失ってから気づいた、取り戻せない宝物(久我瑠璃視点)
十月の終わり、私は鏡の前で髪を整えながら、今日のデートのことを考えていた。透哉とのデート。三年間付き合っている彼氏。周りからは理想のカップルって言われるけど、正直なところ、最近は退屈だった。
透哉は優しい。頭もいい。でも、それだけ。地味で、目立たなくて、デートもいつも同じパターン。カフェに行って、本屋に行って、公園を散歩して。つまらない。私が本当に欲しいのは、もっとキラキラした恋愛。SNSに投稿したくなるような、友達に自慢できるような、そういう恋愛だった。
スマートフォンが震える。聖くんからのメッセージだ。鷹取聖。学校一のイケメンで、サッカー部のエース。金持ちで、かっこよくて、私が本当に欲しかったタイプの彼氏。
『今夜、会えない?』
私は少し考えてから返信する。
『透哉とデートだから、夕方以降なら』
『了解。じゃあ六時にいつもの場所で』
私は笑顔でスマートフォンをしまった。聖くんとは三ヶ月前から付き合っている。いや、正確には「付き合っている」というより「遊んでいる」。透哉には内緒で。
罪悪感? 少しはあるかもしれない。でも、それよりも今の生活が心地いい。透哉は勉強を教えてくれるし、プログラミングとかで将来お金を稼げそう。聖くんは今を楽しませてくれる。両方いればいい。贅沢かもしれないけど、私にはその権利があると思っていた。
だって、私は久我瑠璃。学年で一、二を争う美少女で、生徒会副会長で、SNSのフォロワーも三千人以上。みんなが憧れる存在。ちょっとくらい特別扱いされてもいいでしょう?
午後三時、駅前で透哉と待ち合わせた。彼はいつものように、少し照れくさそうに笑って手を振った。
「瑠璃、待った?」
「ううん、今来たところ」
私は彼の腕に自分の腕を絡ませる。透哉は少し驚いたような顔をしたけど、すぐに嬉しそうに笑った。こういうところは可愛いと思う。純粋で、私のことを本気で好きでいてくれる。でも、それだけじゃ足りないんだよね。
カフェで二時間ほど過ごした。透哉は私の話をずっと聞いてくれる。学校での出来事、友達のこと、SNSのこと。全部、真剣に聞いてくれる。ああ、こういうところは聖くんにはないな、と思った。聖くんは自分の話ばかりで、私の話はあまり聞いてくれない。
でも、聖くんにはドキドキがある。透哉にはそれがない。
五時過ぎ、聖くんから電話がかかってきた。私は席を立って、店の外に出る。
「もしもし?」
「瑠璃、もうすぐ行けそう?」
「うん、あと三十分くらいで行けると思う」
「了解。待ってるから」
電話を切って店に戻ると、透哉が心配そうに見ていた。
「誰から?」
「美咲。ちょっと急用があるみたいで」
嘘をつくのは慣れた。透哉は疑うことなく頷いた。
「そっか。じゃあ、もう行かなきゃいけない?」
「うん、ごめんね」
「いいよ。また今度ゆっくり」
透哉は優しく笑った。私は彼の頬にキスをして、店を出た。後ろ髪を引かれる思いは、全くなかった。
カラオケボックスで聖くんと会った。彼は相変わらずかっこよくて、私を見るなり腰に手を回してきた。
「待たせてごめん」
「いいよ。で、彼氏とのデートはどうだった?」
聖くんは少し意地悪そうに笑った。
「つまんなかった。いつも通り」
「俺との時間の方が楽しいだろ?」
「当たり前じゃん」
私たちは個室に入って、二時間ほど過ごした。聖くんは面白くて、話していて飽きない。透哉との時間とは全く違う。こっちが本物の恋愛って感じがした。
帰り道、スマートフォンを見ると、透哉からメッセージが来ていた。
『今日は楽しかったよ。また来週もデートしよう』
私は簡単に返信する。
『うん、楽しみ♪』
本当は楽しくなかったけど。でも、透哉には期待させておいた方がいい。まだ彼は私に必要だから。
それから数週間、私はこの二重生活を続けた。平日は透哉と普通のデート。週末は聖くんと刺激的な時間。完璧なバランスだと思っていた。でも、ある日の夜、友達の美咲から連絡が来た。
『瑠璃、ちょっと聞きたいことがあるんだけど』
『何?』
『凪原くんと鷹取先輩、両方と付き合ってるって本当?』
私の心臓が一瞬止まった。
『誰がそんなこと言ってるの?』
『七海が見たって。瑠璃が鷹取先輩と手繋いでカラオケ入るところ』
