19、過去に思いを馳せました Ⅲ
「いやぁそれにしても、よく来たな誠!ぜんぜん来ねぇから奥さんに絞め殺されたんじゃねえかって思ってたぜ!」
「おいおい、いくらお前でもさすがにそれはシャレになってないぞ……」
「もう雅雪さんったら、私はそんなことしないわよ……誠さんと家族には、ね……」
「最後に不穏な言葉が付いてこなければ俺だってそう思いてぇんだがな!」
ここは黒い建物の中にあるだだっ広い空間……たぶん客間か何かなんだと思う。イメージとしては、泉の真ん中にある小島、というところだろうか。なにせテーブルから離れて少しだけ歩けば、魚の泳ぐ澄み切った水中が見えるくらいなのだから。
そのおかげか、室内は少しばかり涼しげで、夏とは思えないほどの快適さだ。
いいなぁこの部屋、目が覚めたら僕の屋敷にも作ってみようかな?
「ね、ねぇ海斗、あの面倒くさそうな人、誰?」
この部屋の涼しさに当てられて、ようやく完全に目が覚めたらしい姉さんが、水辺に足をつけて涼んでいた僕の耳元に小声でそう囁いてきた。
ちなみに志穂は、水に落ちて溺れてしまうかもしれないという理由で、母さんの隣でお菓子を貪っている。両手いっぱいにお菓子を抱えてご満悦な様子で、兄としてはその様子が可愛くて仕方ないよ。
あ、あくまで兄として、妹の成長がうれしいだけだからね!別に妹を危ない目で見るシスコンとはわけが違うんだから!
……オーケー自分、一旦落ち着こうじゃないか。こういうときこそ冷静になることが大切だって、じいちゃんも言っていたじゃないか。
と、昔の僕が何か言おうとしているみたいだ。
幼い僕はパシャパシャと水面を蹴るのをやめ、怪訝な顔をする姉さんにそっと耳打ちする。
「(あの人は雅雪おじさん。ちょっと変な人だけど、とっても楽しい人なんだよ!)」
「(そうなの?なんだか格好も変だし、片目隠したりして……でも、海斗がそう言うなら、きっとそれが正しいのよね!)」
あっけなく警戒を解いた姉さんは、僕の隣に座り同じように水に足をつけた。子供ながらに美脚と有名な姉さんの足が、水面を蹴り上げ、魚たちを驚かせる。
人一倍警戒心が高いくせに、僕の一言でころっと考えが変わってしまう姉さん。今思えば、かなり危険なことでもあると思う。なにせどんなに危険な事でも、僕が『大丈夫、安全だよ』と言えば姉さんは従ってしまう。どんなに苦しいことでも、僕が『とっても楽しいことだよ』といえば姉さんは自ら自分を貶める……そういうことなんだから。
たぶん現在の姉さんならその程度で安全の有無がわからなくなるようなことにはならないだろうけど……むやみやたらに危ない冗談を言うのは今後も止したほうがよさそうだ。
そんなことを、水面を足でかき混ぜる少年と少女を見ながら思っていると、部屋の入り口からなにやら足音が二人分。
「旦那様~、こんなところにいらしたのですね」
「あ、お父様いた!」
入り口の影から出てきたのは、見事な金髪を携えた小柄な女性と、その女性の後ろに引っ付いて歩く金髪と黒髪の少女。様子からしてどうやら親子のようだけど……あの少女のほうはなんだか見覚えが―――
「お、きたきた♪」
二人の声を聞いて一番に反応したのは、先ほどからずっと母さんたちと昔話に花を咲かせていた雅雪さん。いきなり椅子から立ち上がったと思ったら、その二人のところへ駆け寄った。
女性のほうもとても嬉しそうな表情を浮かべ、少女に至ってはその場でぴょんぴょんと跳ねて喜びを全身で表現している。
そして雅雪さんは女性のほうを強く、それでいて優しく抱きしめ、少女のほうを肩の上にひょこっと乗せた。抱きしめられた女性は本当に幸せそうに雅雪さんを抱き返し、肩の乗せられた少女は雅雪さんの髪の毛をわしゃわしゃと撫でまわす。
あそこまでの流れ……なかなかに手馴れているなぁ。特に雅雪さんの動きは、まるでこれだけに特化しているっていうくらい洗練されていたし。
いきなりのことに新井家の面々はその光景を目の当たりにしてただただ呆然とするだけ。声すらも発せず、他人の家族の平和な光景を眺めているだけだった。
「あぁもう本当に二人とも可愛いなぁ!」
「私も、旦那様がかっこよくてたまらなくなりますわぁ」
「わたしも、お父様のこと大好きだよ!」
あぁもうなんなんだろうかあの甘ったるい空間は。見てるこっちのほうが砂糖を吐きそうになるよ。
