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日本史上最大のミステリー魏志倭人伝の完全解読に挑む  作者: ひだまりのねこ


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第五話 対馬から末盧国(松浦)へ


 魏志倭人伝の旅程は、狗邪韓国から海を渡り、まず対馬国に至ると記しています。 ここからがいよいよ「倭国」本土への第一歩です。


 魏志倭人伝は、以下のように対馬国の様子を説明します。


(魏志倭人伝)所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑

  有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴


(意訳)彼らの住むところは孤立した島で、広さは四百余里ほどある。 土地は山が険しく、深い森が多く、道はまるで獣や鹿の通り道のように細い。 戸数は千余りあるが、良い田畑はなく、海の産物を食べて生活している。 船に乗って南や北へ行き、穀物を市で買い求めている。


 対馬国は、現在の長崎県対馬島にあたり面積は約700㎢、四百余里換算もだいたい合ってます。古代から大陸との交流拠点であり、朝鮮半島経由で渡航する際の重要な中継地点。


 ようするに農耕には不向きで、漁撈や交易に依存しているということですね。ここでのポイントは、船に乗って南や北へ行き、穀物を市で買い求めているということですね。


 つまり、人々が普通に朝鮮半島や九州へ往来している様子がうかがえます。九州と朝鮮半島が一つの経済圏として繋がっているということがよくわかる記述です。


 あ、ちなみに、意外かもしれませんが、当時の魏には海洋航行に耐えられる船はありません。当時海洋航行が可能だったのは呉の船だけです。したがって、帯方郡からの使者たちは、倭国の船団に同乗させてもらっていた可能性が高いと思います。実際、張政が帰国する時も送ってもらったって書いてありますしね。



(魏志倭人伝)又南渡一海千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離


(意訳)さらに南へ一つの海を渡ること千余里、その海を「瀚海」と呼ぶ。 そこから一大国に至る。 その国の大官を「卑狗」といい、副官を「卑奴母離」という。



 次は壱岐ですね。対馬から壱岐までは最短約40kmですが、船は最短距離で進むわけではありません。


 魏志倭人伝の「千余里」を短里で換算すると ≒ 77km。航路の揺れ幅を考えればほぼ一致します。壱岐に関しても地理的に議論の余地はありません。ここまでは確定している旅程となります。


 そして――――ここでも対馬と同じ、大官を「卑狗」と副官「卑奴母離」が登場します。つまり、対馬国と一大国(壱岐)は同じ統治体制が敷かれているということになります。



(魏志倭人伝)方可三百里 多竹木叢林 有三千許家

  差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴


(意訳)島の広さは三百里ほどで、竹や木の茂る森が多い。 戸数は三千ほどある。 多少は田地があるが、耕作してもなお食糧は足りない。 そのため南や北へ船で出て、市で穀物を買い求めている。



 一大国(壱岐)は現在の長崎県壱岐島。面積は約140㎢なので、大きさは過大ですが、対馬よりは小さいという意味では合ってます。この記述だけ読んだら、壱岐の方が大きくて栄えているイメージありますから、実際よりも大きく感じたのかもしれませんね。


 対馬よりも農耕に適し、人口規模も大きい。弥生時代の環濠集落や古墳が残り、鉄器や青銅器の出土もあり、古代から交易の拠点だったことが裏付けられています。


 壱岐は「中継基地」として重要な役割を果たしていました。


 対馬から壱岐までの航路は最短40㎞、最長でも100kmに満たない距離ですが、当時の船は丸木舟や板を組んだ小型船で、数十人規模が限界。天候次第で命がけの航海です。


 それでも冬であれば北西季節風と対馬海流が追い風となり、自然の力が船を壱岐へと導いてくれますので、古代の船でも比較的容易に渡航可能、というのは前回説明しましたよね。


 ところで壱岐と言えば神功皇后や応神天皇の産湯伝説残る温泉郷でもあります。きっと船旅で冷え切った身体を温泉で癒したのではないでしょうか。市場では良質な鉄器や塩、海産物などが売られていたそうです。


 ちなみに、一大は石田郡の地名いしだの音写と思われます。後世の史書では「一支国」と表記されますが、これも同じ音写で違う字を当てただけでしょう(時代で漢字や地名の発音が変わるので)