やばい。見られてた。私は必死に考えて、返信した。
『違うよ。聖先輩とはただの友達。たまたま一緒にいただけ』
『そっか。ならいいんだけど。でも気をつけた方がいいよ。変な噂立つと面倒だし』
『ありがとう。気をつける』
私は少し焦った。でも、すぐに気持ちを切り替えた。大丈夫。透哉は疑ったりしない。彼は私のことを信じてる。そう思って、また普段通りの生活に戻った。
十一月に入って、学校で中間テストがあった。私は勉強が得意な方だけど、それでも透哉に教えてもらうと理解が早い。彼の説明は本当にわかりやすい。
「透哉って、本当に教えるの上手だね」
テスト勉強の合間に、私は言った。
「そう? 瑠璃が理解が早いからだよ」
透哉は照れくさそうに笑った。私は彼の手を握った。
「透哉、いつもありがとう」
「どういたしまして。瑠璃の役に立てるなら、いくらでも教えるよ」
彼は本気でそう言っていた。私のためなら何でもしてくれる。それが当たり前だと思っていた。でも今思えば、それがどれだけ貴重なことだったか。その時の私には、わからなかった。
テストが終わった週末、聖くんとデートをした。高級なレストランで食事をして、映画を見て、夜景の綺麗な場所でキスをした。完璧なデートコース。SNSに載せたい写真もたくさん撮れた。もちろん、聖くんとのツーショットは載せられないけど、風景だけでも十分映える。
「楽しかった?」
聖くんが聞いてきた。
「うん、すごく楽しかった」
「地味な彼氏とは違うだろ?」
聖くんは少し意地悪く笑った。私も笑い返す。
「全然違う。透哉とのデートなんて、退屈すぎて比較にならない」
その言葉を言いながら、少しだけ胸が痛んだ。でも、それは一瞬だけ。聖くんの腕の中で、私はその痛みを忘れた。
十二月、冬休みが近づいてきた頃。学校で妙な噂が流れ始めた。鷹取先輩が、ドーピング検査を受けることになったらしい。しかも、大学からのスポーツ推薦も白紙になったとか。私は慌てて聖くんに連絡した。
『聖くん、大丈夫? 学校で変な噂聞いたんだけど』
返信はすぐには来なかった。一時間後、やっと返事が来た。
『今、色々大変で。また後で連絡する』
私は不安になった。聖くんに何かあったら、私はどうすればいいんだろう。でも、透哉には相談できない。彼は聖くんとの関係を知らない。
その日の放課後、透哉が公園に呼び出してきた。いつもと様子が違う気がした。
「透哉、どうしたの?」
「瑠璃、なんでそんなに鷹取先輩の心配してるの?」
その質問に、私は一瞬言葉に詰まった。
「え? だって、同じ学校の先輩だし...」
「本当にそれだけ?」
透哉の目が、いつもと違った。冷たい。疑っている。私は必死に笑顔を作った。
「透哉...何が言いたいの?」
「何でもない。ただ、そんなに心配するほど親しい関係なのかなって」
「透哉は優しいから、わかってくれるよね?」
私は彼の手を握った。透哉も握り返してくれた。でも、その手は冷たかった。
その週末、さらに衝撃的なニュースが入った。鷹取建設が税務調査を受けて、経営危機に陥っているらしい。聖くんの家の会社だ。私は何度も聖くんに連絡したけど、返事がない。不安で、夜も眠れなかった。
そして月曜日。学校を休もうと思った。聖くんのことで頭がいっぱいで、学校に行く気になれなかった。透哉にメッセージを送る。
『透哉、今日学校休む。ちょっと体調悪くて』
『大丈夫? 何かできることある?』
『ううん、大丈夫。心配してくれてありがとう』
透哉は優しい。いつも私のことを心配してくれる。でも今は、聖くんのことで頭がいっぱいだった。
昼過ぎ、スマートフォンが鳴り止まなくなった。友達からの連絡が殺到している。何事かと思ってメッセージを開くと、そこには信じられない光景が広がっていた。
私のSNSアカウントから、見覚えのない投稿がされていた。それは私の裏アカウントへのリンクだった。裏アカウント。私の本音を書いていた、誰にも見せるつもりのなかったアカウント。そこには、透哉への悪口、聖くんとの関係、全てが書かれていた。
『透哉、マジで退屈。デートもつまんない』
『聖くんとのデート、超楽しかった! 透哉とは比べ物にならない』
『透哉、私のこと本気で好きみたいでキモい。でも便利だから利用させてもらう』
私は震えた。これは、ハッキング? でも、誰がこんなことを?
