見えざる 聞こえざる
川箕の分析が終わるまでどれくらいの時間がかかるかは不明だ。設備が欲しいからと彼女は地下室に引きこもってしまったから様子を見に行くのも何だか……いや、見られて困る物はないらしいけど。
「見えない聞こえない世界って想像もつかないから、どんな風に接するのがいいか分からないな」
「…………そうね。目を瞑っても耳は聞こえるし、耳は塞いでも完全に塞ぐ事は出来ないし、道具を使って両方塞いでも、やっぱりその世界を味わうのは難しいわね」
「心因性の難聴ってどれくらい聞こえないんだ?」
「そんなの人によると思うけど、姫って呼んだら必ず反応するんでしょ? 君の声が聞こえなかったなら、通常の会話は難しいんじゃないかしら」
「……そうか」
見えない、聞こえない。 そんな人間とコミュニケーションを取るにはいよいよ触るしかない。匂いでコミュニケーションが取れないせいだ。人間の構造が悪い。普段透子や川箕に悪戯に触る事を気にしているのとは事情が違う、この子にとっては接触だけが唯一人間を知覚する方法だ。目も耳も聞こえる普通の人だって、後ろから声を懸けられたら驚くだろう。
それと同じ―――いや、それ以上。怖がらせてしまうのは想像に難くない。
「……大丈夫かなあ。触るよって声かけても聞こえないんだろうし」
「……どうせ驚かせてしまうなら柔らかい物を使って触らない? 丁度川箕さんの布団がそこにあるし」
「布団越しに触るのか……まあ直に触れるよりは怖がらせないと信じたいな」
布団で手を覆い、引っ張りながら段ボールの中で泣きじゃくる少女の二の腕をぽんと触る。
「だ、だぁええ!?」
手を引っ込めそうになって、固まった。ここで引っ込んだら俺の方こそ勇気が出なくなる。
「と、透子助けて。どうしよう」
「……自分の声だけは辛うじて聞こえてる程度かしら。ジュード、引いちゃ駄目よ。敵意がないって事を示すの」
「ど、どうやって」
「ずっと動いちゃ駄目。慣れさせるの。物音が何も聞こえていないならこれが初めての接触になるわ。彼女が慣れるまでその世界から逃げないで」
さわ、さわ、さわ。
布団越しに少女が恐る恐る布団を触っている。季節が冬のお陰で羽毛が一杯につまったふかふかの布団だ。次第に触り方が激しくなり、もみくちゃにされる。動けない内に透子は窓際に置いてあった犬のぬいぐるみを布団の中に混ぜた。
「……警戒心、解けた感じする?」
「こ、これ本当に意味あるのか? 警戒はしてない……のかな。やたら触りたがってるけど」
「触覚と感情には密接な繋がりがあるわ。難しい話じゃない、単に柔らかい物に触れると安心するってだけの事。そういう実験記録だってあるのよ。子供は特に……ね」
「俺の手も触られてるけど。布越しに」
「それがいいんじゃない。今、君の手は彼女の世界に存在しているわ。少しずつ慣らしていきましょう」
川箕の私物を勝手に使っている感じは否めないが、後で謝っておこう。続いてゴムボールを混ぜると、また方向性の違う柔らかさに少女はびっくりしたが、掌にとってふにふにと握り始めた。
「…………だ、だぇか、いぅの?」
「い、居るぞ」
しかし少女には聞こえないようだ。意を決して、布団越しにまた体を触る。今度は怖がらなかった。
「…………ここ、どぉこぉ?」
「ここは……安全な場所だよ」
「聞こえないってば」
「うるさい! どうやって伝えればいいか分からないんだよ!」
背中だか掌だかを指でなぞって書き文字を伝えられたらそれでいいのだろうが、それで怖がらせてしまったら元も子もない。発想を変えよう。情報を多く伝えようとするから混乱するんだ。目も耳も聞こえない人に安全な場所だと教えたければ。いや、ここは安全だとさえ分かってほしいならもっと単純に出来る。
布団から手を放し、生地に沿って少女の指先に触れる。体温が、恐らく驚かせてしまったが……少女の方から指を掴んで、それから、掌に触れて。
「……」
抓むという表現すら過剰と思えるくらいに優しく、手を握る。それ以上は何もしない。少女が両手で俺の手を握っても……絶対に動かない。
「俺は敵じゃない。君を助けたいんだ。信じてくれ」
「私は川箕さんの様子を見て来るわね。一段落したら下に降りてきて」
それから、一時間以上。
微動だにしない事を徹底すると俺も中々辛いが、少女は完全に気を許してくれた。少なくとも俺を無害な存在だとは思っているだろう。
「…………お、と、この、ひと?」
「……ああ」
「…………た、すけぇ。おね、ぁい!」
必ず助ける。目を再生する事は不可能かもしれないが、せめてどうにか生きていけるくらいにはしてあげたい。この町から切り離して、静かに暮らせる場所でずっと……
そんな場所、あるのか?
