば狼狽えるように口を開けば、

「いや、何でもないぞ?」

 白々しいまでに飄々と言ってのけたユルスナールと、

「ああ。………気にすんな」

 ぎこちない笑みを浮かべるブコバルがいて、

「……そうですか」

 リョウは『障らぬ神に祟りなし』ということで、敢えて気が付かぬ振りをしたのだった。




 そんなささやかな悶着を間に挟んで。

 それから身支度を終えたリョウがユルスナールとブコバルの二人に連れて来られた場所は、街の中心部に程近い閑静な一角だった。街灯が等間隔で立ち並ぶ大通りの脇には、見るからに立派な二頭立ての馬車が停まっていた。御者台には背筋の伸びた使用人らしき男が乗っていた。

 それを横目に見ながら、裏口と思しき場所から中に入ると、そこで待っていたのは、いつぞやの仕立屋の主人とその妻だった。

「お待ち申しておりました」

 そう言って、にこやかな笑みを浮かべた夫妻に男たちが挨拶を交わす。

 リョウも同じように倣った。

 そして、リョウは妻のクセーニアに促されて、対する男たち二人は、主人の方に案内されて、其々、身支度をする為に別室に分かれることになった。

 別れ際、ユルスナールは、

「楽しみにしている」

 リョウの耳元にそっとそんな囁きを吹き込んでいった。

 何処となく甘さを滲んだその響きをリョウは持て余した。




 仕立屋の妻に案内されて、控室のような一室に入る。そこには、トルソーのような人型に、件の【プラーティエ(ドレス)】が掛かっていた。

 元々身に着けていた洗いざらしの服を脱ぎ捨てて行く。その過程は、一枚ごとに無意識に着こんでいた鎧のようなものを剥いで、本来の姿を取り戻すような不思議な気分だった。

 そして、クセーニアの助けを借りて手直しの加えられた【プラーティエ(ドレス)】に袖を通した。

 リョウの心は知らず高揚していた。お洒落をするということ自体、随分と久し振りのことだ。スフミ村でリューバから伝統的な女物の衣装を借りたが、あれは、自分の中では馴染みのない服装で、今回ほど、昔のことを想起させるものではなかった。

 【シーニェイェ・マルタ】特製の艶やかな生地は、しっとりと素肌に馴染んだ。深い紺色の色合いも派手ではないが、落ち着いた品のある輝きに満ちていた。

 この色は自分にとっては特別な意味を持つ。この色の生地を選んだことが偶然なのか故意なのか、それはリョウには分からなかったが、この色合いに身を包むと、同じ色の瞳を持つ男の(かいな)に抱かれているような気持ちにさせられた。

 ドレスは、驚くほど自分の身体にぴったりだった。着心地も手直しを加える前とは段違いだった。心配していた胸元もちょうどよいぐらいになっていた。といってもその露出は、普段の自分からは想像が付かないくらいのもので、かなり勇気がいるものであった。セレブロの文様が隠れるか隠れないかという程だ。最後に、たっぷりとした生地で後ろに腰紐を結ぶ。大きなリボンが下がったその背中はギリギリまで大きく切り込みが入っていた。

 それから、解いた髪を結いあげ、軽く化粧を施し、ドレスに合わせた高さのある【トゥーフリ(パンプス)】を履いた。


 そして、場面は冒頭に戻る。

 全ての準備を終えて、リョウは鏡の前に立った。

 そこにいるのは、自分である筈なのに、まるで違う人物のような気がしてならなかった。

 これまで隠してきた別の人格を暴かれたような気分に陥った。

 緩やかな線を描く身体。これまで人目には晒して来なかった骨格が、今は、手に取るように分かるだろう。縁取りをして(アイラインを引いて)いつも以上に強調された目元。

 そして、極めつけは唇に薄く履いた紅だろう。突如として存在を主張し始めた艶やかな口元だ。

 鏡に映った女が溜息を吐いた。

 込上げてくる様々な思いを消化するかのように。

「ふふふ。とてもお綺麗ですよ。きっとお待ちになっている殿方も驚かれることでしょう」

 ヒールの高い靴を履いて、同じ目線になった鏡越しに映るクセーニアの顔は、達成感に輝いていた。

 並々ならぬ相手からの意気込みを感じて、それを目にしたリョウは内心、苦笑を漏らした。

 リョウの心臓は知らず早鐘を打ち始めていた。この姿で人前に出ることへの緊張感とこの姿をユルスナールに見せるという不安が改めて湧きだして来たのだ。

 緊張に顔を強張らせたリョウにクセーニアが諭すように微笑んだ。

「大丈夫ですよ。緩く息を吐いて。自信を持ってください」

「そうですね」

 身重の身体を押して、これだけの準備をしてくれたクセーニアの為にも、リョウは微笑むと背筋を伸ばした。

 そして、身体を慣らす為に、ヒールの高い靴を履いた足で繊細な模様の入った絨毯の上を歩いてみる。

 久し振りの感触に心が躍るのも確かだった。

「やっぱり、履き慣れてらっしゃいますね」

 足取り確かに絨毯の上を歩くリョウの姿を見て、クセーニアは感嘆の息を吐いていた。

「初めてではないですけれど。随分と久し振りですね」

 そう言って、はにかむようにして控え目に微笑むリョウの姿は、実にしっとりとした大人の女性の艶やさを纏い、お伽噺に出てくる夜の精の化身のように見えた。


 それから、リョウは、簡単にこの国の女性が取るべき最低限の礼儀作法をクセーニアに確認した。自分と一緒にいるユルスナールやブコバルたちに恥をかかせる訳にはいかないからだ。

 そして、男たちの方も準備が整ったとの報せを受けて、リョウは、クセーニアに感謝の言葉を口にすると、これから待ち受けているであろう扉の向こうの世界に不安半分、胸を躍らせて、一歩、足を踏み出したのだった。


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