第六話 『東南』の謎?
さて、ここまでは比較的論争のない部分だったので軽く流してきましたが、この先に最初の分岐点、最初の関門がやってきます。まずは原文から確認していきましょうか。
(魏志倭人伝) 東南陸行五百里到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚
有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往来常所駐
(意訳) 東南へ陸路を五百里行くと 伊都国 に至る。その官(長官)は「爾支」といい、副官は「泄謨觚」「柄渠觚」と呼ばれる。戸数は千余り。世々王がいて、すべて女王国に属している。郡(帯方郡)からの使者が往来する際には、常にここに駐在する。
問題の部分に触れる前に、次の通過地伊都国について。
伊都国は現在の福岡県糸島市周辺とされます。代々王がいるということ、そして官名が明らかに他と違いますし、副官も二人書かれています。外交・監察の拠点として特別に描かれているのがわかります。
そして「郡使往来常所駐」は、帯方郡からの使者は必ず伊都国に駐在する → 倭国外交の窓口であり、女王国の北方監察拠点だったわけです。『郡(帯方郡)からの使者が往来する際には、常にここに駐在する』という記述からもわかりますが、過去にも使者が来ているのは確実でしょう。少なくとも魏志倭人伝の中で張政の前に梯儁らが240年に派遣されていますので、この記述の元になっている報告書は張政らが派遣された時のものと考えてよさそうです。
この地には地名も残っていますし、地理的な整合性、伊都王国王都の遺跡や古墳、出土品など、あらゆる意味で疑う余地なくこの場所が伊都国であると判断出来ます。
そして五百里は一里77メートル換算で約38.5km、末盧国の桜馬場遺跡から伊都国の平原遺跡までの距離が約30kmなので、十分当てはまります。
ここで距離についての扱いなんですが、魏志倭人伝では百里、千里、というようにキリの良い数字が多用されます。航海日数や行程を「里」に換算して便宜的にまとめたためですが、そのため±10〜20%程度の誤差は常に含まれていると考えるのが妥当です。
つまり、この範囲から大きく逸脱していなければ問題ないと考えて構わないということですね。
さて、伊都国についてはこれで良いと思いますが、実は大きな問題があるのです。
それがいわゆる『東南』問題です。魏志倭人伝を読んで最初に躓く箇所でもあります。
『東南陸行五百里到伊都國』
なぜこれが問題かと言いますと、地図で見てもらうとわかるんですが、唐津から糸島市は東北東なんですよね。東南ではない。
古代中国の方位は基本的に東西南北、八方位(東西南北+東北・東南・西北・西南)を使った場合は東北とするのが正しい、となるわけです。
これが原因で、記述通り東南へ向かって内陸へ進んでしまうと即迷宮入りです。
今回はここから解読していきましょうか。
まず大前提として、この時代の方位がどの程度当てになるのか? ということを考えましょう。陳寿は測量士でも地図作成者でもないので、彼が決めたわけではありません。それが書かれた資料をもとにまとめているだけですので、この方位の狂いをもって陳寿は信用ならない!! やっぱり魏志倭人伝はでたらめだ、などと言い出す必要はありません。
三国志や同時代の他の史書を確認していくと、八方位の精度は期待できません。ただ、東西南北に関しては信頼できますので、結論から言えば、この場合も大きな意味の方向性として東へ向かっているわけですから問題ない範囲ではあります。
ただし、それならば東と書けば済んだ話ですので、あの陳寿がなぜあえて文字数を増やしてまで『東南』と書いたのか、極限まで無駄を排除し、芸術的なまでに完成度を高めた構成の中に、無意味な文字など存在しないのです。
まずは素直に東南だと書かれていた可能性から考えていきます。
この記述は実際に現地に派遣された張政らが書いた報告書によるものです。彼らが勝手知らない異国の地で頼りにしたのは太陽でしょう。太陽が東から昇るというのは古代においても知られていました。
この地点で太陽は夏至の時に真東から約30度北へずれます。太陽が昇る方角を真東だと認識していた場合、伊都国へ向かう方向を東南だと認識するのは十分考えられます。
張政らが派遣された季節は特定できませんが、末盧国における、草木は繁茂していて、道を行くと前を行く人の姿が見えないほど、などの記述、そして――――
弓遵戦死(246年)→王頎着任(247年初頭)→倭使到着(春〜夏)→張政派遣
という時系列をみれば、夏に派遣された可能性は十分考えられます。通常半島から倭国へ渡るなら冬が好ましいのですが、この時は急を要していたわけで、冬を待たずに急いで出発したと仮定したほうが自然でしょう。
というわけで、実際に東南だと思った、という解釈も無理なく説明は可能です。
ですが、これを編纂したのはあの陳寿です(どの陳寿?)仮に東南と報告書に書いてあったとしても無駄を削るために東と書いたはずです。
となると、東南という言葉には方位だけでない意味が込められていると考えるのが自然。
それを考えてみましょう。
まず、この時代、方位を現すのは基本的に四方位です。東南、東北などの八方位を使うケースも少数ながらありますが、その場合、方位+特定のイメージを表現するために使用されています。
たとえば現代の私たちも、北というと寒いイメージ、南といえば温かい、という単純な方位だけでないイメージを持っていますよね?
