第十二話 卑弥呼の正体
さて、今回は日本書記と魏志倭人伝との関りを探っていきましょう。
孝元天皇:157–185年
開化天皇:185–215年
崇神天皇:215–249年
垂仁天皇:249–298年
年代的に魏の使節団が訪れた魏志倭人伝の時点(247年)では、崇神天皇末期、もしくは 垂仁天皇の初期と思われます。
では、まず卑弥呼から見ていきましょう……おそろしいほどぴったりの人物がいます。
倭迹迹日百襲姫命、孝霊天皇の皇女で、母は倭国香媛。弟に桃太郎のモデルとなり、吉備を平定した英雄、吉備津彦命(彦五十狭芹彦命)がいます。卑弥呼を助けた弟という意味ではまさに適役ですね。また崇神天皇も甥っ子ですが、弟と理解しても問題ないと思います。古代の血縁関係は複雑なので。
その倭迹迹日百襲姫命ですが、崇神天皇の治世において異例ともいえる数々の記述が日本書紀に存在します。
●崇神天皇即位5年『日本書紀』
国内に疫病が大流行。天皇が神々に占いを求めると、大物主神が百襲姫に憑依し「我を祀れば国は安定する」と神託。
●崇神天皇即位7年『日本書紀』
百襲姫に再び大物主神が憑依。神託を伝え、大神神社(三輪山)の祭祀につながる。
●崇神天皇即位10年『日本書紀』
百襲姫が夢で神託を受け、大物主神と倭大国魂神の祭主を定める。
●崇神天皇期(詳細年不明)『日本書紀』
百襲姫が「不思議な歌を詠う少女」の話を聞き、その歌を武埴安彦と妻の謀反の前兆と見抜き、反乱を鎮圧。
●崇神天皇期(後半)『日本書紀』『古事記』
百襲姫は大物主神と結婚。夫の正体が蛇であることを知り驚き、夫の怒りを買う。後悔のあまり箸で陰部を突いて死去(古事記では、姫が驚いた拍子に箸で陰部を突いて死去)墓は「箸墓古墳」と伝えられる。
彼女は卑弥呼に比定される人物の中では最も有力な人物です。実際に私の年代推定でもピタリと当てはまるので、彼女が卑弥呼の有力な候補と考えるのが自然でしょう。
倭国が乱れ、卑弥呼を擁立したと魏志倭人伝にありますが、人口の半分を失ったとされる疫病などの災害に関連するものであると理解すれば納得です。戦争であれば武力でどうにかなりますが、こうした災害には無力ですからね。超自然的な力を持つ女王(巫女王)が擁立されたのは必然だったのではないでしょうか。
そして、卑弥呼の死後、王位を狙って反乱を起こした男王(武埴安彦命)の存在も符合します。武埴安彦命は孝元天皇の皇子で倭迹迹日百襲姫命の甥っ子であり、崇神天皇の叔父とされる人物です。
そして、台与 (とよ)にピタリと当てはまる人物もいます。
豊鍬入姫命 (とよすきいりひめのみこと)、崇神天皇の皇女で、文字通り(とよ)です。年齢的にも丁度良く、伊勢神宮の斎宮の起源とされますから、巫女王の系譜としては申し分ない女性です。彼女が台与 (とよ)であったと思われます。
そして、魏志倭人伝の邪馬壹国に記述のあった官の最上位、伊支馬とは、崇神天皇の息子、活目入彦五十狭茅天皇(垂仁天皇)のことだと思われます。伊支馬 (いきま)=活目(生目=いきめ・いきま)についてはすでに説明しましたよね?
つまり、年代が当てはまるだけでなく、その時代に魏志倭人伝の記述に対応する人物が揃っているわけで、これを偶然だと片付けるのはさすがに無理があります。
日本書記の編纂時に魏志倭人伝の記述に合わせるために創作した、という意見については、そもそも一年二暦で復元しなければ年代がまったく合わなかったわけで、的外れな指摘です。陳寿が創作したというのはもちろん論外です。
ここまで比定できたのは、日本書記の編纂が正しかったから、政治的な作為が無かったからに他なりません。そうでなければ復元できませんでしたから。
さて、日本書記における人物比定は出来ました。
ですが、ここで疑問が生じますよね?
