76.地獄の底
全てが曖昧。
痛。
熱。
苦。
一体どれくらいの時間が経ったのか。
痛。
鋭。
鈍。
吸。
痛。
吐。
あれ? なんでエッセがこんなところに……?
目の前になぜか彼女がいて笑顔でオレを見ている。
そして殴られた。
痛。
恐。
惑。
苦。
辛。
何度も。
何度も。何度も。何度も。
殴。
砕。
殴。
折。
殴。
裂。
殴。
吐。
もしかして羅腕童子から攻撃を庇う羽目になったことを責めているのだろうか。
謝ろうとするが声も出ない。
ただただ殴られる。
熱。
熱。
熱。
混。
斬。
断。
気づけばエッセが消えていた。
そこに家族がいる。
母さん、父さん、そして兄貴。
剃。
刺。
躙。
開。
抉。
失ったはずの家族。
凄い剣幕でオレを追い出したはずの家族が皆笑顔でオレに微笑みかけていた。
ああ、よかった…きっとあれは悪いユメだったんだ―――
触。
狙。
刺。
抜。
刺。
抜。
刺。
抜。
皆が笑顔。
それぞれが何か道具を持って攻撃してくる。
思わず避けたくなるけれど、体は動いてくれない。
燃。
焦。
苦。
嘆。
辛。
熱。
熱。
哀。
あれ、なんでだろうか…?
別に悲しくもないのに涙が溢れる。
見えていた家族の顔が真っ黒になってシラナイひトになっていく。
刺。
痛。
痛。
痛。
黒。闇。昏。暗。
ああ、そウカ。もう夜だもんなぁ…。
視界が半分マっ暗ニなるのもしょうガナイ―――
。
痒。
。
壊。
。
あア、もうね くなってきタ……。
おや み さ―――
白んだ意識を暖かい光が覚醒させていく。
亀の歩みよりも遥かにゆっくりと片目を開く。
「……………?」
見上げていた。
暗い暗い空。
茫洋としたそこには小さな月。
首を傾げる。
そもそも月はあんなに明るかっただろうか?
もっと朧気でもっと幻想的で、もっと美しかったのではなかろうか。
ましてやいくつも月はない。
所詮人工の明かりだ、とため息をついてようやくそれが照明であることに気づいた。
体を包み込んでいる暖かい光は目の前の一人の女性が齎しているようだった。
少しずつ、そう本当に少しずつだが意識が戻っていく。
本当に崖に落ちるギリギリのギリギリ、それくらいまで断線されていった命が継ぎ接ぎながらもつなぎ合わされていくような、そんな感覚。
もう何度繰り返されただろうか。あと一瞬でも遅れれば本当に死に至るような、そんな刹那まで追い込み、それを見逃さずに引きずり戻す、そんな繰り返し。
死に瀕するその度。
違う。
片方くらい死に踏み込んでいて尚、目の前の女性がそれをつなぎ止めるのだ。
切り落とされた指はおろか、手足も、失った血液ですらも。
鎮馬の“癒し”で人を治す術を知っていたが、これは最早別次元だ。わかっていても驚嘆を隠しきれない。オレの知っている限り死に瀕するほどに大規模に欠損した体を治せるのは、エッセくらいのもの。その予備知識があって尚目の前で実演されればこれほどの衝撃なのだから、もし全く知らない一般人がこれを見たなら、神様と錯覚してしまうかもしれない。
惜しむらくは、この狩場や戦いで味方にかけられたならこの上なく心強い技能が、今回に限っては悪夢以外の何物でもない使い方をされていることか。
「そのへんでいい」
背後に居た隻眼の男が軽く言うと、女性は静かに離れていく。
ある程度回復した視界はここが倉庫の地下のままであることを教えてくれている。どれくらいの時間が経っているのかわからないが何も変わっていない。
変わっているのは今のオレの状態か、と自嘲する。
視界を遮る檻。
球形に近い鳥籠のような檻が頭に被せられ首輪に固定されていた。
