戻らぬ歪み
夕方になると、俺は日傘を差して透子と共に帰路についた。こんな時間までニーナを放置する事に罪悪感しかなかったものの、透子は俺に優しくするのをやめたらしく、気が変わることも許さなかった。
ここまで束縛……というか自我を主張する彼女の様子は珍しく、逆らう事が出来なかった。圧力を感じたというより、逆らったらもう二度とこんな姿は見られない気がしたから。
「ニーナ、大丈夫かな……」
「心配なの?」
心配だから、透子も早く帰るようにしてくれたりする。本当は夜まで働く予定が、シフトを代わってもらったそうだ。その手のやり取りをたまに聞くが、俺は彼女の店でまだ他の働いてる人や店長を見た事がない。居ないなんて事はないと思うが、どうしてここまでタイミングが悪いのかは気になる。
「……川箕がお世話してくれてると思うけどさ。まだまだ俺達の庇護が必要な状況なのは変わらないだろ。泣いてたら、やだな」
「あの子は君が思うよりも強いから大丈夫。目が見えないのに私達を信じる事を選んだでしょう。この腐敗と汚濁塗れの町で最も重要なのは、誰かを信じる事。本来、息つく暇もない程の治安の悪さがここにはあって、損得抜きに信じるっていうのは愚かな事だけど……リスクを避けて何もかもから遠ざかろうとすれば、もうその人生には鉄火場しか残されていないわ。吸った息を吐く事さえ許されず、目に映る全てに引き金を引く人生なんて嫌でしょう」
「……ニーナは目が見えないのにそうならなかったのが強いって言いたいんだな」
「警戒心がもっと強いなら幾ら私達が努力しても警戒するばかりだったと思うから、そうなったらもう生きられないわね。無理やり外に出て、誰かに捕まってお終い」
そういう意味だと、俺達を信じたお陰で俺が居なくなっても川箕がお世話してくれるし、ニーナは選択を間違わなかった事になる。間違わなかったという事にしたいなら、まずは騎士達をどうにかしないと。
「―――やっぱり君は、私を説教する前に自分をどうにかした方が良いと思うわよ」
「なんだよ」
「優しすぎるのも考え物だって言ってるの。誰彼構わず手を差し伸べるのがどんなに危険かって事。あの子を危険物だって考えた事はない?」
「ない」
「…………」
透子は溜息を吐いて、携帯からニュースを見せてくれた。
「これは君が中学くらいの頃のニュースよ。かばね町に攫われた娘に対して身代金を払ったところ娘が帰ってきたの。けどその娘の体内に爆弾が仕込まれてて、帰った瞬間爆破されたって事件」
「…………!」
「私が調べておいたからあの子にそんな潜在的な危険はないけど、善意に付け込んでこういう事をしてくる可能性もゼロじゃないのよ」
透子の至近距離で爆破した所で彼女にダメージは一切ないだろうが俺達は確実に即死する。マーケットは最終的に透子を殺せれば手段は問わないだろうし、精神的なダメージを与えて弱らせる為という事なら……有り得ない話じゃない。
「……これからは気を付けるよ」
日傘を差す手を強く掴まれる。顔を見ようとしても透子は明後日の方向を見ており、感情が分からない。お店の中で騎士に襲われた原因はこの日傘だ。やはり日傘を差した人間が情報を持っているという誤解(誤解でもない)が広まっているように思う。
後は、カラーギャングになりすまされたという手口を俺が伝えなかったのも悪かった。透子が相手じゃなければ完璧に不意打ちを決められただろう。
家の正にその手前で、今度は俺が足を止める。
「……また川箕に危機が迫ってるとかないよな?」
「デートの時の事を思い出したのね。でも大丈夫。今危機が迫るとすれば川箕さんよりニーナちゃんだろうから」
「それはそれで安心出来ないけど……」
ガレージに戻ると、川箕と目が合った。何か作業をしていたのだろう。金槌を片手に作業着をそれなりに汚している。多分その作業は地下で行われていて、地上に道具を取りに来たとかだろうか。
「あー! 夏目、勝手にどっか行かないでよ! 知らない人が居座ってて滅茶苦茶怖かったんだから!」
「わ、悪い! 透子が騎士に襲われたって聞いて心配になっちゃってさ。ペストマスクは怖かったか? 多分何もしてないとは思うんだけど」