 そして――――いよいよ日本本土に足を踏み入れる時がやってきます。


  次に待ち受けるのは――――末盧国です。


 魏志倭人伝に記された「本土最初の国」であり、邪馬台国への旅の本格的な始まりを告げる場所です。


 え? また海を渡るのかって? あはは、ガイドブック(魏志倭人伝)にはこう記されています。


「又渡一海千餘里至末盧國」


 意訳すると、 「さらに一つの海を渡ること千余里で、末盧国に至る」


 はい、また千余里です(笑)しかも……穏やかな壱岐を後にすれば、次に待ち受けるのは荒れることで知られる玄界灘です。ただでさえ潮流が複雑で、古代の船にとっては最大の難所、本土への道は決して容易ではありません、気合で乗り越えましょう。


(魏志倭人伝)又渡一海千餘里至末盧國 有四千餘戸 濱山海居

  草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沉没取之


(意訳)さらに海を渡ること千余里で 末盧国 に至る。戸数は四千余り。山と海のそばに住んでいる。

草木は繁茂していて、道を行くと前を行く人の姿が見えないほどである。人々は魚やアワビを捕るのを好む。水は深くも浅くもなく(水深が潜漁に丁度良く)、皆水に潜ってそれを採る。


 末盧国は、佐賀県唐津市周辺(唐津湾沿岸)とされています。末盧(まつろ、まつら)=松浦ということで地名も残っているので一番わかりやすい国の一つです。ここまではほぼ論争はありません。


 現代の感覚で地図を見ると、なんで直接北九州へ行かないんだ? という疑問に思うかもしれませんが、壱岐からの航海は、難所である玄界灘を通過しなければならないので、北九州沿岸を目指すよりも松浦の方が距離も近く(壱岐から松浦半島が目視できる)港湾によって波が穏やかなため安全なのです。


 地形や風俗もまさに魏志倭人伝に描かれているままであり、菜畑遺跡や桜馬場遺跡など弥生時代の大規模集落もあり、あらゆる点で合致しています。


 ところで、気付きましたか?


 この国、大官と副官の記載がないですよね。その理由は、別の箇所に書いてあります。


(魏志倭人伝)自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

  王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯


(意訳)女王国(卑弥呼の国)より北の地域には、特別に 一人の大率たいそつ を置いて監察させている。諸国はこれを恐れ、敬っている。その大率は常に 伊都国 に駐在している。国の中では、まるで中国の 刺史(地方監察官) のような役割を果たしている。


 倭の王(女王)は使者を都(京都=洛陽)や帯方郡、諸韓国へ派遣し、また帯方郡から倭国へ来る使者もいる。これらの使者は皆、港(臨津)で(大率によって)検査を受け、荷物を改められる。その上で、文書や賜与された品物は女王のもとへ届けられる。間違いや取り違えがあってはならない。


 はい、実は次の伊都国にいる大率(めっちゃ偉い人)が末盧国を直轄しているので、官を置く必要がないということです。各国に置かれた官の種類を記載することで、女王国の政治体制がわかるようになっているんですね。その箇所だけ読むと意味がわからなくとも、全体でちゃんとわかるようになっているのが魏志倭人伝です。わからないときは答えが魏志倭人伝にちゃんと必要最小限に書いてあるということを忘れないでくださいね。


 この大率の下にいるのが各国にいる副官の「卑奴母離(日向守」だと考えられています。補佐、監視、情報収集、伝達など女王国を支える屋台骨の一つであったことでしょう。常に中央の監視役がにらみを利かせていたということですね。


 もちろん積荷も大事ですが、怪しい人間が入国してくるのをチェックしなければなりません。入国してくるのは友好的な人々とは限りませんから。


 

 あれ? やってきた季節冬じゃなかったの? って思いますよね。草木は繁茂しているし、人々は海に潜って漁をしているし。


 まあ、この地域の植生を考えると一年中緑が多いですし、真冬でも潜って漁はします。北方からやってきた使節にとってはさぞかし驚きだったのではないでしょうか。


 冬なのに緑豊かで海に潜ってる!? という驚きの描写、としても矛盾はないのですが……。


 この魏志倭人伝の記述の元になった報告書の時に限っては夏だったと考えています。


 理由は次回の『東南』の謎にて説明しようと思います。



 魏志倭人伝における最初の難関、そして最初の分かれ道となります。どうぞ次回をお楽しみに。

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