最初は何のために使うのかと思ったが、何のことはない、頭に突き刺す針が動かないようするためだった。そのため、右目、左耳、他頭の5箇所ほどには金具で鳥籠に固定された金属の針が突き立っている。
どうも脳の特定部分を刺激できるようピンポイントで埋め込まれているらしく、針を触られると自分の口からそれぞれ違った悲鳴が出てしまう。
舌は切り落とされること2回、その都度癒されているので今は喋れる。
両手両足の爪は剥がされたり妙な形に穴を開けられたり、色々されたが今は剥がされた上に釘を打たれているようだ。
まぁ他にも手足の指の付け根から甲に鋸を入れて、指の長さを伸ばそうと、いや、この場合伸ばそうという表現が正しいのかわからないが、とにかく伸ばそうとされたり、肺を片方切り取られて見せられたり、そりゃもう色々されたが、なんとか今はとりあえず生命活動をする分には、といった程度まで癒されていた。
常人であればすでに発狂しているような苦痛だろう。
だが悪いことに、どうも一定以上の苦痛が出ると反射的にそれを和らげようと脳が動き出してしまうようだ。戦いのときにはありがたかったんだけども、今回に限ってはどんな激痛であっても、ギリギリ耐えられるくらいまで抑えてしまっている。
結果として感じられる最高の痛みを延々と味わう羽目になる。
おまけに目の前の女性―――天小園聖奈の治癒術は肉体のみならず精神にまで影響するのか、摩耗した精神を多少なりとも癒してしまう。
おかげで今こんな風に思考をすることが出来ているわけなんだが。
まぁわかりやすく言うと、詰んでいる。
オレが自発的にどうにか出来ることはもう、何もない。
ただ、ただ時間を待つしかない。
ばりぼりばりぼり……。
紙袋を手に伊達が何かを食べている。
いつの間にか、その背後にあったテーブルには同じような紙袋がいくつも置かれていた。どれもこれも同じファーストフード店のロゴが入っていたから、夕食だろうか。
「キミたちもどうだい?」
「結構です」
楽しそうに傍らの三日月梟にも勧めるが、あっさりと断られる。
残念そうに肩を竦めてから、こちらを見た。
「ああ、そろそろいい時間だ。本当にキミはよく耐えた。実際予想外だったよ、素直に賞賛しようじゃないか、ブラヴォー! マーベラス! 素晴らしい!」
奴一人の大きな拍手が室内に虚しく響く。
「そんなキミに敬意を評して、これで終わりにしようじゃないか」
じゃぎん。
そう言って、錆びの浮いた鉄色の前腕部を覆う篭手―――ガントレットを身に付けた。なんといえばいいのか、どう控えめに見積もってもその百足を象った禍々しい造形が悪い予感しかさせない。
「そうだな……首まで発狂せずに耐えれたのなら、キミとの約束を果たそうじゃないか」
徐ろに近づくと、そのままその手をオレの腹部に伸ばした。
つぷ…っ。
それまでオレが耐えてきたものに比べれば小さな痛苦。
ガントレットが引き抜かれるとそこから百足の彫刻が消えていた。
かすかに突き立った穴にから5匹の百足が食いつくのと同時にそれはやって来た。
「ガァァァァァァァあぁぁぁァァギァッ!!?」
内側から猛烈な勢いで激痛が広がっていく。
あまりの痛みに熱さすら感じる。
ぞぞぞぞおぞぞ……ぉっ。
百足が内臓を食い散らかす。
ありとあらゆる神経をその乱雑な牙でズタズタにしていく。
思わず意識が白くなりそうになるが、伊達の言葉を思い出して文字通り歯を喰い縛る。
「今回は“偽鬼の法”ではなく単純に蝕んでいくだけだ。
一際食い散らかしてから脳まで美味しく、な。ゆっくりと鑑賞するとしようか」
離れてどっかりとパイプ椅子に腰掛けた伊達は再び紙袋を手に食事を始める。
さながら映画館で映画を楽しむ客がポップコーンを食べているかのように。
ごりゅ、ごりゅ…りゅっ、めきゅ。
「ひぃアァァぐアああぁァぁ!!?」
