Ex.7 月音・ブリュンヒルデ・フォン・アーベントロート(1)
物語はいつも竹林から。
鬱蒼とした茂みの奥深く。
お爺さんが見つけた竹の中から現れた女の子の物語。
ああ、これは夢だな、と思う。
何度見たのかもわからない。
ちいさいときからずっと聞かされていた物語。
竹取翁の物語。
お爺さんが女の子を見つけ、その女の子がすくすくと育っていく。
大層見目麗しく育った彼女に世間の男たちは釘付けになる。身分を問わず様々な男たちが押し掛け色々なアプローチをしていく。しかし中々上手くいかない。そのうちに男たちはひとり、またひとりと諦めていった。
なんて勝手な。
それくらいで諦めるのなら最初から寄ってこなければいいのに。
初めて聞いたときそう感じたことを覚えています。
男たちのうち最後に残ったのは5人の貴公子。
その様子を見たお爺さんは心配をする。自分たちが死んだあと彼女はどうするのだろう。叶うなら世間の女性のようにしっかりとした男のところに嫁いでもらいたい、と。
彼女は条件を出す。
存在するかどうかもわからない5つの品をそれぞれ貴公子たちに所望する。
仏の石鉢。
蓬莱の玉の枝。
五色に光る龍珠。
火鼠の皮衣。
燕の子安貝。
そのどれもが難題。
それでも彼女の心を射止めるためならば、と挑む貴公子たち。
……と、そこまでならばよかったのだけれど。
知恵を出し手間をかけ策を労する貴公子たちの手管はどれも誠実ではない。
遠くまでいくのを面倒がってほとぼりが冷めた頃に適当なものを持ってきたり、最初から贋作を作って得意満面に戻ってきたり。普通に買ってきた人もいます。
最初から無理ならば挑まなければいいものを。
自分のために苦労してくれる、ということがどれだけ女心に響くのかわかっていないんじゃないかしら、そんなことを思う。
さらに話は続く。
貴公子たちの中には真面目に取り組んで命を落としてしまった人も出てくる。このへんは何度見ても可哀想になってくる。
そして最終的には帝まで登場しての求婚劇。
当時の最高権力者が登場しての求婚にすら彼女は応えない。
その全てを蹴飛ばして彼女は進んでいく。
そして最後。
彼女は自分が帰る定めにあることを伝えます。
そしてある夜、天の使いがやってくる。
育ててもらった老夫婦や関わりになった人たちの見送る中、彼女は月へと帰っていく。
小さいとき、求婚者を撥ね付けるシーンで、もっと素敵な人が現れたら彼女も幸せになれたのに、と本気で思っていたこともあった。
でも今はこの月に帰るという最後もとても好き。
別れることとなったお爺さんたちの哀しみはとても切ないものだけれど、それこそが限りある人間の愛の哀しさを教えてくれる。
何より、本人の意志に関係なく自分の願望ひとつで寄ってくる殿方に対しての嫌悪感を重ねている。本当に無理強いされる好意ほど始末の悪いものはないと知っているから。
彼女が最終的に求婚者の誰も手が届かない場所へと行く。
それはわたくしにとって、とても魅力的なことに思えた。
夢はいつだって夢のまま。
でも夢だからこそ叶うこともある。
気づけば、わたくしは彼女になっていて、迎えに来た天の使者が連れてきた車に乗り込もうとしていた。
これもいつものこと。
もうすぐ覚めてしまう夢だけど、今は現実を忘れてただ微睡む。
使者に差し出された手をそっと取る。
わたくしは喜びと共に乗り込もうとする。
そして気づく。
いつもは表情が見えない使者の顔が見えることに。
ふふ、どうせ夢なのだから、少しくらい行儀が悪くても構わないでしょう。
手を取った体勢のまま、つい好奇心を刺激されてじっと見てしまう。
迎えにきた使者の顔―――それはなぜか、充君のものだった。
□ ■ □
「…………」
夢から戻る。
ベッドに体を横たえたまま天蓋を見上げている。
頭の中は真っ白一色。
でもすこし時間が経つと理解が追いつく。
それと同時に自分の頬が熱くなっていくのを理解した。
いてもたってもいられなくて思わず体を起こす。
「…な、なんで………?」
自分でも答えられない問いを呟く。
真っ赤になっているであろう頬を押さえながら動悸を沈める。
