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15.河原の石でふかしてやる(1)

 一点の清澄さもなく濁り渡った赤い空、穏やかで暗い水面。

 今日も不穏な賽の河原で、みのりは、崩れた塀に張り付きながら、その先にある「おんぼろ地獄」の様子を熱心に覗き込んでいた。


「今、血の池に飛び込んだの、繁さんだわ。見事なフォルム。あっ、真さんの体が邪魔で見えな――見えた、よし……よし……」

「みのりお姉ちゃん、初孫の運動会にやって来た祖父母じゃないんだからさ……」


 と、少し離れた場所で石を積んでいた由が、呆れたように指摘する。

 彼は、石で器用に組み立てていた像を――今日は仏像か何かのようである――じっくり見つめると、頭頂付近に乗せていた石を一つ減らしてしまった。


「完成は滅びの始まり……。このお地蔵様の髪が減りはじめないように願いを込めて、つむじの石は欠けたままにしておこう」

「ねえ、日光東照宮の逆さ柱なの?」


 石塔を完成させることが、河原にいる子どもの本分であろうに、由はこうして、塔ではないものを作ったり、あまつさえそれを欠けさせたりする。

 二人が今いる賽の河原には、石づくりの馬だとか巨人だとか、どこか雪まつりを思わせるような作品群が並んでいた。


 ちなみに、地獄ウォッチばかりをしているみのりの足元には、なにかこの世の終焉を思わせる形状の「作品」が積み上がっている。

 由が「今日はなにを作ったの?」と問えば、みのりは肩を竦めながら身を起こした。


「見ればわかるでしょ。ピサの斜塔よ」

「みのりお姉ちゃん。斜塔は傾くだけで崩壊はしていないんだよ。――初日から全然進歩がないね」


 もう石積みも十日目なのに、と付け加えられて、みのりは小さく鼻を鳴らした。


 そう。

 ここ十日というもの、みのりは亡者たちを率いて調理をするどころか、地獄の敷地内にすらいない。


 それというのも、戸籍上の名を暴かれたあの日、みのりは宗に言い渡されてしまったからだった。


 冥府の王に対する偽証は、大罪。本来なら責め苦を負わせるべきところだが、情状を酌量し、放免に処す。

 ついては、現世に送り返すその日まで、身を慎んで過ごせと。


「二度目の審理はしない。ただし、元々再審のために割いていた時間を使って、陛下は判決だけ言い渡し、君を送り返すおつもりだ。つまり、期日は変わらず、そこの亡者の四十九日忌。……あと十日だね。それまでの間、大人しくしていてほしい。具体的には、亡者や獄卒、冥府関係者に対する一切の働きかけを禁じる」

