不幸になる為に
ニーナに朝食を摂らせると、改めて二人を呼び、一先ず自己紹介をしてもらった。透子は元々夢で声を聞いた事があるからそう打ち解けるのに時間はかからなかったが、川箕は少し悩んでしまった。
補聴器を作った人と説明したらすぐに納得してくれたけど。
「お姉様呼びはどうかと思うけどね……」
「いいえ、どうかそう呼ばせてくださいませ。私の耳がまた聞こえるようになった……のは……お姉様のお陰です、から」
「まだ少し慣れないみたいね」
「喋れるだけ充分だよ。じゃあニーナ。事情を……俺達に聞かせてほしい。何があったのかを」
ぬいぐるみでも抱っこしているみたいに背中からそれを促すのは自分でもどうかと思ったが、これが最大限接触を続ける方法だ。妙な場所を触って誤解を生みたくもないし、怖がらせたら多分、二度と信じてもらえない。
『………………じゃあ、殺す?』
昨夜の透子の発言には、静かな怒りが込められていた。あれは俺を危険に晒したから怒っていたのか、それとももっと別の理由で……こんな事を言いたくはなかったが、あの一瞬だけ透子はまるで別の存在になったように……冷たくなった。
怖がらせるとはそういう事だ。俺はあの時怖がって、彼女の提案に何も答えなかった。ニーナにそんな思いはしてほしくない。
「…………私の家、は。マーケットに負けたんです」
「え?」
「私の家は代々……お金持ちで、お金を社会の不安を取り除く為に使おうと心がける人間でし、た。イギリスにはマーケットの活動に重要な拠点があって、お父さん達はそれを潰そうとして―――失敗したん、です」
もしこれから出会う人間が誠実なら、それだけ後ろ盾が強力という証だなんて。いつぞやのフェイさんの言葉を思い出す。人間災害―――透子の力がこの町においてそれだけ絶対的という訳だ。マーケットはとんでもないろくでなしだが、究極の暴力には従順な姿勢を見せているだけで……本来、罪のない被害者ばかりを生み出す最悪の犯罪者であると。
「マーケットは、政治にも絡んでて、色々……お父さんの資産を奪うような形で攻撃してきて、お父さんはそれでも追及を辞めようとしなくて…………おか、あさんが、資金を絶やさない、為に……わ、たしを売ったんです」
「自分の正義の為に子供を売れるのか? あんまり信じたくないな。子供に愛情がない親ばかりなんて」
「詳しくないけど、政治は腹の探り合いなのでしょう? 相手に自分の子供を与えてそれでも戦う姿勢を見せるって事は、所謂落としどころって奴じゃない?」
「何言ってるんだ?」
「攻撃の手を緩めてほしいのよ。敢えて自分の弱味を出す事で、誠意を見せるって言うの。難しいわね。あんまり心の内を見透かすような事は言いたくないけど、お前達を今まで追及してきたのに急にやめるなんて出来っこないから、追及だけはさせてくれ。これはその料金だっていう感じ」
「自分の子供を与える事でマーケットはお金儲けが出来て、子供を出した事でお父さんは大々的に追及を続けられるって事……だよね。今の説明」
「社会問題を解決する為に私財を擲つ事も厭わない人……さぞ民衆からの支持は厚いでしょうね。政治に絡む形で攻撃されるくらいだから結構な権力者よ。だったら、権力に雁字搦めでも不思議はないと思うけど」
子供は無条件に親の一番大切な存在であると思っていた。俺が言うのもおかしいが……誰に言われた訳でもないけど、ただ漠然とそんな風に考えるくらいには常識的な概念だと信じていたのに。
「ていうかそれ、弱みを握られてるよな。マーケットはいつでもニーナのお父さんを娘を売った最低な男って言えるんだぞ。今まで通りの追及なんて……」
「わ、たし。別に、何もされなかったんで、す。大事な商品って言われて……閉じ込められてる以外は、色々お世話してくれて。それで、ルシウス騎士団が、私を買い戻してくれたんです」
横で川箕がパソコンを叩き、俺達に画面を見せた。
「見つけたよ。ルシウス騎士団ってのはゲルヌス・ジェニフィアさんの私兵って所かな。騎士号を賜ってるってより勝手に名乗ってるだけの慈善団体、かな」
「自分の手を介さず買い戻したのか……マーケットも間抜けだな。そんな身近な団体に気づかず売っちゃうなんて……ん?」
ニーナの身体が震えている。前に伸ばした俺の手を痛いくらい握りしめ、息も絶え絶え、どうにも正常には見えなくなってきた。ぬいぐるみを手に取り、彼女に抱きしめさせる。それから布団も少し巻いて、身体を温めた。寒い訳ではないと思うけど、この感触が恐怖を和らげてくれると信じた。