竹取翁の物語を夢で見ることは少なくない。
そもそもあの話がなければ私が今ここにいることはなかったはずだもの。幼いときから一番多く読み聞かせられた物語なのだから、その夢を見たことについて疑問を挟む余地はありません。
でもあの結末は本当に予想外。
不意打ちにも程がある。
あれではまるで―――
「―――か、か、駆け落ちじゃないですか」
言って自分で照れてしまう。
考えれば考えるほど混乱しそうな気がするので一旦考えるのをやめましょう。
深呼吸をして気持ちを落ち着けるとしましょう。
落ち着いたところで壁に掛けられている時計を見た。
時間は午前6時。
まずいつも通り髪を整える。
見られる立場だから、という以前に身だしなみは淑女の作法。
身だしなみを整え終えた頃、部屋の扉がノックされる。
こんこん。
「どうぞ」
マホガニー調の扉が静かに開くと、そこにいたのはいつもお世話になっている家政婦さん。わたしはいつも通り挨拶をする。
「おはようございます、月音お嬢様」
「はい、おはようございます。道子さん」
わたくし、月音・ブリュンヒルデ・フォン・アーベントロートの一日はいつも通りの始まりを見せた。
□ ■ □
学校に到着する。
到着時刻は7時半。
いつもと変わらない同じ朝。
だというのに、わたくしはまだ立ち直れないでいました。
原因はいたって明白。
三木 充。
あの子のせい。
…いえ、別に夢に出てきたのはあの子自身が悪いわけじゃないのだから、わたしのせいなのですが。
思い当たる節は確かに。
半月ほど前、わたくしが危ない事態に陥ったときに颯爽と現れてくれた。
あのとき、まるで少女のように胸をときめかせたりしなかったといえば嘘になります。
その後話した際にも気持ちのいい子だと思ったし、確かに好感を持ったことは間違いありません。もし彼があそこで割って入ってきてくれなければ、今頃知り合いの家にもらわれていった仔猫だって無事には済まなかったでしょうし。
それでもその後こちらから近づかないように言ったのはわたし。
自らその縁を断ち切ったのです。
もう白馬の王子様を夢見るのは卒業しているべき年なのですから。
自分のことは自分で始末をつけるべきですしこれ以上の巻き添えを見たくない。それがあんなにいい子なら尚のこと。
そう、決意したはずでした。
それでももしかして心の奥底では決意しきれていなかったのでしょうか。
あのような夢を見たあとでは否定することもままなりません。
でも彼は一年生だと聞きました。
つまりほんの数ヶ月前までは中学生。
右も左もわからない子供。
いくらなんでも頼るには申し訳ない相手ではありませんか。
ましてや、そういう相手として意識する、だなんて―――
「…………」
頬がまた熱くなっていく。
いけません。
本当、考えれば考えるほど深みに嵌っていくようにしか思えません。
切り替えましょう。
いくらなんでも正門で生徒会長がひとりで顔を赤くしていたりしては生徒が不審に思います。
だというのに―――
「おぃ、大丈夫か、充?」
聞き覚えのある男子生徒の声にびくっとして振り向きます。
通学路の途中。
何人もの生徒がいるうち、3人の男女が登校すべく歩いてきているのが目に入りました。
その中に彼、充の姿があったから。
「……あんま大丈夫じゃない」
「充が登校早くしようとか言い出すから何かと思ったぞ」
「うん、私もびっくりしちゃった」
一緒に歩いているうち男子生徒はあの日一緒だった出雲さんとやらでしょう。もう1人はどなたでしょうか? 随分と親しそうですが……。
ただその3人の距離感が程よくて見ていてとても微笑ましい雰囲気。
「か、体が痛くて…痛くて…満員電車に乗る度胸が……」
「……?」
「あー、多分充は筋トレか何かをやりすぎて体が痛い。だから体のぶつかる満員電車を避けて早く登校したかった、ってことだと思うよ。綾」
「なるほど~」
何かをフォローするように出雲さんが女の子に説明。
確かに充君は動きもぎこちなく、どこか疲労感も漂っているように見受けられます。本当に大丈夫なのでしょうか?