父さんも同じことを思ったのか、苦笑いしつつ、少しだけ口元を押さえていた。父さんも、あまり他人の恋愛事情に強くなかったんだよね、たしか。そういうところ、僕らは父子なんだなと思うよ。
それとは反対に、母さんや姉さんはその光景に対し羨望の眼差しを向けていた。それと同時に、母さんの視線は父さんに、姉さんの視線は幼い僕に向けられている。その目はまるで獲物を狙う猛禽類がごとく、鋭く、欲にまみれたドロリとした視線だった。
もし今の僕に夢に干渉できる力があるならば、僕はまず昔の僕を救いたい。具体的には蛇のように忍び寄る姉さんの魔の手から守りたい。
父さんのほうは……あぁ、もう手遅れのようだ。母さんに捕まったようで、今は母さんの豊満な胸の中に顔を無理やり埋めさせられているようだ。
あ、父さんが母さんの腕をタップしてる。胸がありすぎて窒息しかけているって、ある意味男冥利に尽きるのかもしれないけど……今の父さんの状況はまったくもって羨ましくないから不思議だ。
ごめん父さん、今の僕じゃ父さんを救うことはできそうにないよ。昔の僕も、姉さんに体を弄られてくすぐったがっているから、とてもじゃないけど父さんの救援になんていけそうにないし。
そんな状況でも、我が妹だけはテーブルに乗ったお菓子を黙々と食べている。さすがにまだ幼いからだろう、花より団子……恋愛事よりお菓子と言ったところだろうか。こんな混沌とした状況下でも平然としているのがある意味恐くもあるけど……
「おい誠、見てくれよ俺の愛しき天使たちを!……って、何遊んでるんだお前ら?」
黒と金の少女を肩車したまま、雅雪さんはテーブルのある小島のほうまで戻ってきた。しかし先ほどとは違う混沌とした状況に少しだけ顔をしかめた。
その後ろからついて来ていた女性は思わず顔を赤くし、少女のほうは何をしているのかわからないという様子で首を傾げる。
「ぶはっ……お前にはこれが遊んでいるように見えるのか?」
あ、父さんが母さんのホールド地獄から抜け出した。僕も何度かされたことがあるけど、あれってかなり抜け出すのが難しいんだよね。おまけに父さんの場合、僕ら姉兄妹と違って顔を谷間に埋められるから、呼吸困難とも合わさって抜け出すのは至難の業……とは父さんの金言。
苦々しげな表情で雅雪さんを睨み付ける父さん、それに対して雅雪さんは飄々とした態度で、
「いんや、いつもどおりに見えた」
そう一言だけ言った。
その言葉に父さんは恨めしげな顔つきから一変、愉快そうにはにかんで見せた。苦笑い混じりなのは変わりないが、どこか楽しげなその顔に僕は疑問を覚えざるを得なかった。
笑い合う二人の間に、親しい間柄でしか流れない、独特の空気が流れる。
その状況を快く思わない母さんは、父さんの顔を自身の胸に埋めこそしなかったものの、さらに父さんの体を強く抱きしめた。絶対に渡さないと言わんばかりに強く抱きしめているせいで、父さんの体からボキベキッと鳴ってはいけない音が奏でられてしまっている。
雅雪さんの後ろに控えていた金髪の女性も、不満げに雅雪さんの体をポスポスと叩く。しかし母さんのときとは違い、明らかに手加減がされたそれは、むしろ見ていて微笑ましさすら感じるほどだ。
そんな対極の状態でも、二人の顔色は幸せ色に満ちていた。『なんだか知らないけど妻がヤキモチ焼いてて可愛い』とでも言わんばかりのニヤケ顔だ。
雅雪さんはともかく、父さんまで同じ表情ということに、僕は言いようのない不安を感じる。もしかして父さんはどこか抜け落ちてはいけないところが抜けて崩れ落ちてしまっているのではないのかというような、なんとも表現しにくい憤りを。
「さて、と。それじゃあ改めて紹介しようじゃないか。この二人こそ、俺の奥さんと娘であり、俺の天使でもあるサリーとサクヤだ!」
ようやく動きがあったと思えば、雅雪さんは娘を胸の前で抱き上げ、奥さんの肩を抱いて大声で叫んだ。その声に驚き、幼い僕と姉さんは一緒になって泉に落ちそうになり、父さんと母さんは再び呆れた表情を浮かべた。
そんな状況でも、やはり志穂だけは一心不乱にお菓子を食べ続けている。果たしてそれはただ単に幼すぎて状況を理解できないだけなのか、それともすべてを理解した上で食べ続けているのか、僕にはわからない。兄として、どうか前者であることを強く強く願うよ。