スマートフォンが鳴り続ける。友達から、知らない人から、たくさんのメッセージと電話。
『瑠璃、これ本当なの?』
『最低じゃん』
『凪原くん、可哀想すぎる』
私は泣きながら、全てのメッセージを消して、アカウントを削除しようとした。でも、もう遅かった。スクリーンショットが拡散されていた。私の本音が、学校中に、いや、フォロワー全員に知られてしまった。
私は部屋で泣き続けた。これは悪夢だ。現実じゃない。でも、スマートフォンは鳴り続け、私に現実を突きつけてくる。
翌日、勇気を出して学校に行った。でも、廊下を歩くたびに、周りの視線が刺さる。陰口が聞こえる。
「久我さん、最低だよね」
「二股とか、ありえない」
「凪原くんが可哀想」
私は耐えられなくて、昼休みに透哉を探した。彼なら、きっと許してくれる。私が謝れば、また元に戻れる。そう信じていた。
「透哉、お願い。許して。私が悪かった。本当にごめんなさい」
私は泣きながら彼に縋った。でも、透哉は冷たい目で私を見た。
「瑠璃、もう遅いよ」
その声は、私が知っている透哉の声じゃなかった。
「お願い、もう一度やり直そう。私、透哉のこと本当に好きだったの」
「嘘だね。君が好きだったのは、僕の能力と将来性だけだ」
私は何も言えなかった。それが真実だったから。
「君が選んだ道だ。鷹取と一緒に、その結果を受け入れて」
透哉はそう言って、私から離れていった。私は泣き崩れた。周りの生徒たちが、冷たい目で私を見ている。もう、誰も私の味方はいない。
その後の日々は地獄だった。生徒会副会長の座を追われ、友達は全員離れていき、SNSは炎上して削除するしかなかった。聖くんとも連絡が取れなくなった。彼の家族は引っ越して、電話も繋がらない。
私は全てを失った。
両親も、私を冷たい目で見るようになった。
「お前のせいで、近所で恥をかいた」
「どうしてこんなことになったの」
誰も私を理解してくれない。誰も私の味方をしてくれない。私は一人ぼっちだった。
結局、私は学校を辞めることにした。都内の別の高校に転校したけど、噂はついて回った。ネットに残った情報は消えない。新しい学校でも、すぐに私の過去がバレて、孤立した。
毎日が苦しかった。朝起きるのが辛い。学校に行くのが怖い。誰とも目を合わせられない。私は徐々に壊れていった。
ある日の夜、私はビルの屋上に立っていた。ここから飛び降りれば、全てが終わる。もう苦しまなくていい。誰にも責められなくていい。
でも、飛べなかった。怖かった。痛いのが怖い。死ぬのが怖い。それ以上に、透哉の顔が浮かんできた。
透哉の優しい笑顔。私のために勉強を教えてくれた時の顔。デートで楽しそうに話していた顔。全部、私が裏切った顔。
私は泣きながら、屋上から降りた。通行人が心配して声をかけてきたけど、私は逃げるように家に帰った。
家に着いて、私はパソコンを開いた。透哉のメールアドレスは、まだ覚えている。私は震える手で、メールを書いた。
『透哉へ
突然連絡してごめんなさい。でも、これが最後だから聞いてください。
私は今、毎日が地獄です。転校先でも、元の学校での噂がついて回って、誰も私と話してくれません。廊下を歩けば陰口を叩かれ、教室では一人ぼっちです。
親も、私のせいで恥をかいたと言って、もう私を見る目が冷たいです。
聖くんとも、もう連絡が取れません。彼の家族は引っ越して、電話も繋がらなくなりました。
全部、私が悪かったんです。透哉を裏切って、傷つけて、調子に乗っていた私が。
でも、透哉。これは、やりすぎじゃなかったですか?