俺を不安にさせたのは姫と呼ばれたこの少女がここにいる経緯だ。見た目からして十歳くらい、身なりは整っていて、髪も特段汚れていない。商品価値を損なわない為にマーケットの方でもある程度手入れをしていたのかもしれないが、それは飽くまで維持であって向上とは思えない。そこまで投資をするなら不良品だからって俺達に流す説明がつかないからだ。
平気で人身売買がまかり取っている現状、この子は外から来た可能性が高い。だがここは腐っても日本だ。かばね町の中は無法でも、外は立派な法治国家。誰が誘拐を?
これもマーケットとは思えない。
『身代金など考えるなよ、一ドルだって貰えないからな』
姫と呼ばれているのに、身代金は当てに出来ない。何よりあの西洋甲冑。外は外でも外国……だろうか。『龍仁一家』は日本が発祥だから『鴉』の仕業か、或いは他の組織か。三大組織が目立つだけで犯罪組織は山ほどあるから、正直対象を絞りようがない。
「……」
何か言っても聞こえないのに、喋る事が出来なかった。助けたいと思ったからこんな事をしているのに。助けてと言われたら……助けられるか分からなくなった。
ガレージに戻ると、透子の姿はなく、川箕だけが残っていた。まだ甲冑には手をつけていないようだが、作業台の上に乗せられている。
「透子は?」
「うん。ちょっと部品を取りに行ってもらってる。手持ちのじゃ全然無理だから。」
「それは、俺の奴のか?」
「いや、そっちとは別だね。ていうかそっちはまだ全然だよ。透子ちゃんに任せた方を優先しないと。だって夏目、助けたいって言ったじゃん!」
義眼、とかだろうか。
実際目が見えても見えなくても義眼の有無は大事だ。年がら年中目隠しで過ごす訳にも行くまい。彼女が普通の生活に戻るにはまず、ぱっと見の外見から治していかないと。
「ところでそっちは気許してもらえた?」
「まあ……多少は。でも交流のしようがないんだ。体に触っただけで、それ以外の進展はない」
「最初はそんなものでしょ。焦らない、焦らない。もう夜になるしご飯用意するねっ。あの子とコミュニケーションを取る数少ない手段だし、頑張らないと! コンビニ弁当で安く済ませたいけど……手料理のが何となく気持ちはいるし、いっか」
「楽しみにしてるよ。しかし俺はする事がないんだな…………この甲冑を代わりに調べるってのも難しいし、どうしよう」
「テレビでも見てなよ、別に休むなとは言ってないじゃん」
「透子もお前も仕事してるのに、俺だけ休むのは……」
「じゃあ命令! 休め!」
「い、いえっさー……」
釈然としない。
今日の俺はデートをしただけだ。それがまるで大仕事を終えたような扱いを受けていて納得出来ない。手を動かしていたら働いた気になるというのもおかしな話だが、けどそれにしたってこれは。
「あ、川箕。その、マッサージとか……」
「それは、後で! えへへ、楽しみは後に取っておかないとねー! その為に頑張ってるみたいなとこあるしっ」
そこまで言われたら完全敗北だ。最早何も言い返す事は出来ない。大人しくベッドに戻ってテレビでも見ていようか。
―――かばね町の外は平和その物だ。
最早別世界、芸能人が食べ歩いてリポートをするなんてこの町じゃ考えられない。活き活きしているのは当然ながら向こうだ。デパートでもその片鱗は感じられたけど、やっぱりここは屍の町。
ただ、未練はない。
後ろ髪引かれる思いが最初の頃に無かったと言えば嘘になる。けれどもう、俺はジュードだ。この町で生きる屍の一人。ゆっくり過ごせたらなんて、馬鹿馬鹿しい。俺はここがいいんだ。
チャンネルを切り替えると、かばね町―――近光町を特集する番組が珍しくやっていた。意外と治安のいい町だとアピールしたいようで、実際町に住む人として出演した人間は羽振りの良さそうな小太りの男性だった。多分、誰かに命じられているのだろう。そしてマスコミと示し合わせている訳だ。
以前はテレビのカット割りなんて考えもしなかったが、この町で少し暮らすだけでも分かるような醜さから頑なに目を背け続けている。死体はないし、犯罪は起きていないし、ゴミも落ちていない(三大組織の支配が及びにくい所ほどゴミが落ちているのに)。
全て偽りだ。何もかも、腐っている。
政治を語る番組も嘘ばかりだ。国の治安や犯罪率増加を嘆いているのに頑なにこの町に目を向けない。全ての犯罪の温床は言い過ぎでも、今となっては大抵この町の誰かが関わる犯罪ばかりだろうに。
だってこの町に居れば警察に取り締まられないのだ。犯罪をしたいなら誰だってここを選ぶ。ここ以外はきちんと捕まってしまうし。そうだ、ここは無法の楽園。警察がいようが市長がいようがお構いなし。日本で活動したいならまずこの町に居を構える所からで―――
なんで、かばね町って出来たんだ?