そんなのでもお構いなしという体で、雅雪さんは抱いていたロリ巨乳の女性をちらりと見る。それを見た女性のほうもコクリと頷き、しずしずと前へ出て丁寧にお辞儀をした。
「皆様お久しぶりにございます。旦那様……マサユキ様の妻、サリー・パナムでございます」
とても丁寧な自己紹介に、夢越しに見ている僕でさえ思わず背筋を伸ばしてしまった。柔らかい笑顔と物腰なのが、別に他人行儀ではないという事実を伝えてくれるからまだいいけど……
「ふふっ、相変わらず親友や夫に対しても全力の低姿勢ね。昔と変わってなくて、私としてはホッとするというか、ちょっと残念というか……」
「久しぶりサリー。その様子だと、毎日楽しくやっているみたいだね」
そんなサリーさんに対して母さんも父さんも親しみを込めて返事をする。どうやらただの知り合い……という間柄ではなさそうだ。雅雪さんとの関係からして、おそらく昔からの馴染みということなのだろう。母さんが何に対して残念がっているのかはわからないけど。
少し違う二人の返事に対し、サリーさんは声こそ発しはしなかったものの、とても柔らかな、まるでふんわりとしたマシュマロのような笑みを浮かべて返事に代えた。
雰囲気的に母さんに近いところがあるけれど、どちらかと言うと孝の専属メイドであるイリアに近いかもしれない。常に下から目線だけど、卑屈なわけではなく、完璧に人に尽くすタイプ……という感じだろうか。
「それからこっちが……ほら、皆さんに自己紹介しなさい」
サリーさんの再会の挨拶が無事済んだと踏んだ雅雪さんは、今度は肩の乗っかっていた女の子をそっと下ろして正面に立たせた。優しい声色ながら、その口調はやはり父親然としていてなかなか様になっていた。
一方、いきなり僕らの前に立たされた少女はというと、緊張からか顔を真っ赤にしてただあわあわとしている。見た目はかなり幼いし、人見知りも年相応にするということかな?
「…お…おとうさまぁ」
あ、雅雪さんの背中に隠れちゃった。マントをぎゅっと握り締めて離れなそうにない。
雅雪さんも可愛さ半分、呆れ半分という感じで「なはは…」と笑う。ああなってしまったら、子供というのは頑なになってしまうということを知っているのだろう。
「悪いな、娘はまだあまり他人と接する機会がなくてな、人見知りが激しいんだ」
後ろ手に娘の頭を撫でながら、雅雪さんは父さんに向かってそう言った。
その言葉を皮切りに、それなら仕方ないという雰囲気があたりに漂う。父さんも母さんも、姉さんまでもが残念そうにしつつも、しょうがないかというような態度を出している。
(……ま、無理してまで聞くようなことでもないし、いいの……か……な?)
夢を見ている僕自身が妥協しようとしたそのとき、僕は思わず言葉を失ってしまった。
なんと、幼い僕がすたすたと少女のところへと歩み寄っているではないか!
何やってるの昔の僕!その子はさっき人見知りだって、雅雪さんが言っていただろう!なんでそんな躊躇なく近づいていっているのさ!
そんなことを叫んでも、当然夢の中の僕に通じるわけもなく、幼い僕は少女のすぐ近くまで近づいていった。
いきなり近づいてきた僕に対し、少女のほうはビクッと体を震わせ、明らかに怯えている。
父さんや母さんたちも僕の行動に「え……」と気の抜けた声を発するのみで、完全に不意を食らっている。姉さんに関してはもはやショックで失神仕掛けてるし……誰か、誰か昔の僕を止めて!
「ねぇ」
見た目より少し高い、小さいときの僕の声が水面と室内を反響する。
声を掛けられた張本人である少女は、もう軽くパニックになっているのか目尻に涙まで浮かべてしまっている。
まずい……昔の僕、本当に何やってるんだ!?
僕は昔の僕の上あたりでわたわたとするしかできない。頼む、まだ間に合うから変な事をしないでくれ!
幼い僕はすっと手を少女のほうへ差し出す。そして口を動かす。
―――僕の名前は海斗。君の名前は?
このとき、僕は初めて他人の視点から自分の能力を見ることとなった。
みなさんお待たせしました!定期考査も終わり、なんとか再開することができました!
とは言っても、また一ヵ月後には第二回目があるので一週間くらいしか猶予はありませんが……それまでに2、3話かけたらいいかなと思っています。
では、これより投稿再開します!