「本当に大丈夫? 今日テストなんだよ?」
「…とりあえず眠れなくて一夜漬けはしたから平気」
「おー」
「………だといいなぁ」
「強気なのか弱気なのかよくわからないぞ…」
他愛の無い会話が続く。
そこでふと、
「ッ」
こっちを向いたので思わず隠れてしまいました。
これでは不審者もいいところです。
幸い見つからずには済んだようですが……。
そうこうしているうちに3人はそのまま校舎に入っていってしまいました。
「……一体何をしているのでしょうか、わたくしは」
ふぅ、と息をつく。
単純な充君への好感以前に、もしかしたら羨ましかったのかもしれません。
友人。
それはあの男によって壊されたものだったから。行動のひとつひとつに垣間見えた彼らの純粋な友情に、壊れてしまったわたしの友情の幻想を見ていたのでしょう。
近寄りがたい花でいること。
それがわたくしが自らに課した役割。
いつかあの男に反撃する日まで。
そう自覚することでいつもどおりの平静を保つと、わたくしは教室に向かって歩きだしました。
さてホームルームと授業を終え、日直だったわたくしは先生に頼まれ二時限目の準備のため教材を取りに行くことになりました。具体的に言えば英語試験のヒアリング用の機材です。
言葉は悪いですが、わたくしの担任の先生は物を色々なところに置きっ放しにすることで有名な物忘れの激しい方。こういうことはたまにあります。
もうひとりの日直と手分けをして、先生から行動した順序を聞いたわたしはまず図書室を探してみることにしました。
そっとドアの取っ手に手をかけます。
鍵はかかっていないようです。
本来は解放しているのは昼休みと放課後だけのはず。それ以外は入り終わったら鍵を掛けるのが原則なのですが、さっきの話通り先生が出ていくときに掛け忘れていったのでしょう。
と、いうことは忘れ物はここの可能性が濃厚ですね。
手早く探すとしましょう。
扉を開きます。
それと同時に、
ドサドサドサッ!!!
中から何かが盛大に落ちる音が室内響きました。
見ると整然と並べられている本棚のひとつが倒れていて、そこから本が大量に落ちています。
人数の多い学校の図書室だけあり小さな図書館に匹敵するくらいの蔵書があります。そのため図書館と同じようにスチールの重厚な本棚を並べて立てているのですが、どうやら何かの原因でそのひとつが倒れてしまったのでしょう。
「…!!」
いけない。
よく見ると倒れた本棚の下、落ちた本の山から手足らしきものが見えています。どうやら誰かが下敷きになっているようです。
慌てて駆け寄って本棚を掴みますが、スチール製の本棚は起こすのが難しい。なんとかしゃがんで反動を掴んで引っ張るとようやく起こすことができました。
安堵する間などなく急いで本の山に駆け寄ります。
ばさ…ばささっ。
本来はもっと丁寧に扱うべきでしょうが今回は人命が優先。本棚に戻すためにゆっくり分けるのはその後でも間に合います。
急いで取り除かないと!
慌てながら本をどけると徐々に埋もれていた生徒が出てきます。
自力で出てこないようなので心配しましたが、どうやら命に別状はないようで出てきた胸が浅く上下しているのがわかります。
あとすこし、そこまで本をどけてからわたくしは固まりました。
「…………」
言葉が出ません。
一体今日はどういう日なのか。
いえ、それ以前に聞かなければならないことがありますね。
どうしてあなたは図書室で本に埋もれているのでしょうか、充君。
見覚えのある顔を見ながら戸惑うことしかできません。
周囲を見回すと英語試験の機材は司書カウンターの上に置きっ放しになっていました。
ざっと見たところ大事はないようですし機材を届けてから、彼を保健室に連れていくとしましょう。確か保健医の方は今日の午前中はご用事があると言っていましたから、介抱くらいはしないといけないかもしれませんし。
いささか都合が良すぎる気もしましたが、きっと気のせいでしょう。
何せ、わたくしは主人公ではないのですから。
何もせずに自分に都合がよくなるようになっているあの男とは違います。
もし偶然というものがあるなら、それは日頃積み重ねた行動の結果でしかありません。
「…………zzzZZZ」
本棚の下敷きになっても寝ている彼も、きっとそれは同じはずです。
……いえ、なぜ寝ているのかとても疑問なのですけれど。
少しだけ頭の中を整理し、どうするかを考えた後。
機材を届けてから、急に体調を崩した生徒を保健室に運ぶ旨を担任の先生に伝えました。
試験については授業終了までに解答用紙が出来上がっていればよいとのことですから、終わる20分前までに戻ればよいでしょう。次の科目が英語なのが幸いしました。
海外出身の父親のいる家庭環境に感謝します。
図書室に戻ると、充君は戻る前と同じ場所に横たわっています。
さて、どうやって連れていきましょうか。
見たところ体格的には一般的な男子生徒と遜色ないようですが、やはり一人で連れていくとなると中々骨の折れる作業になります。
そこまで考えた後、
「……寝ているだけでしたら、すこし待ってみるのも手ですね」
そんなことを思いました。
