災害と呼ばれた男
単なる人間と変わりない。キョウはそう言ったが本当にそうだろうか。水銀に曝露された事でどんな影響があるかなんて知識もない俺には想像もつかないが、水銀が毒物である事は理解している。毒とは物質その物というよりも、量だ。致死量という概念くらいは素人でも聞いた事があるだろう。無毒な物体でもその量次第では有毒になる。逆も然り。水銀と言われれば真っ先に毒か温度計かと思うくらいにはそのイメージがあるから、ジャックの身体が何処まで侵されているのかは想像したくもならない。当然、とてつもない量を吸入しているだろう。
そんな俺の不安を一笑に付すように、ジャックの動きは警戒だった。ただの人間にしてはあまりに機敏で、身体が麻痺している事も物ともせずキョウの懐まで肉薄していた。防御的な槍捌きも彼には動きが見えているようで、俺と比べて遥かに翻弄されていない。
「災害が揃いも揃って素人でないのは意外でしたね。何処に武術の需要があったのですか?」
「トウコに勝つ為には小細工が必要だったんでな!」
拳を出せども遠ざかっていたキョウの身体が着実に近づいている。そしてその槍の意識はジャックの攻撃に集中しており、俺に対する警戒は最低限だ。二人の攻防の隙間―――透子の力があればハッキリと見える。
「らあああああああ!」
「っ!?」
即頭部を撃ち抜く蹴りが遂に彼女の身体を捉えた。槍が間に入って威力を殺されたが、災害の力の前では多少の減衰などあってないに等しい。元々半壊していたホテルの壁をぶち抜き、更に向こう側の建物もぶち抜き。大通りを通っていた車を巻き込む形でキョウは遥か彼方まで吹き飛ばされる、
「仕留められるぞ!」
「馬鹿野郎、引くぞ」
「はあ!? タッグマッチってお前が言ったのにか!?」
「あんなもん、アイツを油断させるための嘘に決まってんだろ。 タッグマッチ? 冗談じゃない、俺が死んだらアンタは力を制御出来ねえぞ。子供を守ってんだろ。もう二度と触れなくなってもいいなら構わないが……そんな、トウコみたいにはなりたくねえだろ」
「……そんなに辛いのか?」
「とりまアジトに帰ったら水銀を摘出しないといけないな。じゃなきゃ俺はいつまで経っても人間のままだ。今は再生能力もないし、元々クソみたいな残りカスの状態だったが今はそれ以上だしな。まともに戦える状態じゃねえ」
今、身体を刻んで摘出すれば。そんな言葉が出かかって、呑み込んだ。この身体になって俺も随分時間が経ってしまった。時間とは年月ではなく体感だ。一旦身体を破壊して内容物を無理やり出してしまえばいいなんて人間の発想じゃない。災害となった期間はまだ半年にも満たないが、精神的な人間性がどんどん剥離していくのを自分でも感じてしまった。
「いやでも、俺はまだ帰れないよ! 川箕が水中の何処かに居るんだ! 助けるまでは!」
「俺が遅れてやってきたのは断じてかっこつけじゃないぞ。その無線機でボスにかけてみろ」
「えっ」
言われるがまま、無線機を使ってメーアに電話をかける。不安に思う暇もなく繋がり、ただ一言。用件を聞く前に。
『海中に沈められたコンテナを丁度回収したところだ。不安要素は既に排除してやったぞ! 偉大なる私に祈りを捧げ、ひれ伏せ!』
―――!
体内のありとあらゆる感覚を狂わせていた焦燥が取り払われていく。体にガタが来たかのように崩れ落ちたが、違う。これは単に……安心して。安心しただけで。
「…………ぅ、う。う……よかっ……た」
「おい、大丈夫か?」
「かわみ…………よかっ。死なずにすん………で、う、うぅ……!」
「……あまり口を挟みたくないが、ここは家でも拠点でもないぞ。早く離脱の準備をし―――」
バンバンバン!