「何もされてないけど、怖いよあんなの! 何にもしないでずっと立ってるし、思わずまたガスを起動しちゃったけど全然効かないし! あーもう、私もすっかり忘れてたけど連絡先交換しよっ。せめて行く時は一言お願い! こんなんじゃ心臓がいくらあっても足りないよ……」
「分かったよ! ごめんって!」
言い訳の余地はない。全て俺が悪いと分かっている。まして川箕には俺が透子の正体を知りながら本人には黙っている事を教えているから猶更行動の意味が分からない筈だ。今も『人間災害が負ける訳ないのに何で助けに向かってんの?』と聞きたくて仕方ないような顔をしている。
「ごめんなさい、私のせいで」
「透子ちゃんは仕事してただけだし悪くないよっ。でも仕事場を襲われたって事は、私達身元割れた?」
連絡先を交換する傍ら、透子は近くの壁によりかかってリラックスする。
「私はその場所に居なかったから無関係よ。襲われたのは単に私達が日傘一派のように扱われているから……眩しいのは苦手なんだけど、これからは日傘を控えるべきかしら。何度も何度も襲われるのは面倒くさいし」
「俺の指名手配じゃないけど、粘着されるのってこんな面倒なんだな」
「君はまだ潜入捜査官が探してるって事忘れないでね。そういう意味でもやたらと首を突っ込むのは危険だから」
「はい……」
「な、なんか関係性が変わった? そうだ、ニーナちゃんに聞いてみたらいいんじゃないかな。私、透子ちゃんと話あるしちょっと情報集めてきてよ。現状、騎士達について詳しいのはあの子なんだし」
でも俺は、ニーナを置いてけぼりにしてしまったから。
そんな言い訳よりも前に、嬉しい事があった。川箕が代わりに送ってくれたのだろうか、彼女は早速俺が縫った目隠しをつけてぬいぐるみと遊んでいたのだ。足音か扉の音か、いずれかの原因で彼女は俺の来訪を聞きつけ、ぱあっと顔を明るくさせる。
「ジュード様ですか?」
「ああ。足音で分かるのか?」
「は、い。まだ少しお話しするのは慣れませんが。足音の重さやリズム等から誰かを特定する事くらいは。知らない足音は一つたりとも聞こえませんし」
―――アイツ、気を遣って足音を聞かせないように?
この無駄な気の利き方はなんだろう。
「この目隠しはジュード様が私の為に作ったのだとお姉様が言っておられました。私には何も見えませんが、感謝しております。私なんかのた、めに」
ベッドの上に這いあがってぬいぐるみの目の前に座り込む。マットが沈み込む様子から、彼女にはより詳細な俺の位置が伝わっていると信じたい。
「そう卑屈にならないでくれ。本当は、出来る事なら目を治したいんだ。けどやっぱり、目を治す医療なんてのは全然なくてさ……ちょっと視力改善する程度の物じゃないんだ、丸々眼球を治す手術なんてまだ不可能なのかも。だから俺に出来るせめてもの事をしたまでだよ」
「まあ……謙虚ですこと」
「それよりニーナ。辛い事を思い出させるようだけど実は……騎士達が君を探しに近くまでやってきてる」
「…………」
ぬいぐるみと一緒に正面から少女を抱きしめる。怖がらせないように、或いは自分は味方だと先回りして教えるように。
「事情を聞いてから君を引き渡す気は更々なくなった。たとえ俺が死ぬ事になったとしても渡そうとは思わない。今は追い出そうと画策中なんだけど大立ち回りをする割には妙なところが慎重で上手くいかないんだ。何か騎士の弱点とか知らないかな?」
「弱点ですか」
「個別に対応してたらキリがないだろ。一斉に全員を動かせるような事情とかってないかな?」
「そういう事でし、たら。騎士団には代表者が居ります。その人をどうにかする事が出来れば、きっと……も、もんだい、な、い……うううううう」
これから言う事は全て想像だが、その代表者こそニーナを最も苦しめた元凶だ。じゃなきゃ彼女はここまで錯乱したりしない。俺が離れていた事で不安がったりはしていなかったが、やはり騎士達を遠ざけないとニーナはいつまでもこんな調子で、どうすれば平和に生きられるか以前の問題で停滞したままだ。
こういう使い方はトリッキーだろうか。一階に居る川箕に電話をかける。透子に用事があったらしいが流石に終わっただろう。今度は俺の、大切な用事だ―――
『川箕。作ってほしいものがある』




