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日本史上最大のミステリー魏志倭人伝の完全解読に挑む  作者: ひだまりのねこ


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第十話 もう一つの倭人伝


 中国には、もう一つの倭人伝ともいうべき史書が存在します。


 『後漢書』の「倭人伝」は正式には「後漢書 東夷列伝 倭伝」と呼ばれ、南朝宋の范曄(398–445)が編纂した『後漢書』の一部です。後漢時代における倭(日本列島)の状況を記した最初期のまとまった中国正史記事で、魏志(魏代の記録・記事)の一部である魏志倭人伝よりも扱う時代が古いのが特徴です。


 このエッセイでも紹介した委奴国の金印授与(57年)や倭国王帥升の遣使(107年)を記録し、日本列島の古代史にとって最初期の外交記事が掲載されています。後漢の基礎史料である東観漢記などの原本が失われ散逸してしまっているため、范曄が後漢書を残さなければ日本の古代最初期における状況は闇の中だったでしょう。


 才気に恵まれた奇人であったと伝わっていますが、有能であったが故に政争に巻き込まれて処刑された悲劇の天才です。


 彼は、陳寿の魏志倭人伝の内容を引用する形で倭国についての記述を補強していますが、引用するだけでなく、独自の解釈で内容を変えてしまっています。


(魏志倭人伝) 女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種 

(意訳) 女王国の東へ海を渡って千余里行くと、さらに国々があり、すべて倭人の国である。


(後漢書倭人伝)自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王

(意訳) 女王国から東に海を渡り千余里で拘奴国に至る。みな倭人だが女王に属さない。


 この変更のせいで、書き間違えや方角勘違い説に頼らざるを得ない畿内説を唱える方々は大喜びなんですが……魏志倭人伝は特級の一次史料であり、後漢書倭人伝は、その一次史料を引用した二次史料に過ぎないので、原典を批判する材料・根拠にはなり得ません。例えば魏志倭人伝とほぼ同時期の魏略などに東と書かれていたのなら話は別ですが。


 ただ、なぜ変わっているのかという視点は歴史を読み解くとても大事なヒントになります。


 范曄が後漢書の編纂を始めた424年の段階で、倭国と大陸との外交が再開されています。


 413年の東晋への使節(神功皇后もしくは応神天皇)、そして421年と425年(ともに南朝宋)の倭王讃(応神天皇もしくは仁徳天皇)の使節です。

 

 これは卑弥呼・台与時代以来、約150年ぶりのことです。これだけ間が空いたのは、倭国が国内に集中していたこと、大陸が北部異民族勢力の侵入で戦乱状態で不安定だったこと、その両方が影響していたと考えられます。


 再開したこれらの使節によって、中国側の倭国は関する認識は更新されたわけですから、それらの情報を元に范曄が修正したと考えるのが自然です。


 なんだ、だったらやっぱり陳寿が間違っていたんじゃないか!! 最新情報の方が正しいに決まってる、そう思う方もいるかもしれませんが、逆です。


 例えば、江戸と書かれているけど、東京じゃないか、訂正しないと!! ってなったら歴史がおかしくなります。その時代にはたしかに江戸だったわけですから。後年の情報を元に原典を修正するのは慎重でなければなりません。そんなことは言われなくとも范曄自身が一番よく理解しています。つまり、変更する必要があると判断したからこそ変えたわけですね。


 当時の倭国の中心は、すでに九州から畿内に移行していますが、ややこしいことに、神功皇后の三韓征伐直後に反乱を起こした忍熊王との長い戦いが始まります。北九州を拠点とした神功皇后は、数年から十数年かけて瀬戸内海を制圧しながら畿内へ向けて進軍します。まさに女王国(九州)から東に海を渡り千余里で敵国である拘奴国に至るという構図がばっちりはまっているのです。


 さらに卑弥呼・台与そして神功皇后という女王の系譜が完璧に合致しているので、范曄の認識(女王国は九州)から考えれば、敵国である拘奴国があったのは南ではなく東に海を渡った(四国・もしくは本州)だったと考えるのも無理はありません。つまり、この訂正は、畿内説を補強するものではなく、女王国が九州にあったのだという前提を補強するものにしかならないのです。