「そんな……」


 繁の再審は。関係者の懐柔は。突然目算がすべて根底から崩されてしまい、みのりはたじろぐ。

 だが、彼女が食いかかるよりも早く、


「なお、これに背いた場合、温情を拒否したということで、君は地獄送りに処される」

「そんな――!」


 宗が告げ、それに繁が顔色を失った。


「そんな、あんまりです。この子は、なにも悪いことをしていない。ただ、僕についてきてしまっただけだ。名前だって、ただ読み方を変えただけの――」

「ならば」


 繁の必死の反論は、穏やかな、けれど揺るぎない声によって遮られた。


「些細な違いだというならば、最初から本名を名乗ればよかったよね」


 優しい口調だったが、繁は途端に口を閉ざし、労し気にみのりを見た。

 みのりもまた、なにも答えられなかった。


 ――本名。


 たったその二文字が突きつける事実が、あまりに厭わしかったから。


 十日後の黄昏時に、判決を言い渡すため、みのりたちを宴に呼び寄せること。

 判決の槌を下ろすと同時に、みのりは地上に返還し、保留となっていた繁の責め苦も本格的に開始すること。


 押し黙るみのりたちに、宗はそれらを一方的に告げて、去ってしまった。


 麗雪は気を遣って、期日までの間を、刀林処裏の倉庫で時間を止めて過ごしてはと申し出てくれたが、みのりはそれを拒否した。


 もし繁と過ごす時間が、本当にそれだけしかないのだとしたら、寝て過ごしてしまうなど、できるはずがない。

 当然の選択として、十日間でできることを探そうとみのりは訴えた。


 が、繁は、「背いたら地獄送り」という脅しが効きすぎて、頑なに倉庫入りを主張。

 結局真が仲裁に入り、みのりは、地獄域外となる賽の河原で、宴までの時間を過ごすことが決まったのだ。


 以降みのりは、繁さんこっちを向いて! と言わんばかりに、地獄ぎりぎりの塀に齧りつき、獄内の繁をウォッチしている。


「んもう、繁さんたら本当に頑固! 真さんたちと責め苦の予行練習なんてせずに、私と一緒に賽の河原で過ごしてくれればいいのに。そうしたら、脱獄の打ち合わせだって、獄卒を人質に取った冥府立て籠もり計画の打ち合わせだって、なんでもできるのに……!」

「うん、そういう態度が、繁さんを遠ざけているんじゃないかな」


 由がドライに指摘する。

 みのりが繁のために暴走しようとするから、繁はみのりを想って距離を取りたがるのだ。


「結局もう、あと数刻もせずに宴が始まっちゃうし……。いい加減戦闘モードを改めて、しおらしく、お別れまでの時間を惜しむなり語らうなり、そういう方向に転換したほうがいいんじゃないのかな?」

「しおらしく振舞って、繁さんをおびき寄せる作戦なら既に実行済みよ。秒で見抜かれて、獄に戻られちゃったけど。繁さんのいけず! 慧眼! 好き!」

「うん、戦闘モードを改める選択肢はないわけね……」

「当たり前でしょ。あんな世界一素敵な人が地獄に落ちるなんて、神が許しても私が許さないわよ。最後まで戦い抜くわ」


 きっぱりと言い切る。

 しかし、淡々と流れ続ける賽の河の流れを視界に入れると、みのりはやがて、少し顔を俯かせた。


 強がってはみても、時間は流れ続ける。

 繁との別れが、本当に、今もうすぐそこまで迫ってきているのだ。


 みのりはずり、と塀に背中を預け、膝を引き寄せた。


「なにか……できないのかな」


 小さく呟くと、由はきょとんとした顔で首を傾げた。


「なにかって……なにを?」

「今からでも、繁さんを助けること。だってこの再審の取りやめって、結局あの鬼長官の腹いせでしょ? 何度も口説いてやったのに、それを拒絶して、名前すら教えなかったからって……それで、面倒くさがりの閻魔大王にそれを吹き込んで――」


 脳裏によぎるのは、宗のあのひやりとした声だ。


 ――そう。それが、君の名前


 哀れむような、蔑むような。

 もしかしたらもっと複雑な感情が滲んでいたのかもしれないけれど、みのりには読み取れなかった。

 ならばそこには、苛立ちや嫌悪も潜んでいたのかもしれない。


「繁さんは怒るかもしれないけど……今から、こっそり冥府に駆け込んで、彼に土下座でもなんでもして、言うことをなんでも聞くからって言ったら、そうしたら――」

「それはないよ」


 由の声は穏やかだったが、きっぱりとしていた。

 大人びた少年は、作り上げた地蔵の表情を調整しながら、淡々と答えた。


「宗お兄さんは、みのりお姉ちゃんが思ってるより、優しいよ。それに、鬼の中でも相当モテるらしいから、靡かないっていうくらいで怒ることはないと思う」

「そこはほら、逆に、こんな俺様が口説いてやってるのに、人間の小娘風情が、っていう怒りに……」

「ないよ。あの人、去る者は追わないもん。……留まる者は、待ち続けるみたいだけど」


 不思議な一言を付け加えると、由はにこりと笑いかけてきた。


「あのね、僕、宗お兄さんには何か考えがあるんじゃないかと思うんだ」

「考え?」

「そう。具体的には――恩赦とか。軽微な罪人や子ども相手には、時々天から糸が下りてくるって話、前したよね。あれね、閻魔大王の代替わりの時に起こるんだ」


 由の言わんとするところを悟って、みのりは目を見開いた。


「まさか、あの長官が、閻魔大王の座に……?」

「降りてくる糸の数は、即位した王の格に応じるんだって。今代が即位した時は、随分少なかった。だから実はみんな、この治世はすぐ終わるなって思ってるんだよ。ふふ、もし宗お兄さんがほんとに冥府の頂点を極めたら、すごい数の糸が下りてくるかも」