私が間違っていたのは認めます。謝ります。何度でも謝ります。
でも、私の人生を完全に壊すほどのことだったんでしょうか?
先週、私はビルの屋上に立ちました。飛び降りれば、全てが終わると思いました。
でも、怖くて飛べませんでした。
透哉は今、幸せですか? 私を苦しめて、満足していますか?
もしまだ少しでも、私に対して何か感情が残っているなら、お願いです。
許してください。
もう十分、罰は受けました。
これ以上、私を苦しめないでください。
久我瑠璃』
送信ボタンを押した後、私は泣き続けた。返事が来るまで、一晩中スマートフォンを握りしめていた。
翌日の昼、透哉から返信が来た。私は震える手でメールを開いた。
『瑠璃
君のメール、読んだ。
君が苦しんでいることは理解した。でも、僕にできることは何もない。
君が言う通り、君は罰を受けた。でもそれは、僕が与えた罰ではなく、君自身の行動の結果だ。
君は僕を裏切り、利用した。その事実が明るみに出ただけだ。
僕は君の人生を壊したわけじゃない。君が自分で壊したんだ。
だから、僕に許しを求めないでほしい。
君が本当に反省しているなら、これからの人生で償っていけばいい。
僕はもう、君の人生に関わるつもりはない。
さようなら。
透哉』
私は画面を見つめたまま、動けなくなった。透哉の言葉は、全て正しかった。私が悪い。私が全部悪いんだ。でも、認めたくなかった。自分の愚かさを認めるのが、怖かった。
数日後、私はもう一度透哉にメールを送った。最後のメールだと決めて。
『透哉
あなたの言葉、よくわかりました。
もう連絡しません。
でも、最後に一つだけ。
私は本当に、あなたのことを愛していた時期もありました。
それが嘘じゃなかったことだけは、信じてください。
さようなら。
瑠璃』
それから、返信は来なかった。私は毎日、スマートフォンを見ていたけど、透哉からの連絡は二度と来なかった。
数週間後、もう一度透哉からメールが来た。でも、それは謝罪を受け入れるものでも、罵倒するものでもなかった。
『瑠璃
元気にしてるか?
僕は今、アメリカで新しい生活を送っている。毎日が充実していて、少しずつだが前を向けるようになってきた。
君にも、同じように前を向いてほしい。
過去は変えられない。でも、未来は変えられる。
君が本当に反省しているなら、これからの人生で誰かを大切にすることで償えばいい。
僕はもう、君を許すとも許さないとも言わない。
ただ、お互いに前を向いて生きていこう。
それが、僕たちにできる最善のことだと思う。
透哉』
私は泣いた。透哉は、こんなに優しい人だった。私が裏切っても、最後には前を向けと言ってくれる人だった。そんな人を、私は失ったんだ。
今、私は毎日を必死に生きている。学校には通っているけど、友達はいない。でも、もう自分を憐れむのはやめた。透哉が言ったように、これからの人生で償っていく。
いつか、誰かを心から大切にできる人間になりたい。透哉が私にしてくれたように、無償の愛を注げる人間になりたい。
それが、私にできる唯一の償いだから。
透哉、ごめんなさい。そして、ありがとう。あなたを失って初めて、あなたがどれだけ大切だったか気づきました。もう遅いけど。
でも、あなたの言葉を胸に、私はこれから生きていきます。いつか、笑顔で生きられる日が来ることを信じて。
それが、私が望んだ世界で、私ができることだから。