 そして――――范曄はもう一つ大きな変更をしています。


 邪馬「壹」国 を 邪馬「臺」国に変えてしまったのです。


 邪馬壹は素直にヤマトと読めますが、邪馬臺は明らかにヤマタイです。陳寿が「壹」「臺」を書き間違えた可能性はほぼ無いです。


 この部分見てください。


(魏志倭人伝)復立卑弥呼宗女()與年十三為王 国中遂定 政等以檄告喩()與 ()與遣倭大夫率善中郎将掖邪拘等二十人 送政等還 因詣() 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹


 この短い文章の間に壹という文字が三回も出ていて、そのすぐ後ろに臺の字が使われています。似ているから間違えた、は陳寿に失礼でしょう。


 おまけに現存する魏志倭人伝の写本含め、すべて邪馬壹と書いてあります。後年の写本時のミスでないことも明らかです。


 つまり、私たちがよく知る邪馬台国というのは、この范曄の表記変更に端を発しているのです。魏志倭人伝に登場するのは、邪馬壹(ヤマト国)であって、邪馬台国ではないのです。そして日本側の発音は現代にいたるまで一貫してヤマトで変化していません。


 これは、范曄が悪いわけではなく、当時の倭国使節の発音がそう聞こえたというだけのことでしょう。


 その証拠に、後の時代になって、交流が頻繁になった唐代においても、漢字は変わってもこのヤマタイ音写は変わっていないんです。つまり倭国からの使者は、やはりヤマタイと聞こえる言い方をしていたんだという結論になります。


 ですが……ヤマトがヤマタイに聞こえるかと言われるとかなり微妙です……。想像するに、魏志の時代、単にヤマトと言っていたが、この時代はヤマト国と言っていたんじゃないかと。ヤマトコク→ヤマタイコク これならわからないでもない。さらにヤマト大国(後の大大和や大日本みたいな)と名乗ったため、ヤマトタイコク → ヤマタイコク こっちの方が音は近いかな?

 

 

 というわけで、編纂者としてはかなり大胆(良く言えば柔軟)に変更を加える范曄でしたが、それでも守るべき一線は守っていました。


 彼が編纂したのは『後漢書』です。


 つまり後漢のことを書かなければならない。


 魏志倭人伝を多く引用した范曄でしたが、その引用の多くは地理や風俗など時代に関係なく変わらないと判断された部分のみ。後漢代に女王となった卑弥呼のことは書いてますが、魏(晋)代の台与のことは書いていません。


 それが史書というものであって、今回はそのことだけでも知ってもらえたら嬉しいなと思います。


 

 さて、范曄(398–445)と同時代に裴松之(372–451)という人物がいます。彼は大変博識で、史料収集に優れた歴史家です。


 当時、『魏略』『世語』『漢晋春秋』などすでに多くの史書が散逸し失われていました。歴史を失うということは、国家の正統性やアイデンティティを失うことに繋がります。危機感を覚えた南朝宋の文帝(劉義隆)の命で、裴松之は陳寿の三国志に注釈を付けることになり、元嘉6年(429年)に完成させています。


 陳寿の三国志は素晴らしいものではありましたが、記述は簡潔で、当時すでにわからないことが多くなっていたのです。そこで、当時まだ残っていた史書の断片をかき集め、理解しやすいように注釈を付けるとともに文章を追加して内容を補強したわけです。


 魏志倭人伝に関しても、台与が卑弥呼の宗女で13歳であることなど、詳細を追加したのは裴松之の仕事です。范曄と違って内容を書き換えることはしていません。あくまで注釈なので。


 よって、裴松之は陳寿の本文を尊重しつつ、散逸史料を引用して補強したため、現代の「魏志倭人伝」は本文+裴松之の注釈を合わせて読まれることが多いわけですね。


 そして――――裴松之は素晴らしい仕事をしてくれています。


(魏志倭人伝・裴松之注釈)歳時皆有二歳

(意訳)一年に二度の歳時がある。


 これは、『魏略』の「倭人は正歳四節を知らず、ただ春耕秋収を年紀とする」などの資料から引用された注釈で、陳寿の本文には書いてありません。どの資料のどんなものを記載するかは編纂者の好みや全体の構成・バランスに依存しますので、裴松之は、複数の史料を比較し、必要だと思ったものを補強したのでしょう。


 この仕事が、巡り巡って遠い未来の日本人にとって大きな意味を持つことになるなんて、裴松之は思ってもいなかったでしょうけれど。


 次回は、日本書記の年代推定に挑戦しようと思います。

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