見たところ本棚の下敷きになって多少の擦り傷を作っているものの、他に目立った外傷はないようです。すこし待ってみて起きなければ起こす、ということで様子を見るとしましょう。
本来であれば授業中。
それも中間試験の最中です。
すぐに起こしてあげるほうがよいのでしょうけれど……。
あんなにいい顔をして寝られたら、ちょっと起こせないじゃないですか。
さて、その間にわたしは本棚を直して先ほど急いで横にどけた本を取ります。これらをジャンルごとに分類しながらいくつかの山にしていくことにしましょう。
普通に考えて図書委員でもない素人のわたしが分けるのは結構な労力に思えますが、実際には背表紙に貼られたラベルで大体の配置がわかりますから、そこまで難しい作業ではありません。
事実手際よくやっていけば10分ほどで大きなカテゴリ分けは完了します。
本棚の裏と表、どっちにあったのか、という大雑把な分け方ですので、時間がかかるのはここからです。おそらく授業中では時間が足りないでしょう。後で管理をしている人に話してやってもらうしかないところです。
そう思いながら見ていると興味をひくタイトルのものがったので、思わず手にとってしまいました。
竹取物語。
原文と現代語訳を交えた単行本サイズの本。
今朝のこともあってそれを手に取った瞬間、色々と思い出して気恥ずかしくなってしまいました。
「ん………っ」
寝ていた充君が小さく声をあげました。
思わずびっくりして手に取っていた本を落としそうになります。
あぶないあぶない。
本は大切に扱いませんと。
「…………あれ?」
半分寝惚け眼で上半身を起こした彼はきょろきょろと周囲を確認しています。どうやらまだ頭が状況を把握していないようです。
「おはようございます、充さん」
にっこりと笑って声をかけます。
さっきびっくりしたせいか胸が早鐘のように鼓動しているのですが、ちゃんと笑顔が作れているでしょうか。生徒会長という役目柄(正確には副生徒会長が原因なのですが)内心を隠して相手に接することには慣れているつもりですが。
そんなわたしに、
「あ、はい…おはようございまふ…」
ぺこり、と首だけ軽く曲げて会釈をしてくれました。
が、それも一瞬のこと。
「……って、え……えぇぇぇぇぇっぇぇッ!!?」
いきなり何かに驚いて凄い勢いで後ずさります。
ずざささッ!と擬音が背後に見えそうな見事な動きです。
あ、でもそんなに勢い良く下がると…
どんっ!
充君は背中から別の本棚にぶつかります。
結構な勢いでしたから、その衝撃にかすかにぐらっと揺れる本棚。
幸い倒れるようなことはなかったのでほっと胸をなでおろします。
「………そんなに驚かれると少しショックなのですけれど」
もしかして充君のほうは余りわたくしに対してあまりいい印象を持っていないのかもしれません。確かに以前初めて知り合ったとき、別れ際あまり関わりにならないように、などと偉そうに語ってしまいましたから当然だと仰られればその通りです。
「い、いやいやいや。な、なんで月音先輩がここにッ!?」
確かにそれを知りたくなるのはわかりますが、授業中に図書室にいるのは充君だって同じ立場。そんなにわたしがここにいると不味いみたいな対応をされると困ります。
ちょっと意地悪な心持ちで、
「それを言うのなら、充さんこそどうしてここにいらっしゃるのでしょう? 今日は1年生も中間試験のはずなのですけれど」
「うぐ…ッ」
すこしバツが悪そうに頭を掻く少年。
言葉に詰まったのか黙ってしまいます。
ふふふ、ちょっと意地悪が過ぎてしまったやもしれません、反省しましょう。
「わたくしは二時限目のヒアリングに使う機材を取りに。
そこで充さんが倒れてらっしゃいましたから機材を届けた後、様子を見ていた。わかりやすく説明するとそういうことになりますね」
そういうことか、と納得してくれている様子。
「な、なるほど…それは、し、心配おかけ致しました」
たださっきから言葉に詰まりがちなのが気になります。
やはり生徒会長相手ということで緊張しているのでしょうか。緊張しているということはつまるところ身構えているということ。恩人でもあるわけですから、できればもっと気楽に話して頂けたら、なんて埒もないことを考えます。
「それで充さんはここで何を?」
「……ぅ、ぁ…」
聞き返すとまた黙ってしまいました。
正確には意図して沈黙しようとしているのではなく、言葉をどういう風にまとめようかと考えているように見受けられます。
相手が自分なりのペースで話せるように、無理強いせずに静かに待つとしましょう。
少しして落ち着いたのか、
「そ、それ……い、言わないとダメですか?」
「わたくしはちゃんと話しましたよ?」
「そ、そうですよね~」
あはは、と笑いながら笑顔を浮かべる充君。
すこし可哀想になってきましたので無理強いはしないことにしましょう。
「勿論何か事情があってのことで、それがお話しできないことであれば構いませんよ」
「あ、ぅ、いや、そ、そんな大層な事情じゃないんですけど……。
実はちょっと諸般の事情により睡眠不足でして…あまりに眠いので、い、1時間だけフけて寝てようかな、と……いえ! ゴメンなさい! つ、つい魔が指したんですぅっ!
