第三十二話 魏と倭国を繋ぐ歴史ロマン
さて、前回お話した230年に行われた呉の倭国への派兵についてですが、表向きの理由は人口を増やすため、となっていますが、そのために海を越えて行くのは明らかに効率が悪いですし不自然です。そのすぐ後233年に公孫淵に同じ規模(一万)の大船団を送っていることから考えて、呉(南)、倭国(東)、公孫淵(北)からの魏包囲網を狙っていたと考えるべきでしょう。実現していれば天下を取ったのは呉であったと思います。
となると、230年の派兵も単純な侵略目的ではなく、同盟の可能性を模索したと考えるべきかもしれません。実際、呉のものと思われる鉄鏡が各地で出土していますし、驚くべき神話との重なりもあります。
神話では、スサノオが高天原に来ると聞いたアマテラスは「わが国を奪おうとしているのではないか」と警戒し、武装して軍勢を率いて待ち構えます。
これ、スサノオ来訪=呉からの使節・接触と読むと筋が通るんですよね。
神話では、いきなり戦うのではなく「誓約」という一種の同盟・合意形成が行われます。これは、百襲姫(卑弥呼)が、当初は呉の使節と交渉し、何らかの交易や技術供与の合意を結ぼうとした外交工作を反映している可能性があります。
しかし、結果的には交渉は決裂、スサノオ(呉)は追放されます。
なぜか? 神話では、スサノオが高天原で田の畦を壊し、神殿に糞を撒き、機織り女を死なせるという「乱行」を重ねました。おそらく呉の兵士たちは乱暴狼藉や盗み、略奪あらゆる蛮行を働いたのでしょう。呉軍は遠征先で略奪を行った記録が多く、倭国でも同様の事件が起きた可能性は十分にあります。
最初は我慢していたアマテラス(百襲姫)でしたが、機織り女(近しい身内や大切な存在とされます)が死んだ(壊された)結果、スサノオ(呉)を追放します。
アマテラスは岩戸に隠れ(外交断絶・国家の危機)ますが、魏という新たなパートナーによって再び姿を見せることになります。
スサノオは海を越えてやってくる荒ぶる神で脅威と恩恵を併せ持つ存在です。海を越えてやってくる諸外国の勢力が神格化されたものだと考えます。神話においてアマテラスの弟とされるのは、楚の王統にとって、大陸の新興国家はすべて弟のようなものだからでしょう。出雲に根付いたスサノオは別系統(国)であると考えています。
そして呉の影響はそのまま魏志倭人伝における狗奴国との対立構造に繋がります。熊本を中心とした狗奴国の実態を整理してみます。
1. 熊本(狗奴国比定地)の圧倒的な鉄器保有量
熊本県、特に山鹿市の方保田東原遺跡などの周辺では、弥生時代後期から末期にかけての鉄器の出土量が日本最多クラスであり、「鉄器保有量No.1」とも称されます。大量の鉄鏃や鉄斧、鍛冶遺構が確認されており、独自に鉄を加工し、軍事力を増強していたことが分かっています。この鉄器文化の背景に、海路を通じて呉から直接的、あるいは間接的に技術や素材が流入していた可能性は十分にあります。
2. 「呉太伯」の末裔伝承と亡命勢力
古くから九州、特に熊本周辺には「呉太伯」の末裔(中国の呉の開祖の子孫)が渡来したという伝承や系図が残っています。 熊本県山鹿市周辺を本拠とした豪族・松野連の系図には、呉の夫差の王孫「忌」が火の国(熊本)に辿り着いたという具体的な記述があります。春秋戦国時代の「呉」の滅亡時、あるいは三国時代の戦乱時に、海路で九州南部に逃れた人々が独自のコミュニティ(後の狗奴国の核)を形成した、というシナリオは歴史的に不自然ではありません。文化的に親和性の高い彼らが呉と組んだ可能性はあるでしょう。
3. 狗奴国=呉の代理人による「南北対立」
もし熊本を拠点とする狗奴国(卑弥弓呼)が呉の支援を受けていたなら、卑弥呼が魏に対して執拗に援助を求めた動機が鮮明になります。魏・女王国(倭国連合)に対し、南側から「呉・狗奴国(熊本・九州南部)」が圧力をかけるという、中国大陸の三国志の縮図が日本列島内においても展開されていたことになりますから、魏にとっては単なる外国の内戦ではなく、介入すべき状況であったことが鮮明になります。
