第八話 水行二十日 投馬国へ
(魏志倭人伝)南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
(意訳)南へ水行二十日で投馬国に至る。そこの官の称号は彌彌、副官の称号は彌彌那利といい、およそ五万余戸を有している。
さあ、いよいよクライマックスですね。投馬国の次は女王国の都が置かれた邪馬壹国となります。つまり、投馬国がどこにあったのかが重要になります。
水行とは、文字通り船での航行を意味します。
投馬国へは不弥国から船で南へ向けて二十日航行して到着したということです。
ここで皆さま混乱します、今まで里表示だったのが日数に変わりますからね。しかもこれまで細かく刻んできたのが一気に二十日航行にまとめられています。指針がなければ迷子必至です。
そして、とても大切なことですが、畿内説をとる場合、ここで東へ進まなければなりません。これは畿内説の最大の弱みです。
そのために方位を勘違いした、後世に書き替えられた、方位は違うが行程や地名は整合する、など何を言っても変わりません。
一次資料である魏志倭人伝が、陳寿が南と言っているのです。南に陸地が存在しないならまだしも、そうでないのに東へ進むのは違いますよね。
同様に北九州説も厳しいでしょう。ギリギリ許容範囲なのは四国説ですが、別の島へ移動するのに何も記述が無い時点で疑問ですし、それ以前に他の条件が合わないので、ここは素直に九州東岸を船で南下することにしましょう。それで駄目なら他の可能性を考えるというのが筋というものです。
さて、投馬国を探す前に確認しておきますが、水行二十日というのは距離であって距離を示すものではありません。
ほとんどの方が勘違いされているようですが、魏志倭人伝はあくまで史書なのです。この記述は女王国観光アクセスマップなどではなく、実際に派遣された張政らの行程記録です。つまり、張政らは、不弥国で船に乗り、二十日かけて投馬国に到達したという単なる事実を書いてあるだけだという点を理解しなければ本当の意味で魏志倭人伝は読み解けません。
想像するに、延々と船で南下するだけの記述、〇〇国、南下、〇〇国、というのがニ十回も続くわけで、まとめて水行二十日としたのでしょう。
それでも、さすが陳寿、ちゃんと停泊地については書いてあります。
(魏志倭人伝) 自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
(意訳)女王国より北の地域については、その戸数や道里をおおよそ記すことができるが、それ以外の周辺の国々は遠く隔たっていて詳しくは記すことができない。 その次にあるのは斯馬国、次に巳百支国、次に伊邪国、次に都支国、次に彌奴国、次に好古都国、次に不呼国、次に姐奴国、次に対蘇国、次に蘇奴国、次に呼邑国、次に華奴蘇奴国、次に鬼国、次に為吾国、次に鬼奴国、次に邪馬国、次に躬臣国、次に巴利国、次に支惟国、次に烏奴国、次に奴国がある。これらの国々が女王の支配する境界の限りである。
はい、既出の奴国を除いてちょうどぴったりニ十か国です。奴国が最後に来ていますので、邪馬壹国の北にある投馬国の次が斯馬国、次に巳百支国、と続いて行くのでしょう。これらの国がどこであったのかを比定するのはあまり興味が無いので誰かにお任せいたします。
では、投馬国がどこにあったのか、という本題に戻ります。
ヒントや条件はちゃんと魏志倭人伝に書いてあるのでそれほど難しくはありません。
①まず邪馬壹国よりも北に位置しているということ。
②五万余戸という人口を有しているということ。
まずは②の人口から考えてみましょう。これまでで最大の邪馬壹国に次ぐ規模です。これだけの人口を支えるためには、大きな平野が必要不可欠です。
その観点で見た場合、実は候補地はかなり絞られます。九州が平野ばかりの土地だったら苦労したと思いますが。
豊前・宇佐(福岡県~大分県)、大分市(大分県)、延岡・日向(宮崎県)、西都市(宮崎県)、宮崎市(宮崎県)あたりです。
その中で宮崎市が一番南なので、ここが邪馬壹国だと仮定すると、残りは三か所となります。
次に不弥国からそれぞれの候補地までの沿岸航行を想定した場合の距離(直線距離ではありません)です。
①豊前・宇佐までは、90~150km
②大分市までは、 190~220km
③延岡・日向までは、300~340km
④西都市までは、340~380km
当時の船であれば、一日の航行距離は15~25km程度とされています。追風・順潮なら30〜50km、風待ちや天気などを考慮して平均すると平均航行距離は15〜20km程度が妥当と思われます。
考えなければならないのは、まず安全が最優先、確実に無事に邪馬壹国へ到着することです。これは競争でも軍の強行軍でもないのです。しかも当たり前のことですが、停泊できる場所というのは決まっています。体力の消耗を考えれば、かなりの安全マージンを確保した上で、停泊地から次の停泊地と移動したことでしょう。一日平均航行距離が15〜20km程度というのはその意味で現実的な距離感だと思います。
さて、その上で二十日間となると、移動距離はおよそ300~400kmと想定されますので、
豊前・宇佐の90~150km、大分市までの、190~220kmというのは近すぎます。となると、やはり有力な候補は
③延岡・日向までは、300~340km
④西都市までは、340~380km
のどちらかに絞られるわけですが、実際の寄港地を考えてみると……
(出港地)香椎・箱崎 → 新宮、宗像、芦屋、安屋、彦島、門司、苅田、築城、中津、長洲、香々地、国東、杵築、大分、臼杵、津久見、佐伯、蒲江、宮野浦、延岡、日向、美々津、都農 → 西都
必ずしも全部停泊する必要はないですが、延岡・日向、西都、どちらもちょうど二十か所程度の寄港地を要するので、魏志倭人伝との整合性は非常に高いと思います。これ二十か所になるように選んだんじゃなくて、地図をにらみながら現実的な停泊地を書いていっただけなんです。だから水行二十日というのはとても現実的な数字なんですよね。
ここで別の視点から考えてみます。投馬国の官名です。彌彌、副官彌彌那利、かなり印象的ですが、実は美々津という場所があります。この場所は、『日本書紀』において神武天皇が東征に出発した港です。津は港のことなので、みみの港ですね。それ以外にも、
耳川美々津を流れる河川。古代から交通の要。
耳北郡 古代日向国の郡名、耳川流域を中心とした郡。
耳別命 『古事記』に登場する人物名。
耳原古墳群 宮崎県延岡市にある古墳群。
日向灘沿岸に“みみ”系の地名・称号が集中しているんです、偶然と片付けるのは難しいですよね。実は、延岡・日向だけでは五万戸は厳しいんですが、美々津までの一帯が投馬国だったと考えると規模的にもはまってきます。耳川流域は古代から交通・農業の拠点であり、人口を支える基盤となったと考えることが出来ますからね。
さらに、投馬の音は、古代日本語では 「ツマ」「ヌマ」「ツノ」 と揺れやすい。延岡〜美々津周辺には「耳川」「美々津」などの「みみ」系と並んで、「つま」「つの」「ぬま」系の地名が点在しています。さらに下った西都には、都萬神社があり、投馬=つま という関連の名残がこの一帯に残っていると考えることが出来ます。
水行二十日との整合性、「みみ」などの符合、邪馬壹国と考える西都・宮崎一帯との位置関係から、
投馬国は延岡・日向・美々津一帯にあったと私は考えます。
次回はいよいよ邪馬壹国へ到着です。