 楽しそうに笑う由の肩を、みのりはがっと掴んだ。


「かも、じゃないわ! そうじゃないと困るわよ! そう……そうだったの……なら今この瞬間にでも、あの鬼長官を閻魔大王の座に押し上げないと! 第十六小地獄を挙げて全面支援よ!」

「う、うん、気持ちいいくらいの方針転換だね……」


 由は気圧されたように頷いているが、みのりは必死だった。

 沙汰を覆さないことには、繁の地獄行きは覆せないと思い込んでいたが、まさかそんな裏技があったとは。

 目の前に光明が射す思いだ。


「やろう! やりましょう、長官殿の即位支援! つまるところ、今代を引きずり落とすのよね? クーデターってことよね? 私、謀反の経験は乏しいんだけど、それってあと数時間でできると思う? まず何から準備すればいいのかしら……」

「うん、一般の人は謀反経験なんてないと思うし、それに申し訳ないんだけど――宗お兄さんは、僕が昇天しない限り、現場を離れたがらないと思うんだよね」

「…………はい?」

「ええと、つまり、地獄げんばを離れる閻魔大王にはなりたがらないというか」


 言い換えられても、疑問はなんら解消されない。

 みのりは怪訝な思いそのままに、由に問うた。


「なぜ、あなたが昇天しない限り、あの男が閻魔大王になりたがらないのよ」

「ええと、そういう約束だから?」

「……あなたたち、どんな関係なのよ!?」

「ええと、河原のお兄さんと、その当時の最古参子ども……かな?」


 えへ、と首を傾げる様子は愛らしいが、みのりはそこで、当然の疑問に行き当たった。


「……ねえ。由くんって、何年ここにいるの?」

「さあ。もうわかんなくなっちゃった。ここの時の流れは不規則だからね」


 さらりと答え、それから彼はみのりを見つめた。


「僕に昇天してほしい? そうだよね。……でもごめん。それは、まだできないんだ」

「……どうしてよ」

「みのりちゃんが、どうしてもみのりちゃんと名乗らざるを得なかったのと同じような、こだわりかな」


 由は、積んでいた石をまた一つ取り除くと、からん……と河原に戻した。


「理解はしてもらえないかも。でも、譲れないんだ」


 告げる声は穏やかで、静かで、そして奇妙な迫力に満ちている。

 みのりは口を噤み、ややあって、ふんと鼻を鳴らした。


「……まあ、冷静に考えて、今からクーデターを起こすのは難しいわよね。それに、どうせ目指すんなら、天国行きじゃなくて、生き返り方向にしたいところだし。それにはやっぱ恩赦を狙うより、どうにかして再審に漕ぎつけるのが吉よね」

「まだ諦めてなかったんだ……」


 顎を引きながら笑う由に、みのりは肩を竦めた。

 本当は、もう可能性がほとんどないことくらい、わかっている。


「そうでないなら……いっそ、このままでいたいくらいだわ」


 みのりは再び膝を引き寄せ、そこに顎を乗せた。


 いっそ、自分もこのまま地獄に留まってしまえば。

 少なくともその期間だけは、繁と一緒にいられる。


 繁には口が裂けても言えない密かな想いを、そうやって膝の中に閉じ込めていると、それを見ていた由が、ぽつんと問うてきた。


「……みのりお姉ちゃんは、どうしてそんなに、繁さんのことが好きなの?」


 みのりは無言で由を見上げた。

 由もまた、静かに見返してきた。


 野次馬めいた好奇心ではない、揶揄でもない、もっと切実な疑問。

 交わしたわずかな言葉と、視線だけで、みのりには、由が自分と同類なのだということがわかった。


「……単純な話よ。昔、お腹を空かせて倒れそうだった時に、繁さんに拾われたの」


 だから、過去を紡ぐ言葉は、意外にもするりと出てきた。


「ネグレクト……って、由くんの時代にもあったかな。家の中で、放っておかれるのよ。私の場合は、母子家庭だったんだけど、その母親が食事を作ってくれなくなったあげく、家を空けてしまって。一人じゃどうすることもできずに、五歳児なりに数日過ごして、とうとう食べ物を求めて外に出たの。そこで繁さんに保護されて……その縁で、里親になってもらった」