ふ、フラフラしてて図書室の鍵があいてたもんで…」
わたわたとしながらの弁明。
もしかして中間試験のために徹夜で勉強でもしていたのでしょうか。
話を総合すると偶然空いていた図書室に忍び込んだのはいいものの、隠れて寝ようと奥の方に行こうとして、そのまま意識を失って本棚に激突。今に至るようです。
「いけませんね。学生たる者、勉強が本分。どのような事情があるかはわかりませんが、それに影響が出るようななら、その時間の使い方は間違っています。
あまつさえ授業中に図書室で寝ているなど、貴方は学校という学び舎をなんと心得ているのですか」
「………うぅ」
生徒会長っぽく威厳があるように一言ずつ区切って短く注意する。
ただ今は図書室で彼とわたし以外は誰もいない。あのどうしても好きになれない副生徒会長すらも!
だからこれくらいはよいでしょう。
「―――と、普段なら言わないといけないのでしょうね」
自然と微笑みをこぼしながら続けます。
あ、きょとんとしている顔も可愛いですね。
「でもそうなると、すぐに起こしてあげられなかったわたしも同罪ということになってしまいます。
それは困ります。わたくしは生徒会長という立場がありますから、下級生が授業を抜けていることを見逃してあげた、というのは都合が悪いと思いませんか?」
コクコクと頷く少年。
ただ意図が計りかねているのかすこし怪訝そうにも見える。
わたしは人差し指を立てて自分の口の前に持っていき、ゆっくりジェスチャーをしました。
「だからここでのことは内緒にしましょう。
わたくしはヒアリングの機材を取りに来ました。
そこでたまたま図書室の前を通りがかった貴方にお願いして機材を探すのを手伝ってもらいました。でも不幸なことに予想外に時間がかかってしまい授業に遅れてしまいました」
眠さの余り授業を抜ける。
周囲に期待されるまま、模範的な生徒でいなければならないと考えていたわたしにとっては、とても縁遠い発想。ただそれに対して責めるというより、恩人のちょっとお茶目な面を見つけた楽しさのほうを強く覚えました。
「……ということにしましょう。後でわたくしから担任の先生のほうに連絡を入れておきますから、急いで教室に戻ってその旨をお伝え下さい。遅れはしても試験は受けさせてくれるはずですよ」
だからこその提案。
いつものわたくしを知っている人から見れば、わたしらしくないかもしれませんけれど、たまにはいいでしょう。
「……………」
……?