そして、この呉の動きを最大限利用したのが他でもない百襲姫です。孫権の思惑を看破し、その情報を逆手にとって公孫淵との同盟を阻止し、魏の信頼と同盟を勝ち取りました。直接海を越えてくるだけでなく交易の障壁でもある呉よりも、脅威になる海軍を持たない魏の方が同盟相手としてメリットがある、まさに遠交近攻のお手本のような見事な戦略であったといえるでしょう。
238年、公孫淵が消えたことで、東アジアの勢力図は劇的に変わりました。それまで倭国と大陸の窓口だった公孫氏(帯方郡)という「壁」が消え、魏と直接外交が出来るようになったのです。
(魏志倭人伝)正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拝暇倭王 并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 荅謝詔恩
(現代語意訳)正始元年(240年)、帯方郡太守の弓遵は、建中校尉の梯儁らを派遣し、詔書と印綬を奉じて倭国に赴かせ、倭王に拝暇した。
あわせて詔書を携え、金・絹・錦・罽・刀・鏡・染織品などを賜った。倭王は使者を通じて上表し、詔恩に感謝した。
この記事は、魏皇帝が約束した異常なまでに破格な品物を実際に届けた時のものですね。質・量ともに突き抜けているので、用意するのに時間がかかったのは当然です。そして――――この中に外交儀礼を理解するうえで特に重要な語句があります。それが、上記の記事に登場する 「拝暇倭王」 です。
一部では「拝謁(謁見)」の誤記とする説もありますが、「暇」と「謁」は形も意味も大きく異なりますし、誤記とは考えにくいです。
むしろ「拝暇」は中国古典で用いられる儀礼語で、
暇を拝する =「帰国・離任の許可を丁重に願い出る」
という意味を持ちます。
つまり、魏の使者は任務を終えた後、倭王(卑弥呼)に対して帰国の許可を願い出たということになります。ここ少しわかりにくいんで説明しますね。
「拝暇」が示すのは、倭王が魏より上位だったという意味ではありません。
外交儀礼においては、訪問先の君主=主人 使者=客人
という構造があり、客人は主人に対して「暇」を願うのが礼儀なんです。
つまり、倭王は“訪問先の主”として扱われていたということですね。
これは、倭国が正式な独立国として扱われていた証拠です。
「倭王因使上表」は、倭王が使者に託して上表文を送った、つまり、魏の使者の誰かが上表文を持ち帰ったという意味になります。
「拝暇」と「因使上表」はセットで読むべきで、
●魏の使者が卑弥呼に謁見
●詔書・印綬・贈り物を授与
●卑弥呼が返礼の上表文を作成
●使者が「暇」を拝して帰国許可を得る
●上表文を携えて魏へ帰国
という流れがこの部分の解釈となります。
「拝暇」という言葉が使われているのは、魏が倭王を正式な君主として扱い、使者が丁重に帰国許可を願い出たことということを公式に認めているという証なのです。この時、使者が卑弥呼に会ったかどうかで意見が分かれているようですが、「拝暇」が使われている以上、会ったと考えるのが自然ですね。
ところで、魏には倭国へ来れる海洋船がありません。梯儁らを伴い帰国したのは誰でしょうか。難升米はこの後247年までずっと現地に滞在しているので、牛利で間違いないでしょう。彼はこの後の外交記事で一度も再登場しないので、この時に帰国したと考えるのが自然です。
牛利の正体については後で触れるとして、先に次の外交記事を読み解きましょう。
(魏志倭人伝)其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人 上獻生口倭錦絳靑縑緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等壱拝率善中郎将印綬
(現代語意訳)正始四年(243年)、倭王(卑弥呼)は再び使節を派遣した。大夫の 伊声耆、掖邪拘 ら 8名 である。彼らは魏に対し、次の品々を献上した。
生口(奴隷)倭国産の錦 赤色の絳青色の染織品 絹布・綿布 衣服・布 丹(赤色顔料)木拊(木製の打楽器か祭具)短弓と矢