乾いた銃声が安堵して緩んでいた心を引き締まらせる。顔を上げた時には時既に遅く、ジャックの身体に何か所もの風穴が空いていた。
「―――ジャック!」
警察の包囲網。そうだ、キョウがここに来るついでに呼んだのだろう。ついさっきその走行音を聞きつけていたのにどうして忘れていた。答えは一つ、この身体の前では銃弾など取るに足らない武器だからだ。身体が強靭すぎるせいで、あらゆる危険信号が鈍ってしまっている。
―――果たしてその例外は、この瞬間のみ打ち破られていて。
ジャックは、抵抗一つ許されないままその場に倒れた。結果的には庇ったように見えるだけで事実はもっと明快だ。普通の人間に銃弾は避けられない。
「おい、しっかりしろ! おい!」
「――――――」
こうして呼び掛けている間にも包囲網を狭めた警察が法律など忘れてしまったように乱射し、俺の動きを間接的に止めている。一人で逃げるのは簡単だ。だがここで逃げたらジャックはハチの巣にされてしまう。俺のせいだ。川箕が助かった事に安心して隙を見せたから。
「……あー、お兄さん。聞こえる?」
「……ティルナさん? そういえばさっきから全然喋ってなかったですけど。なんですか!?」
「ヒルダも私も避難完了。後はお兄さんだけだよ。それだけ」
「……そ、そうか! じゃあ、後は俺だけ……俺、だけ」
ジャックに視線を落とす。仲は良くないし馬は合わないかもしれないがこいつを死なせたくない。同じ話だ。俺が殺しに手を染めれば透子に顔向けできないだろうと彼は言った。しかし彼を見捨てても、俺は顔向けできない。一体どんな顔をして報告すればいい。『君に会う為に幼馴染を見殺しにした』と?
―――どうすればいいんだ。
警察を皆殺しにするのは簡単だ。だが透子と違い、銃弾が一発でも彼の身体を貫く前にそれを終えるのは不可能だ。ジャックを殺さない為にはこうして延々と壁になる事しか出来ない。弾切れまで待つのが現実的だろう。そう考え意を決そうとした刹那、背後から爆発音が聞こえる。そのせいか、銃弾の雨が不意に止んだ。
「えっ」
振り返ると、下着姿の上からコートを羽織ったティカが包囲網の反対側からしこたま手榴弾を投げ込んでいた。
「鴉の名の下に正義を執行するぅ~! あたいと射撃の腕で競いたいって奴は何処っすか!? 居るなら正々堂々名乗りを上げてくれりゃ、爆殺してやるッスよ!」
「ティカ!」
暗くて分かりづらいが、彼女は視線で『早く行け』と合図してくれている。警察も俺を釘付けにしながらティカに対応するのは難しいようで、足を止めていた幾らかの銃弾が外側へと向いた。今なら確かに逃げられる。だがティカは……いや、信じるしかない!
体温を喪いつつあるジャックの身体を担ぎ、手薄になった方向ヘと駆けだした。飛び上がって逃げるのは駄目だ、かかる重力や風圧が瀕死の身体にトドメを刺してしまいかねない。行く場所は一つ。海の中。
「うおおおおおおおおおおおおおお!」
海中の川箕を回収したというからには、メーアは船を出しているに違いない。その船を探し、飛び込めばいい。係留杭を足掛かりに跳躍し、闇の揺蕩う水面に目を凝らし、船を探した。
船は。メーアは。
ない。
水の中に飛び込んだその感覚を、俺は決して忘れないだろう。ジャックの身体に負担を与えないように抱きしめて海中深くへと沈んでいった。高所から水面に叩きつけられて怪我人が無事で済む道理はない。俺の身体が多少壊れるのとは天秤にかけるのもおこがましい。
血の比重が高いのだろうが、身体が浮き上がる事はついぞなかった。何処までもどこまでも深く、暗く、海の底へと沈んでいく。カナヅチなんてモンじゃない。泳ごうとしても泳げない。溺死する事はあり得ないから沈んだところで無問題なのだろうが今は状況が違う。泳ぐのではなく水を押しのけて無理やり浮上しないとジャックが死ぬ。
しかしもう光が届かない。俺の身体にはまだ人間らしい部分も残されており、光が届かなければそれだけ視界も悪化するという点はその一つだ。どれだけ視力が上がろうとその弱点は変わらない。地上はどれくらい上にあるだろう。それすら目測で測れない程度には潜り過ぎた。
「―――――――」
ジャックはもうずっと動かない。元々ないに等しかった体温をさらに奪われ酷く冷たくなっている。冷えた鉄を触っているみたいに無機質で、これを生きているとは到底思えない。でもまだ、確定はしていない。せめて地上で死亡確認をするまでは。
泡が、近づいてくる。
手を伸ばすと確かに取られ、二人揃って優しく抱きしめられる。ソイツはそのまま俺達を抱えて、人魚のように軽やかに、地上めがけて泳いでいく。誰がそんな真似を出来る。誰がここまで正確に位置を割り出せる。
答えは、『鴉』が教えてくれた。
『よく頑張った。後は私に任せておけ。貴様らには偉大なる私の加護がついているからな』
水面に浮かぶ巨大な潜水艦。メーア・スケルコは水を吸った俺達を引っ張り上げると、甲板の上に転がしながら慈しむようにそう言った。