実際に三国志では、
(呉書 孫権伝)東南之人 水土所宜
(意訳)東南の人々は水と土地に適応している、
(呉書 張昭伝)東南之地 沃饒之饒
(意訳)東南の地は肥沃で豊かな土地である。
(魏書 武帝紀(曹操伝)東南有呉越之地
(意訳)東南には呉越の地がある。
この場合の東南は、単なる方位ではなく、水が豊かで豊穣な場所というイメージが根底にあるのです。倭国は呉越の人々が移住して作った国だと思っているわけで、末盧国に到着した使節団が驚いた前の人が見えないほどの草木、水に潜って漁をする人々の様子などを読んで、東南の地、つまり呉越のイメージを重ねたのは当然ではないかと思います。
そして――――倭人在帶方東南大海之中で始まる魏志倭人伝の最初にも東南という文字が使われています。
山海経では、「東南の海に〇〇の国あり」「東南の山に〇〇の神あり」といった表現が頻出します。東南は「陽気が盛んで作物が育つ方向」とされ、肥沃な土地や豊かな資源を持つ地域として描かれるわけですね。海外経では「東南の海の彼方に異国がある」として、怪異や神話的存在も描かれます。
古代中国では「東南の海上に仙人の住む理想郷がある」とする伝承が多く、代表的なのが蓬莱・方丈・瀛洲などの「三神山」伝説です。これらは『山海経』『史記』『列子』などに記録され、秦始皇や漢武帝が不老不死を求めて徐福を派遣した背景にもなりました。
陳寿があえて『東南』という文字にしているのは、単に方位だけでなく、中国の人々が持つ東南のイメージを表現するためだったと考えれば非常にすっきり納得できるのです。
そして、覚えていますか?
乍南乍東(ときに南へ、ときに東へと進み)
この辺り(だけじゃなくて九州は基本どこもそう)は真っすぐ進める道などありません。報告書にはその様子が書かれていたかもしれません。だから東南という言葉に、頻繁に方向を変えて進んだという意味も込めたんじゃないかな? と思います。
というわけで、東南問題に関してはこれで納得いただけるのではないでしょうか。
唐津から糸島へは背振山地の支脈を越える必要があり、谷筋や峠を通る道は曲がりくねっています。直線距離では30km前後ですが、山道換算なら実際の行程は40〜50kmに相当したはずです。文書や贈り物、食糧などを携行していた使節団と倭国のメンバーとなれば、最低でも数十人規模ではあったはず。一日の移動距離は10kmにも満たなかったと思います。
伊都国へ向かう谷筋の入り口には菜畑遺跡があります。おそらく一行はここで宿泊したでしょう。唐津から糸島へ抜ける国道202号線沿いの谷筋では、弥生時代の甕棺墓や環濠集落跡が複数確認されているので、途中野宿しないでも良いように、休憩場所や宿泊場所が整備されていた可能性が高いです。
次回は、奴国へ向かいます。もう一つの歴史ミステリーもまとめて解読しますのでお楽しみに。