魏の朝廷は、使節団の 掖邪狗ら に対し、率善中郎将 の官位と印綬を授けた。
はい、この記事で注目すべきポイントは二つあります。一つ目は献上品の構成です。気付いた方もいるかもしれませんが、倭錦絳靑、これ、魏から貰った錦を今度はそのまま返しているんです。
言うまでもなく錦は非常に高い技術を必要とする高級品です。わざわざ魏側が倭国産と書いているように、当時の倭国の技術水準を示しているだけでなく、対等に儀礼の交換が出来る国であるということがわかります。
こういう「わかっている」付き合い方を大陸の宮廷や官僚は非常に好ましく思います。238年から五年後というタイミングもベストですね。返礼は大陸側が大赤字になるので、たとえば毎年やられたらたまったものではありません。そのあたりを弁えた関係というのが理想的なわけです。
二つ目のポイントは、大夫伊聲耆掖邪拘等八人です。外交記事で○○等、というのは、地位が対等(上下関係のない)な人物が八人ということになります。これはかなりの大人数ですが、魏側は、全員に率善中郎将 の官位と印綬を授けています。
これが何を意味するのか? 彼ら八人は魏による権威付けを必要としている人物、つまりは倭国連合の中枢を占める王、もしくは地域勢力の長、古代ローマ風に言えば、元老院のメンバーだということです。トップは卑弥呼ですが、その下に彼ら大夫院ともいうべき組織があったと考えます。彼らは上下関係のない横並び、同格ですから、全員が同じ官職と印綬を手に入れる必要があったということです。だから大挙して魏へ行ったわけです。
そして――――こんな卑弥呼の都合が良すぎるおねだりですが、驚くべきことに希望通りに通っています。
魏志倭人伝の中で、魏の皇帝は――――
故鄭重賜汝好物也
(あなたの欲しい物を特別に与える)
と異例の発言をしています。そして、その言葉の通りに鏡100枚などの統治セットだけでなく、大夫団全員に官職と印綬を与え、なおかつ使節団を二度も派遣しています。
魏志倭人伝の文章は一見すると「格式ばった帝国の威厳ある外交文書」なんですが、中身だけ冷静に抜き出すと “卑弥呼のお願い全部通ってる” という異常事態なんですよ。ここまで来ると、百襲姫が皇帝の弱みを握っているとしか思えません(笑)
ここからはあくまで壮大な仮説です。
実は、大分県の日田で出土した金銀錯嵌珠龍文鉄鏡と曹操の墓から出土した伝説の鉄鏡が双子のように同型のものであるとわかりました。一般的には魏の皇帝直属の工房「尚方」で製作されたと考えられていますが、私は違うと考えます。そもそも様式が楚のものですし、魏の鏡は鉄鏡ではなく銅鏡です。鉄の鏡は青銅よりもはるかに難易度が高く、さらに金銀錯嵌を施すにはそれこそ超絶技巧が求められます。大陸においてこれを作ることが出来たのは、楚以外になかったでしょう。
つまり、曹操が持っていた鏡と日本で出土した鏡は元々対で作られたものであった可能性が高いのです。日本は楚の王統が持ち込んだと考えますが、曹操はなぜ持っていたのでしょう?
曹操の出自については古来より謎が多く、父の曹嵩が「夏侯氏の出身」とも「宦官の養子」とも言われますが、その正体が「戦乱の世を生き延び、中原に深く潜伏していた楚の王族の末裔」であったと仮定すると、全ての歴史が驚くほど鮮やかに動き出します。
もしそうであるならば、曹操が「魏」を打ち立てたのは、単なる王位簒奪ではなく、「漢に奪われた楚の魂を、曹氏の名において取り戻す」という聖戦だったのかもしれません。この鏡は、彼にとって「自分こそが大陸の真の主である」という血の確信を与える拠り所だったはずです。
239年、洛陽の宮廷で倭国の使者と魏の皇帝(曹操の孫・曹叡)が対面した瞬間。それは、歴史の荒波で分かたれた「大陸に残った楚(魏)」と「海を渡った楚(倭国)」が、数百年ぶりに再会した奇跡の瞬間であったとしたら。
魏と倭国がまるで血族のようにがっちりと手を繋いだ理由が説明できるのではないかと考えるのです。
さて、次回はもうひとりの英雄、難升米についてお話したいと思います。どうぞお楽しみに!!