 あの日のことを思い出すとき、いつも真っ先に蘇るのは、ひやりと冷たい空気の感触だ。


 部屋の片隅で毛布にくるまり、それでも裾から忍び込んできた初冬の冷気。

 すっかりサイズの合わなくなった靴に足を詰め込み、恐る恐る外へ出たときの、ぴんと張り詰めた外気。

 息を殺して歩いた道、やがてたどり着いたスーパー。

 尻もちを突いたコンクリートまでも冷え冷えとして、幼いみのりの――いや、美紀の心を縮こませた。


 その中で唯一、差し出された繁の手だけが、温かかった。


「その場で餌付けされて、もうそれで陥落よ。わんわん泣いちゃったものだから、繁さんもころりと絆されてくれて、すぐに私を引き取ることを考え始めたみたい。繁さんはちょうどその頃、子どもができないっていう理由で離婚されたばかりだったから、言い方は悪いけど、お互いにとって最高のタイミングだったのね、きっと」


 離婚歴のせいで、里親の資格を得るまでに少し掛かってしまったけれど、あとはとんとん拍子に話が進んだ。

 スムーズすぎるほどだった。それほどあっさりと、実の親はみのりを手放したのだ。


 審査や手続きがすべて済み、とうとう大沢の家に養子縁組を済ませた日、みのりは一度だけ、こっそりと実家を訪ねてみた。


 ――小さなアパートは、既に引き払われていた。


 そんなあっけない、繋がりだった。


 どうしてわかったのか、みのりが実家の前で立ち尽くしているところに繁が迎えに来てくれた。

 二人は、繁がスーパーで買って来てくれていた焼き芋を無言で食べながら、温かな家へと帰った。


「その日に、私は美紀からみのりになったの。名前を変えることはできないけど、戸籍にはフリガナがないから、読み方を変えることなら簡単なのよ。以降ずっと、私の名前は、大沢みのり」


 だから、と、みのりは手近な石を握りしめた。


「たとえ閻魔大王の前でだって、美紀だなんて名乗りたくなかったの。……そうよ。そんなこだわり、誰にも理解はしてもらえないかもしれない。でも、譲れなかった」


 その名前は、あの寒い冬の日、スーパーのビニール袋と一緒に捨ててきてしまったのだから。

 賽の河の水面を見つめながら、静かに語るみのりに、由は何も言わなかった。


 しばし、二人の間には、さらさらと川の流れる音だけが響く。

 やがて沈黙を破ったのは、みのりの方だった。


「――はい、次は由くんの番ね」

「え?」

「なによ、ただで私が身を引くと思った? 由くんの昇天を強要するつもりはないけど、駄賃にその理由くらいは聞かせてもらうわよ」


 くいと顎を持ち上げて言い切ってみせると、由は苦笑した。

 だが、ひとしきり笑い終えると、みのりの隣に座り直し、やがて口を開いた。


「……僕も母子家庭だったんだけど、僕の場合は逆に、母親からすごく、すごーく、構われててね。愛情を注がれて、注がれて、大切に育てられた」

「なにそれ自慢?」

「自慢になったかもね。……注がれる対象が、本当に僕であったなら」


 不思議な言い回しに、みのりが怪訝そうに眉を顰める。

 由はぼんやりと川面を眺めながら、ぽつぽつと言葉を紡ぎつづけた。


「沙汰の際に閻魔大王が名前の一部を奪うのはね、魂から精気を削いで、脱獄だとかを防ぐためなんだって。でも僕は、名を奪われた後も、本来の名前を憶えていたし、その前後でなんら変化を感じなかった。それはきっと……『由貴ゆうき』っていう名前が、元々僕のものじゃなかったから」

「由くんのものじゃなかった……?」

「僕が生まれる前に死んだ姉さんが、『由貴』って名前だったんだ。自由の由に、貴族の貴。字もまったく一緒のね」


 それの意味することを悟って、みのりは静かに息を呑んだ。

 ――身代わり。


 由は、やけに大人びた仕草で唇の端を持ち上げた。

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