第七話 不弥国と金印の謎
(魏志倭人伝)東南至奴國百里官日兕馬觚副日卑奴母離有二萬餘戸
(意訳)東南へ百里行くと奴国に至る。そこの官(役人)の称号は兕馬觚、副官の称号は卑奴母離といい、二万余戸の戸数を有している。
はい、来ました。皆さまご存知 漢委奴国王で有名な奴国です。福岡湾岸、福岡平野一帯が奴国の領域であったと考えられています。当時有数の人口密集地でもあり、これまでで最大の二万余戸を誇ります。魏志倭人伝の奴国がこの辺りにあったのは間違いないでしょう。
ですが、ここまで読んでくれた方は奴国が金印の国ではないことを知っていますよね? 金印は南九州の日向国です。その証拠というほどではないですが、記述もあっさりしてますよね。仮にも金印を授けた国ですよ? 伊都国みたいに一言くらいあっても良いですよね? 陳寿がそのことを知らないわけないですし。理由は奴国が金印の国ではないからです。
実際、卑奴母離が置かれていますし、女王国にとっても、奴国の扱いはその他の国と同じ、人口が多いだけで単なる通過点ということなのでしょう。
それでは、奴国の場所を特定しましょう。
奴国へは、伊都国(平原遺跡を想定)から百里ですから、誤差を含めて10km程度の範囲にあったはずです。
となると、博多湾西岸の遺跡群(今津・元岡・姪浜など)が有力候補となります。須玖岡本遺跡や比恵・那珂遺跡群を奴国とする方も多いようですが、明らかに距離が合わないのと、少し内陸寄りすぎるので候補からは外れます。奴国の中心が須玖岡本遺跡だというのは否定しませんが、一行の目的地は奴国ではありませんので海岸沿いを最短距離で移動したはずです。
(魏志倭人伝) 東行至不彌國百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
(意訳) 東へ百里行くと不彌国に至る。そこの官の称号は多模、副官の称号は卑奴母離といい、千余りの家を有している。
次に登場するのが不彌国です。ここから先は水行、つまりこの場所で船に乗るわけですね。とても重要な場所です。他の場所に比べて人口が少ないのは、この場所が特別な意味を持った場所だからでしょう。伊都国もそうでしたよね。周辺に住んでいたのは、一般庶民ではなく、官吏や船舶の運航に関わる人々だったと想像出来ます。そして、外交使節や女王国の関係者が滞在したり宿泊するための施設があったはずです。
そして――――この辺りから大きく意見が分かれます。
大きく分けると不彌国から海へ出るか、それとも御笠川や那珂川を遡って内陸へ向かうかですね。同じ海派、内陸派でも、比定地は様々で定説はありません。
ですが、ご安心ください。何のために私が長い前置きを書いたのか、それはまさにこの時のためです。
二千年近く前の地名(国名)と大まかな方位と距離だけが書かれたメモを頼りに目的地へ到着出来ると思いますか?
確実に迷子になります。
ですが、邪馬壹国はここにあったはず、という仮説をあらかじめ設定しておけば、指針になります。魏志倭人伝の記述通りに進んで問題が無ければ仮説は正しかったわけで、そうでなければ仮説が間違っていたと考える余地が生まれ再検証すればいいのです。難しいことなど何も無いのです。
邪馬壹国は委奴国の後継国であって、女王国の都が置かれた場所、つまり日向国(宮崎)にあると想定しています。
であるならば、川を遡って内陸に向かうルートは無くなります。そもそも、魏志倭人伝の記述では、この後不彌国から水行二十日ですよ? 御笠川でも那珂川を使っても遡れるのは大宰府あたりが限界です。さすがに無理があると思いますけどね。
というわけで、まずは素直に不彌國を探しましょう。
奴国、つまり博多湾西岸の遺跡群(今津・元岡・姪浜など)から東へ百里の範囲となると――――博多湾東岸遺跡群(箱崎・香椎など)がぴったり当てはまります。陸行したとは書いていないので、船で博多湾を移動した可能性もありますね。
まず博多湾東岸(箱崎・香椎・志賀島周辺)は、古代から天然の良港に恵まれた地域です。志賀島は金印「漢委奴国王」が出土した場所で、海上交通の要衝。そして香椎・箱崎は湾奥に位置し、波が穏やかで船団の停泊に適しています。弥生時代の集落跡や甕棺墓が多数見つかっていて、海人集団の活動を示す漁具や交易関連の遺物も出土。
そして何より、博多湾東岸は外洋へ出やすく、南九州航路の起点として理想的な場所でもあるのです。新宮や宗像も魅力的な候補ではありますが、百里圏内からは外れますし、そもそも博多湾という絶好の出港地が目の前にあるのにわざわざそれをスルーして遠い新宮や宗像まで歩くメリットや合理的な理由がありません。
ちなみに、不彌を(ふみ、うみ)と読んで宇美町だという説も根強くありますが、条件がまったく合いません。音でいうのなら、私は不彌を船と読むと考えています。ここから船に乗る場所なのだから、ぴったりですよね。
さて、不彌国が博多湾東岸(箱崎・香椎・志賀島周辺)だとわかりました。
ここから出港して女王国の都が置かれた邪馬壹国へと向かいます。
左手に能古島を見ながら、海の中道と志賀島の間を抜けて外洋へ出ます。このルート、現在は砂洲で繋がっていますが、当時は航行可能でした。
この志賀島が金印が発見された場所です。奴国と金印が結びついて教科書に載るくらいまで定説化してしまった原因でもあります。
では、なぜ金印が志賀島で発見されたのか?
邪馬壹国も真っ青になって逃げだす妄想説が大量に量産され、志賀島の金印もまた、日本史上最大のミステリーの一つなのです。
金印が発見された場所は叶崎という田の境の溝。溝の流れが悪くなったため修理していたところ、小石に続いて大石が現れ、その石の間から金色に光るものが見つかったと記録されています。
意図的に隠されたなど、様々な説がありますが、私はある仮説を立てています。
光武帝から贈られた金印は、魏志倭人伝の記述と同じようなルートを通り、ここ不彌国を出港、委奴国へと運ばれたことでしょう。そして――――突然の荒天による難破、あるいは海賊などの襲来、原因はわかりませんが、結局委奴国へ届かなかったのです。
嵐によって難破したのであれば、金印が波と風によって流され、石の間の溝にあったことも理解できます。これが意図的に隠されたものであるとするなら、例えば海賊に襲われた際、奪われないように大きな石を目印に隠したのかもしれません。
いずれにしても金印は失われてしまった。
そう仮定すると、歴史上に金印の存在感がまるで無いことの辻褄が合うのです。私が知る限り、金印が発見されるまでの1700年間、それらしい伝承や出来事はありません。
王朝が断絶したのならまだ理解できますが、倭国(日本国)はその歴史において一度も断絶していません。漢王朝が滅んだとしても、その意義は失われることはなく、むしろより価値を高めます。その後の歴代王朝が大陸との交易を続けたことを見てもわかることです。
つまり、金印は不彌国を出港、委奴国へと運ばれる途中で失われた、と考えるのが最も自然で納得できるストーリーです。
この仮説は、金印の謎を解くだけでなく、この場所こそが魏志倭人伝における不彌国であったというなによりの傍証であるのです。
次回は、投馬国へ向かいます。
いよいよ邪馬壹国が見えてきましたね。




