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日本史上最大のミステリー魏志倭人伝の完全解読に挑む  作者: ひだまりのねこ


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第十一話 日本書記の年代推定


 前回の続きです。


 一年に二度の歳時がある。春耕秋収を年紀とする。


 暦というのは、古今東西農業の必要性から生まれたものです。農耕社会では「いつ種をまくか」「いつ収穫するか」が生命線。暦はそのための指標として機能しますので、春耕秋収を年紀とする、というのは非常に理にかなった暦法だったわけですね。


 一年で二歳年をとると勘違いする方もいらっしゃいますが、暦の上で一年に2サイクルあるということです。魏志倭人伝でも年齢は普通だったでしょ?


(魏志倭人伝) 其人壽考或百年或八九十年

(意訳) その人々の寿命は長く、百年に達する者もあり、八十歳や九十歳まで生きる者もいる。


 もし一年で二歳年をとるとなると、八十、九十の人たちは四十~四十五歳です。魏の使節がその人たちを見て長寿だ、なんて思うわけありません。


 これの意味するところは明白です。一年に二回暦が変わるということ。



 本題に入りますが、日本の正史である日本書記に対する扱いは酷いものです。


 歴史を長く見せるために歴代天皇の在位期間を伸ばした、くらいなら可愛いもので、そもそも実在しない人物を創作した、年数を調整している、歴史を改ざんしている、など、信じられないほど敬意が感じられません。


 在位期間がありえないほど長いから事実ではない、創作だ。


 たしかに常に疑いを持つことは大事です。ですが、それは自分自身の姿勢だったり考え方であるべきではないでしょうか。


 編纂作業をあまりにも軽く見ていると感じます。日本も中国も、編纂に携わった人々は文字通り人生かけて、命懸けで取り組んでいるんですよ、遊びじゃないんです。 


 失われてゆく過去の記憶、それは単なる記憶だけでなく、自分たちの立ち位置を失うことです。


 そもそも編纂の意味わかってますか? 物語を書くことじゃないんですよ、膨大な資料をまとめて整理する、口承で伝わる物語とは違って、国家として起きた出来事、記録を残すことで正当性と権威を維持しなければ、歴史を失った国はやがて破綻します。


 私が魏志倭人伝のエッセイを書こうと思ったのは、日本書記のいわれなき冤罪や中傷がそのまま定説となっていることが悲しかったからです。


 そもそも、日本書記はその当時残っていた資料を元に、国家としての威信をかけて編纂されたものです。その性格上対外(中国)向けに作られたものなので、参考文献には、三国志、後漢書、宋書などの史書はもちろん、今では手に入らない、どころか正体不明の史料まで揃っています。


 簡単に改ざん、創作って言いますけどね、歴史って言うのは一本の紐みたいなものなんですよ。常に正解は一つしかなくて、どんなに隠そうとしても誤魔化せない、一つ誤魔化せば全部を変えたとしても辻褄が合わなくなるものです。


 もちろん日本書記にはおかしなところたくさんありますよ、だって膨大な資料の複合体ですからね。人間がやることなんて間違いがあって当たり前、勘違い、思い込み、手書きで写すしかなかった時代です、どんなに精査したって限度があります。


 でも、だからこそ信頼できるのです。表記の揺れや一見矛盾とも取れるもの、長すぎる在位期間、それらを後世の感覚や価値観で判断してはいけない。


 編纂とはあるがままをまとめて整理して並べることです。同じ出来事の記録でも記録者の主観や感情、直接見たのか、伝聞なのかでも変わってくる。


 だからこそ可能な限り多くの記録を比較検討して点と点を繋いで一本の線にしていかなければならない。とにかく地味で時間も手間もかかる作業です。


 文字通り歴史を紡いでゆく偉業です――――私は魏志倭人伝を信じますし、日本書記も同じように信頼しています。


 逆に聞きたい、信じたいものだけを信じて、理解できないものは斬り捨てる。同じ史料の中で、ここは信じるけどここは信じない。そんなスタンスで果たして何が見えるのか私にはわかりません。


 前置きが長くなりましたね。


 神武天皇から始まる歴代天皇の在位期間が日本書記には記されています。


 初期の天皇の在位期間が長すぎること、二代から九代までの天皇に関して記述がほとんどない(欠史八代)ことを理由に実在したのは十代の応神天皇からというのが定説らしいですが、私の認識は違います。


 まず、在位期間に関しては、春耕秋収年紀で説明できます。つまり在位期間は実質二倍になっているわけですから、ちょっと乱暴ですけど半分にすれば良いわけです。


 問題は、基点をどこにするか、つまりどの段階で中国と同じ(今と同じ)年紀に切り替えたか、ですが、切り替えの必要性を認識したということを考えると、国内がある程度固まって、中国との外交を再開した頃だと推測します。


