第十三話 箸墓古墳は誰の墓?
大和王権というのは、各地に存在する神話や伝承、信仰を集約し再構成することに長けています。
たとえば、本来九州が舞台である天孫降臨の地、高千穂や天岩戸、天の香具山などの聖地を大和にも作っていますし、三輪山信仰、大和三山、三種の神器など、九州、出雲、畿内の三位一体を意識した作りになっています。前方後円墳も舞台装置の一つです。
三種の神器で説明すると
①鏡(八咫鏡)=九州系
天照大神の象徴であり、太陽祭祀に直結。九州の古代祭祀(天孫降臨伝承の高千穂など)では、鏡が太陽神の依代として重要。
②勾玉(八尺瓊勾玉)=出雲系
出雲地方は玉造部が有名で、古代から勾玉の産地。出雲神話では「魂の依代」として玉が重要な役割を果たす。
③剣(草薙剣)=畿内系
本来は尾張(熱田神宮)に伝わるが、記紀ではヤマトタケル伝承を通じて畿内王権に組み込まれる。武力・征服の象徴として大和王権の軍事的正統性を保証。
ただ、誤解しないで欲しいのですが、大和王権が地名や神器を整えたのは、現代的な演出ではなく、古代の「モノや名前に神が宿る」という言霊・依り代信仰に基づいた実践でした。「演出」ではなく「実際に神を呼び込む行為」として理解されていたからこそ、箸墓古墳や高千穂、天香具山といった舞台設定が人々にとってリアルな聖地として機能したのです。その感覚は、現代の日本人も完全には失っていない感覚だとは思います。
そして魏志倭人伝が伝える邪馬壹国や卑弥呼もまた、記紀に残る伝承を通して大和王権に吸収されています。卑弥呼や邪馬壹国は日本書記や古事記に存在しないと言われることもありますが、実際は存在しないどころか国家の礎として機能しています。
ただ、大和王朝に吸収され、再構成される段階で見えにくくなってしまっていますけどね。
では、実際にどのような形で再構成されているのか見ていきましょう。
まず卑弥呼と台与という女王の存在に関してですが、統一大和国にとって天皇よりも上位の存在は必要ありません。
卑弥呼・台与という女王の系譜は、
倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼) 大物主神の妻 → 三輪山信仰(大神神社)
豊鍬入姫命 (台与)天照大神の斎宮 → 伊勢神宮
という形で上手く権力から分解され、統一大和国を支える信仰の柱として機能しています。
倭迹迹日百襲姫命に関しては卑弥呼として宮崎の邪馬壹国で亡くなったはずです。そして、墳墓は特定されていませんが、おそらくは宮崎のどこかにあるでしょう。年代的にも墓制的にもいわゆる前方後円墳ではないと思いますが。
日本書紀に描かれる大物主神の妻という巫女としての姿は、統一大和国の建国神話に組み込むためにアレンジされたものです。九州で実際にあった出来事を、舞台を畿内に移しているわけです。
大物主神の妻というのは、九州と出雲との婚姻という意味で非常に合理的です。箸墓古墳にまつわる伝承は、その原型が九州各地に存在するので、これもまた移植されたものでしょう。
箸墓古墳が明らかに倭迹迹日百襲姫命の伝承と結びついているのに年代などが問題になるのは、箸墓古墳が後年移植された祭祀用ランドマークの一つとして建造されたものだからと考えるとすっきり整合します。つまり箸墓古墳は墓ではなく、倭迹迹日百襲姫命、卑弥呼はそこに埋葬されたわけではないということになります。実際、副葬品もありませんし、古墳とセットであるはずの三角縁神獣鏡も出土しません。
あ、ちなみに三角縁神獣鏡は大和王権が天孫降臨・天岩戸伝説・三種の神器とセットで再構築した国産オリジナルです。卑弥呼が魏から贈られたものとは違いますよ。
こういった例は別に珍しいことではなく、義経の墓や聖徳太子の墓、世界に目を向ければアレクサンドロス大王の墓、チンギス・ハンやクレオパトラの墓などがあります。あ……そういえば青森にキリストの墓もありましたね。
死者を冒涜しているわけではなく、むしろその逆で、信仰心や権威、威光といったものを借りているのです。そういう意味では、たしかに箸墓古墳は卑弥呼の墓なのかもしれません。たとえそこに埋葬されていなくとも、そのために作られたのは間違いないのですから。
箸墓古墳は、冬至の日に三輪山山頂から昇る太陽が墳丘正面に差すように設計されています。古代九州における巫女的な儀式では、太陽光が神の男性性を現しますので、三輪山(大物主神)と妻である巫女王(卑弥呼)が永続的に交わり続ける神婚の象徴と解釈出来ますね。
ちなみに仮に卑弥呼が箸墓古墳に移されて埋葬されたとしても、それをもって邪馬壹国は畿内だ、とは当然ながらなりませんが、卑弥呼の墓は畿内にある、でしたらセーフかもしれません。
豊鍬入姫命、台与に関しても女王としてではなく、天照大神の斎王として描かれています。垂仁天皇25年(私の復元年数だと275年前後)条に倭姫命へ交代した記事がありますので、即位時に13歳だったことを考えると40歳くらいまで倭の女王だったことになります。