あれ? 魏志倭人伝の舞台って九州じゃなかったのって。
はい、間違いなく魏志倭人伝の舞台は九州の日向です。これは一次史料である魏志倭人伝の記述が正しいとするべきです。
たとえば反乱を起こした武埴安彦命についての事件をみてみましょうか。
武埴安彦命の妻は吾田媛、吾という名は阿多隼人の一族のものです。神武天皇の妻となった吾平津媛も日向国吾田邑の出身で、阿多隼人の有力者の娘でもあります。阿多隼人は、南九州の隼人系部族の一つ。薩摩半島東部(現在の鹿児島市・日置市・南さつま市周辺)に居住し、隼人の中でも「阿多隼人」と呼ばれ、曽於隼人・大隅隼人と並ぶ勢力です。
ようするに魏志倭人伝に登場する狗奴国(隼人)というのは、日向国にとって血縁関係のある身内なんですね。なぜ女王国に属さないのか? わかりやすく言えば、自分たちのルーツや文化、風習を守りたい保守派勢力だったのでしょう。実際、隼人は721年に征隼人将軍大伴旅人によって征討されるまでしばしば朝廷に対して反乱を起こしています。日本統一を目指し、種族、宗教、文化の融合を謳う進歩派の女王のやり方が気に喰わなかったのかもしれません。あるいは単純に王は男であるべきで、女王を戴くということ自体に反対だったのかもしれません。陳寿がわざわざ男王と書いていることからするとその可能性も考えられます。
(魏志倭人伝)更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
(意訳)新たに男王を立てたが、国中の人々は服従せず、互いに誅殺し合い、その時に千余人が殺された。
日本書紀では武埴安彦命とその妻が反乱を起こしたと書いてありますが、実態はもう少し複雑だったのではないでしょうか。女王国の力を考えれば、力で制圧することも出来たでしょうが、卑弥呼としては親族内で殺し合いはしたくないわけで、だからこそ第三者の仲介役として魏に要請していたわけです。
派遣された張政らと狗奴国が話し合って、妥協案として卑弥呼の後継は男王を立てると約束したのかもしれません。そして、その候補が狗奴国(隼人)から妻を迎えている武埴安彦命だった。血筋的にも孝元天皇の皇子ですし、卑弥呼の甥で崇神天皇の叔父です。狗奴国への配慮という意味でも理想的な人選と言えたでしょう。
しかし、卑弥呼の影響力は想像以上で、もしかしたら武埴安彦命はあまり人気が無かったのかもしれません、普通に考えたら、神のように人気のあった女王の後に男を立てること自体が間違っていたのでしょう。
納得が出来ない国民から批判が殺到し、流血騒ぎ、千人が殺される内乱へと発展し、収拾を付けるために武埴安彦命はそのスケープゴートとして殺されてしまったのかもしれません。
これらの出来事はあくまで南九州で起きたことです。張政らが向かったのは他でもない邪馬壹国であり、それは宮崎にあったのですから。
しかし、日本書紀の記述は畿内が舞台であったとされています。これはどういうことでしょうか。
その結論を出す前に、少しだけ『欠史八代』の話をさせてください。
二代綏靖天皇から九代開化天皇までの八代の天皇に関して、記紀に系譜だけが記され事績がほとんどなく、学界では「後世に創作された可能性が高い」とするのが定説です。
ですが、私からすれば、いやいや、何言っているの? です。
少し考えればわかると思うのですが、史料が無いのではなく、大和国の天皇ではないから載せていないだけです。例えば後漢書に魏(晋)代の台与を書かなかったように、日本書紀は、あくまで大和国の正史です。神武天皇は太祖王ですから書かないわけにはいきませんが、二代綏靖天皇から九代開化天皇まではあくまで九州王朝の範疇なのです。繋がっているけれど、畿内大和国の天皇ではないから欠史なのです。
つまり、日本書紀は、十代崇神天皇が畿内大和国の実質的な初代天皇だと示しているに過ぎません。政治的な意図ではなく、正史を編纂するにあたっての当たり前の線引きをしているだけです。
それはそうですよね? なにせ崇神天皇は卑弥呼が親魏倭王の金印を授かった時の王なのですから、そこを基点とするのは権威、正統性の点で実に理に適っています。仮に私が統一大和国を作るなら、やはりそこを基点にすると思います。
ですが、魏志倭人伝でわかるようにこの頃はまだ九州王朝です。もちろんすでに神武天皇の東遷によって畿内には大和国の原型は出来ていた時代ですが、統一国家へ向けての準備段階、外交を含め主体はまだ日向にあったわけです。九州王朝が大英帝国イギリスで、畿内大和国が開拓時代のアメリカだと思うと少しイメージしやすいかもしれません。
ではなぜ神武天皇は東遷をしたのでしょうか? そのまま日向で王位を継ぐことも出来たのにも関わらず、あえて困難な道を選んでいます。
答えは統一王朝を作るためです。当時大陸や朝鮮半島は大国化が進み、各国が目まぐるしく興亡し、いつ日本列島に襲い掛かって来るかわからない状況でした。
このまま小国に分かれていたのでは、いつか大国に滅ぼされてしまうという危機感が当時の王や指導者たちに共通の認識でした。神話に描かれる神々や英雄の伝承を知れば、彼らが日本中を駆け巡り、話し合い、力を合わせて統一国家を作ろうとしていた姿がリアルに浮かび上がってきます。
普通なら戦争で勝利した者が統一するという形をとるのでしょうが、彼らは違いました。種族も宗教も文化も異なる三つの勢力、すなわち九州、出雲、畿内を婚姻や話し合いといった平和的な手段で統一しようとしたのです。
しかしそれはある意味戦争で統一するよりも困難な道です。現代においてもその難しさがどれほどのものかわかるでしょう? 世界史においても極めて稀な誇るべき偉業に私たちの祖先は挑んだのです。
崇神天皇を実質的な初代天皇とするのは合理的です。国家にとって権威はその正統性が担保されなければならないからです。土台がしっかりしていなければ、国家は簡単に揺らぎます。
しかし、目的はあくまでも統一国家を作ること。九州王朝の延長では駄目なのです。あくまでも九州、出雲、畿内の三勢力に配慮したうえでバランスよく融合した形をとらなければなりません。神武天皇が媛蹈鞴五十鈴媛を皇后としたのも、事代主神(大物主神)の娘である彼女を妻とすることで、出雲と九州の融合、融和の象徴とし、都を畿内に決めたのは、畿内勢力への配慮からです。
邪馬壹国をスタートラインにするのは良いけれど、そのまま使うわけにはいかない。建国の英雄たちが出した案は、その全てを解決するものでした。
それは――――舞台を九州から畿内に良いとこどりで移植して再現するということ。そして、そこから統一国家としての大和国を始めるという一大プロジェクトです。
荒唐無稽なように聞こえるかもしれませんが、彼らは実際に実行しました。
長くなってしまったので、移植プロジェクトについては次回以降お話したいと思います。