 具体的に言えば、大和王朝が成立し、ほぼ安定した神功皇后以降となるでしょう。この時期は、前回話題にしましたが、413、421、425年と短期間に使節を派遣しています。裴松之がわざわざこの時点で春耕秋収年紀を注釈に入れたのも、倭国側と中国側がお互いに十干干支を採用していながら実はサイクルが異なっていたということを知らなかったという事実を重く見た、あるいは話題になっていたからではないかと。魏略に書いてあったということは、昔は知られていたかもしれませんが、この頃は日本側も中国側も知らなかった可能性が高いです。交流していなかった150年の間に中国側の王朝は何度も変わっていますし、日本側にもその問題意識を持つ理由がありませんでしたから。


 では、切り替えのタイミングはいつか、ですが、これもある程度絞れます。


 十干干支をサイクルの基本


 干支は 十干(10)×十二支(12)=60年周期 で一巡します。


 日本が「年に二回暦を作る」方式を採用していたとすると、1暦年=半年で干支を進めることになります。つまり、日本式は 30年で一巡、中国式は 60年で一巡。


 サイクルの一致条件


 中国式:60年周期

 日本式(二回暦):30年周期


 両者が同じ干支に戻るのは 最小公倍数=60年ごと。


 具体的な一致年はこのようになります。


 345年、405年、465年、525年、585年 ……


 仮に413年の派遣時にサイクルの違いが発覚したとするならば、次に一致する465年が理想的なタイミングということになります。


 では465年の状況を見てみましょう。この年代は倭王武である雄略天皇の治世です。


 都合のいいことに、稲荷山古墳の鉄剣による実在の証明、日本書記に記される記述と中国、朝鮮半島との一致から、少なくとも雄略天皇の代に暦が切り替わっているのは確実です。345年、405年に切り替わっている可能性もありますが、裴松之が注釈を入れたことを考えると、やはり465年切り替えが一番現実的でしょう。


 では、初代神武天皇から雄略天皇の前の代、安康天皇までが年二回暦であったとして、年代を西暦に当てはめてみます。在位年数が奇数の天皇もいるので、多少ズレるとは思いますが、それでも最大十数年程度でしょう。


 安康天皇から遡っていきます。


 安康天皇:在位3年(暦二回制で約1–2年) → 453–456年。

 允恭天皇:在位42年(暦二回制で約21年) → 432–453年。

 反正天皇:在位5年(暦二回制で約2–3年) → 429–432年。

 履中天皇:在位5年(暦二回制で約2–3年) → 426–429年。

 仁徳天皇:在位87年(暦二回制で約43年) → 383–426年。

 応神天皇:在位41年(暦二回制で約20年) → 363–383年。

 仲哀天皇:在位9年(暦二回制で約4–5年) → 358–363年。

 成務天皇:在位60年(暦二回制で約30年) → 328–358年。

 景行天皇:在位60年(暦二回制で約30年) → 298–328年。

 垂仁天皇:在位99年(暦二回制で約49年) → 249–298年。

 崇神天皇:在位68年(暦二回制で約34年) → 215–249年。

 開化天皇:在位60年(暦二回制で約30年) → 185–215年。

 孝元天皇:在位57年(暦二回制で約28年) → 157–185年。

 孝霊天皇:在位76年(暦二回制で約38年) → 119–157年。

 孝安天皇:在位102年(暦二回制で約51年) → 68–119年。

 孝昭天皇:在位83年(暦二回制で約41年) → 27–68年。

 懿徳天皇:在位34年(暦二回制で約17年) → 10–27年。

 安寧天皇:在位38年(暦二回制で約19年) → -9–10年。

 綏靖天皇:在位33年(暦二回制で約16年) → -25–-9年。

 神武天皇:在位76年(暦二回制で約38年) → -63–-25年。


 ということで、神武天皇は紀元前63年即位ということになりましたが、干支サイクル『日本書紀』の辛酉年即位ということであれば、紀元前70年が最も合理的な一致点になります。


 さらに地質学的な観点からも補強します。大阪平野は弥生時代前期~中期(紀元前3世紀~紀元前1世紀頃)まで「河内湾」として海が入り込んでいました。神武東征の描写「大阪湾から船で遡上する」場面は、この河内湾が存在していた時期でなければ成立しません。


 というわけで、神話記述・考古学的地形・暦統一のタイミングがすべて無理なく整合しましたね。


 では、復元された年代を元に、魏志倭人伝との対応を確認してみましょう。


 開化天皇:185–215年

 崇神天皇:215–249年

 垂仁天皇:249–298年


 はい、この三人の治世が魏志倭人伝の時代ということになりますが、もし邪馬壹国が大和王朝へと繋がっているのであれば、魏志倭人伝の登場人物に比定出来る人間がいるということになります。


 次回はそのあたりを探ってみたいと思います。

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― 新着の感想 ―
敗戦国は歴史を奪われるようですね。国民の起源は、自国民としての尊厳につながりますし、あと、近代史は、戦争の原因とか過程を、敗戦国が悪であるような歴史に書き換えたりと。まぁ、そういう事情とかもあり、日本…
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