充君は無言のまま、何かを我慢するかのように視線を逸らしています。
これは…もしかして呆れられているとか。
やはり、慣れないことはしないほうがよかったかもしれません。
「わ、わかりました!」
気持ちを切り替えたようで元気のいい返事が返ってきました。
「はい。ではわたくしも戻りますから、充さんも急いで戻って下さい」
「りょ、了解です!」
図書室から急いで出ていく充君を見送ります。
すこし柄にもないことをしてしまった感は否めませんが、ヨシとしましょう。
ひとまず本棚の件は書置きを残しておきます。適当に理由をつけて本棚が倒れたことを記して詳細についてはわたし宛に問い合わせてもらえるように署名も入れておきました。
時計を見ると2時限目が始まって18分。
1時限は50分ですから移動の時間を含めて、もう5分くらいはここでのんびりしていても間に合う計算になります。さっきの充君の話を聞いたせいでしょうか。普段は思いついたりしないそんな考えが頭に浮かびます。
「ふふ」
実際にそうするかどうか、とは別の話。
でもそんなちょっと悪いことを考える余裕すら無くしていた自分に気づいて、思わず小さく笑ってしまいました。
図書室を後にしたわたくしは無事に2年の教室に戻りました。
幸い、といいますか副生徒会長とは教室が違いますから、さっきの件はわたしが隠しておけば充君に迷惑をかけることはないでしょう。
そのまま時間が過ぎていき、無事に中間試験の初日が終わります。
明日も試験があるため本日は部活動は全面的に休止。
普段はしばらく残っているような生徒たちも帰宅していきました。
ただ提出された書類に目を通したりといった実務があるため、生徒会活動だけは時間を短縮して行うようになっています。
「…………」
思わずため息をつきそうになって堪えます。
人目のあるところで弱音を吐くのはわたしらしくないですから。
これからあの男といつものように対峙しなければなりません。何をされても揺るがないよう強いわたしでなければ。
そう思いながら校舎を抜けて部活棟へ足を向けます。
そして生徒会室の前へ。
いつもこの扉の前に立つと逃げ出したい気持ちに駆られます。
どうしてわたくしが、と考えたことも一度や二度ではありません。それでもこれはわたくしが選んだ方法なのだから。 決意して取っ手に手をかけます。
「入りますよ」
本来ならば、すでに中にいるかもしれないであろうあの男に声をかけるなど髪の毛一本ほどにも嫌なのですが、他の生徒会役員がいる可能性もあるので仕方ありません。
ガララ…ッ。
扉を開くと室内にいたのは一番奥にある生徒会長席の隣に座っているひとりの男、そしてその脇に立っている一年生の女の子だけ。
伊達政次副生徒会長。
それが座っている彼の名前。
憎むべき主人公。わたしの意思をねじ曲げるために全てを自分に都合のいいように作り替える最悪の男性。そのせいでわたしと恋仲だなんていう噂もあるけれど正直願い下げです。
女子生徒の中には副生徒会長の整った顔立ちに熱をあげる方がいらっしゃるようですが、すくなくともわたくしにとっては好みでもなんでもありませんし。
「ああ、来たのか。月音くん」
こちらを一瞥すると、彼は傍らに立っている女子生徒に声をかけます。
あれは確か会計をやってもらっている天小―――
「話はここまでのようだね、天小園さん。続きはまた時間があるときにでも聞こう。
今日のところは帰りたまえ」
おそらく何か話をしていたのだろう。
それを打ち切って副生徒会長は退出を促す。
すれ違いざまにわたしに対して鋭い視線を向けながら、彼女は生徒会室を退出していきました。
背後で扉が閉まる音がした。
と、同時に室内に沈黙がやってくる。
嫌な緊張感と視線に晒されながらも、平然を装って何事もなかったかのように会長席へと向かいます。
「月音くぅぅん?」
ぞわり。
全身におぞましい寒気。
見ると伊達政次がゆっくりと立ち上がり、こちらに視線を向けていました。先ほどまでとはまるで違う狂った偏執が宿る瞳。
底冷えするほど、鈍く、それでいて酷薄な光。
視線に射すくめられたように全身が緊張し背中に冷たい汗が吹き出ます。
彼はゆらり、と手を動かすと自分の机の上に置かれていた箱に手を置きました。コツコツ、と神経質そうに指で音を立てます。
「なぁ、月音くぅん? キミ、ボクに隠してることがあるだろぉ?」
どんなかすかな反応もしないよう神経を総動員させます。
例えどんな蟻の穴ほどの不自然であったとしても、隙を見せればこの男は自分が思った通りに動いてしまいますから。
「2時限…って言えばわかぁぁぁるかぁぁぁ?」
底抜けの笑顔で告げられました。
「ああ、悲しいねぇ。そんなにボクは信用がないのかなぁ?
こんなにも、そう、こぉぉんなにぃもっ!!! 愛してるというのに」
だんっ!!
箱に拳をぶつけました。
変形する拳。
「まぁ、いいさ。ボクの愛は海よりも深ぁいから。
たとえキミがどぉぉんな裏切りをしたって、ぜぇぇぇんぶ許してあげよう」
ぬけぬけとそんなことを言う。
「ただ……理解はしてもらわないとねぇ」
じわり…。
かすかに箱の隅が赤く染まっていく。
「………ッ」
まさか。
そんな…ッ。
最悪の想像に言葉が出ない。
「ボクの愛を受け入れなかったら……ああ、哀しいことしか起こらない、ってこと、さ」
ゆっくりとその男が開けた箱に入っていたのは、血に塗れた仔猫。
「……ああ、キミのその顔が見たかったんだ」
悪魔が嗤う。
何度も何度も。
きっと、わたくしの悪夢は、終わらない。