「……騎士団は、お父さんにないしょ、で。私、買ったんです。あ! の人た、ちは! いい人じゃ! な、い。 いいひ、と! じゃ」
「結構ニュースに取り上げられてるけど、身寄りのない子供を引き取ったり、支援したりしてるみたい。後は動物の保護活動とか、結構評判はいいけど……」
「違う! 違う違う違い違い違い違い違います! わた、わたし、は! ああああああ!」
「落ち着け、ニーナ! 俺はここに居る! 居るから! 大丈夫だから!」
抱きしめる以上に安心させる方法なんて、俺は知らない。事情を話してもらうつもりだったが決壊したようにわんわん泣き出してそれどころではなくなってしまった。
「……嫌な思い出があるみたいね」
「正直説明されなくてもある程度察しがつくよ。一緒にお風呂入ったんだ。服に隠された痕を見たら、こんだけ怯えても仕方ないかもなって」
イジメっ子がイジメを悟られないようにぱっと見で見える傷を残さないようにするのは有名すぎる話だ。『顔は止めとけ。殴るならお腹』とか、それくらいは漫画とかでも見るやり取りだろう。
ニーナはその究極系だ。あれはもう、俺だって直視したくない。女性として、いや人間としての尊厳を彼女は徹底的に破壊しつくされた。可愛い声で悲鳴を上げてくれたら嬉しいみたいな変態が、その身体に最悪の恐怖を刻んだのだ。
商品価値とやらを気にするマーケットがやった可能性は限りなく低い。ニーナが庇う可能性もない。壺を買いたくて立ち寄った時に綺麗な壺と落書きだらけの壺のどっちを買いたいと思うかという例えを出せば、答えは多くの場合偏る筈だ。値段が同じなら、謎の好事家でもない限りは綺麗な壺を買うだろう。
ニーナの補聴器を切ってもらって二人にこっそりと説明すると、川箕はみるみる顔色を悪くして、部屋を出て行ってしまった。
「…………話が見えてきたわね。そのあまりにも身勝手な辱めにより、彼女の精神は一度完全に壊れてしまった。そのせいで望んだ反応をしなくなった騎士団がマーケットに不良品として返品。マーケットも彼女の状態をメンタルだけでもどうにかしようとしたけど、自分から両目を潰す始末。手に負えなくなって私達に投げてきたと」
そして今ならニーナを性交の練習台にしろなどと言ってきた発言の真意も分かる。あの人も体を見たのだ。見た上で、それくらいなら使えると提案してきた。商品として。
「……自分達で弄んどいて、勝手に不良品扱いで返品がよく罷り通ったな」
「そういう微妙な力関係の時に駆け引きは起きるものだから、何かあったのでしょう。パソコンにある甲冑姿とも一致するし、これでこの町に現れた謎の騎士達の正体が判明したわね。姫と呼ぶ割には最低な扱いをしていた事も」
「問題は何で今になって探しに来たか、だな」
マーケットから取り戻しに来たというのも変な話だ。不良品として返品したのは向こうだし、マーケットは受け取っただけ。ニーナが治ったなんて誰も言わないだろうし、事実別に治ってないし。
「碌な用事じゃないのは確定だ。やっぱりニーナは渡せないけど、じゃあ何処に渡すか、だよな」
「君が引き取るという選択肢はないのね?」
「ペットだってそんな簡単に決めていいもんじゃないだろ。命には……責任を持たせられるんだ。別にカエルでも昆虫でも何でもいいけど、命を世話するなら無責任なんて良くない事だ。こんな町に居るせいで俺も麻痺してきたけど、やっぱ気軽に引き取るなんて言えないよ。ここは治安が悪いし……俺ですらお前が居てくれるからまともに生きていられるみたいな所もあるんだし」
それに何だか、せこくはないだろうか。ニーナの弱みに付け込んでいるだけというか、俺に依存しているからじゃあ俺が引き取ろうって、彼女の人生の事を考えているとは思えない。それこそ道具扱いというか、要らなくなった家具を引き取ったようなものだ。
川箕が戻ってきた。まだ顔色が悪そうだ。
「ごめん。あんまり惨くてさ……それで、これからどうするっ? ニーナちゃんが何処なら幸せに暮らせるか探す? それとも騎士をやっつける?」
「俺達の手で殺すのは……やだな。血の臭いって取れなさそうだし、それでニーナに一生怯えられると本末転倒だ。大丈夫、あいつらは全員外の人間だ。この町のルールも弁えずに暴れてるのは昨夜の通りだから―――支配者たちに声をかけて追い出すのに手を貸してもらおう。二度と立ち入らせないようにして……ニーナの事は、それからだ。少なくともアイツらがこの町に居る限り、この子は永遠に笑えない」