女王としての権威と象徴性をそのまま伊勢神宮という形に移行したことになりますね。
台与、もしくは倭姫命が箸墓古墳に埋葬されている可能性は多少あります。
ところで、箸墓古墳は誰が建造したのでしょう? そして、いつから大和に主体が移ったのでしょうか、それを考えたいと思います。
台与と崇神天皇の代ではなさそうです。なぜなら魏志倭人伝に九州以外の存在が欠片も出てこないからです。
張政らが短期間しか滞在していなかったのであればまだ理解できますが、彼らは247年に来日してから266年に帰国するまで国の中枢に近い場所に19年間もいたのです。
(魏志倭人伝) 壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹
(意訳) 壹與(卑弥呼の後を継いだ女王)は、倭の大夫である率善中郎将の掖邪拘ら二十人を派遣し、張政らを送り返した。 その際に洛陽の朝廷を訪れ、男女の奴隷三十人を献上し、白い珠五千個、青い大きな珠二枚、模様の異なる錦二十匹を貢いだ。
張政らがいつ帰国したのかというのは、この記事でわかります。魏志倭人伝には年号が入っていないのですが、他の史書には倭の女王が266年に朝貢したことが記録されています。
魏には海洋船がありませんので、送ってもらわなければ帰れません。そして記録に残っているのがこの時のものだけなので、そう推測されているのですが……魏志倭人伝のこの箇所だけ年号が入っていないからこそ266年の場面だと言えるのです。
実は、265年に魏が滅んで晋になっています。つまり266年は晋代ということになってしまい、本来魏志である倭人伝には書けないのです。しかし、この場面は倭人伝の最後の締めくくりであり、一連の物語を完成させるには書かないわけにはいかなかった。
だから陳寿は苦肉の策として、年号を入れないことで最後にこの場面を入れたわけですね。つまり、張政らが帰国したのは266年でおそらく間違いありません。
そして、そんな張政らがいたにも関わらず、大和のことは一切触れられていない。つまり、宮崎から大和の地へ移行したのは張政らが帰国した後、ということになります。
箸墓古墳が建造開始された年代は300年あたりと思われます。
つまり、張政らが帰国してからそれほど時間は経っていません。ということは、崇神天皇の次の垂仁天皇の時代に作られた可能性が高いということになります。そして――――同時に九州から大和へ移行していることになります。
歴史上、大きな動きや移動がある場合、必ず原因や動機、きっかけが存在します。この時はなんだったでしょうか?
おそらく、魏の滅亡でしょうね。国の形は残るとはいえ、相当なショック、衝撃だったと思います。そして朝鮮半島では高句麗が強大化し、新羅は倭の領域をたびたび侵すようになっていました。
統一国家建国を急がなければ、という思いは一層強くなったはずです。
実際に垂仁天皇が大和へ派遣されたと思われる記述があります。
『日本書紀』崇神天皇48年の記述を要約します。
崇神天皇は、皇子の豊城入彦命と活目尊(いきめのみこと、後の垂仁天皇)の二人を「慈愛深い子で、どちらを後継者にすべきか決めがたい」と思った。
そこで「それぞれの見る夢で判断しよう」と告げた。
二人の夢
豊城入彦命:御諸山(三輪山)に登り、東に向かって槍や刀を振り回す夢を見た。
活目尊(垂仁天皇):御諸山に登り、四方に縄を張って雀を追い払う夢を見た。
崇神天皇は、活目尊の夢を「領土を確保し農耕を振興する心を持つ」と解釈し、後継者(大和の統治者)に選んだ。
豊城入彦命の夢は「東に向かって武器を振るう=東国を治める意思」と解釈され、東国派遣が決まった。
本格的に大和に統一国家を作るという一大事業を任された垂仁天皇、彼は偉大なる女王卑弥呼を知る最後の世代です。
その偉大なる霊力と存在感は圧倒的ですし、死んで神となった彼女の力を借りようとするのはある意味当然のことだったと思います。
人間というのは見えないものよりも見えるものを信じます。巨大な箸墓古墳は大和統一国家の神話的な権威の中心的なランドマークとして機能したはずです。
そして、興味深いことに日本書紀には垂仁天皇が埴輪を作らせる記事があります。これは歴史上埴輪が初めて登場する場面なのですが、初めて埴輪が使われたのもまた箸墓古墳なのです。
大和の地に卑弥呼の神性を持った箸墓古墳を建造する動機とそれを裏付ける埴輪づくり。そして年代もそのままピタリと合います。
また、間接的な補強ですが、垂仁天皇の次の景行天皇は、熊襲などが反抗し始めたため、結局九州の日向に戻り六年かけて反抗勢力を退治して回る羽目になっています。やはり遠い大和へ都を移すとそうなりますよね、というお話。
もし魏志倭人伝が存在しなければ、争いも論争もなかったことでしょう。その代わり、邪馬台国や卑弥呼という古代のロマンも存在しなかったわけで、じつに悩ましいものですよね。
次回は、この流れで神功皇后のお話をしたいと思います。