いっそひと思いに心臓でも喰い破ってくれれば楽になれるのに。
そう思ってしまうほど最低限必要な内臓機能だけを残して暴れていく。時折、腹部が百足の形に膨れ上がり蠢いていく。
脳まで百足が到達すれば、さすがにもうアウトだろう。
やはりあの男はオレを生かしておくつもりはさらさらなかった。
だが―――
『もしボクが満足いくまで耐えたなら、ちゃんと綾ちゃんをここに連れてきてあげようじゃないか』
『首まで発狂せずに耐えれたのなら、キミとの約束を果たそうじゃないか』
少なくとも、死ぬ直前に綾の無事だけは確認できる。
どれくらい時間が経ったのかわからないが、少なくとも時間を稼ぐことは出来たはずだ。あとは出雲に任せるしかない。
願わくば、せめて出雲と綾には幸せになってほしい。
自分に死が近づいているにも関わらず、願ったのはそれだけ。
家族がいなくなった今だから気づいた。
結局、綾への想いを吹っ切れていなかったことを。
別の男のものになったとしても別に構わない…ただ幸せで居てくれさえすれば。
だからここで死ぬ。
ああ、でもエッセと月音先輩には謝らないと。
約束を破ってしまった。
助けてあげられなかった。
それだけが心残りだった。
ぱき…ぼり、ごき…ぐちゅ…がじゅ…っ、ぞぞぞぞおぞぞぞ…っ!
「~~~ァァァ…ぉ~~っ!!!?」
随分と空っぽになった感覚のある腹部からついに移動を始めた。
ゆっくりと首のほうへ。
刻一刻とオレという存在が消えていく。
だがオレはまだ正気だ。
それを示すかのように伊達のほうを睨みつけた。
それを見たあの男は困ったかのように紙袋をテーブルに置いた。
「ちゃんと約束を守っているよ、もう連れてきている」
もぐもぐと咀嚼しながら、別の紙袋を手に取った。
中身を床にぶちまける。
どちゃり…っ。
液体をこぼしたかのような音。
落ちて血をまき散らす誰かの“手首”。
女性のようだが一体誰のものだろうか。
だが身に付けている腕時計が全てを物語っていた。
ぷっ!
伊達が咀嚼していたものを吐き出した。
散々噛まれズタズタになった唾液まみれの耳が床を滑っていく。
「……………っ」
何も気にならない。
首筋を噛みあがってくる百足すらどうだっていい。
つまりあの紙袋の中は―――
「ほぉら、ちゃんと連れてきてあった…約束は守っただろう?」
伊達はテーブルに置いてあるたくさんの紙袋を前に破顔した。
「 」
声にならない声。
すでに百足に喉まで食いつぶされているオレには声を出すことすら出来ない。
だが、それでも、ただ叫ぶことしかできなかった。
「 」
目から何か熱いどろりとしたものが溢れる。
涙なのか、血なのか、その両方なのか。
もう会えない。
ただそれだけなのに。
『ダメだよ、出雲。充は基本的に寝たら忘れる子だから』
悪戯っぽく言った微笑みも、
『うん、私もびっくりしちゃった』
くるくる愛らしい表情も、
『えー? 私たち以外で充のいいところに気づいてくれた人が出来るのは嬉しいに決まってるでしょ』
あの大事な彼女の全ても、
『初めての試合で大変だと思うけど、頑張って!』
もう何もかも、手遅れなのだと。
何もかもが遅く、何もかもが取り返しのつかない。
それが喪失なのだと。
百足がついに脳に到達する。
少しずつ少しずつ。
食いつかれ咀嚼され、出来ることが無くなっていく。
だが、そんなことはどうでもよかった。
ただ目の前で嗤う男しか目に入らなかった。
この気持ちをなんと表現しよう。
その回答を知っている者は唯一人。
そして、意識が完全に消失し、
―――再び、彼に出会う。
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作者が頑張る燃料になります。




