エピソード 3ー5 そのとき、普通の女の子が降臨した
貴族達が集まる夜会。社交界のパーティー会場にある一角で、どうしてこうなった! と、ジュノー辺境伯は心の中で絶叫した。
娘に恥を掻かせた平民の娘がいる。そんな噂を耳にしたジュノー辺境伯が事態の収拾に走った結果、なぜか自分が窮地に立たされることになってしまったからだ。
そもそもの発端は、フローレン子爵からもたらされた情報。娘のセラフィナが平民の少女と決闘をおこない、完膚なきまでに敗北したという情報だった。
ジュノー辺境伯は、ウィークヘイム国の国境を任される武闘派の貴族であり、平民の娘に敗北するなど恥ずべきこと――と怒り狂った訳ではない。
ラシェルの学校に集まる平民は、金持ちの子供か――もしくは貴族にその優秀さを認められた子供が大半。セラフィナに勝る少女がいても、なんら不思議ではない。
だから、問題はその後だ。敗北を認めて相手の技術を賞賛したセラフィナに対し、相手の少女はセラフィナを侮辱するような発言をしたという。
それは当人同士だけの問題ではない。セラフィナの実家であるジュノー辺境伯と、少女の後ろ盾となっている貴族との問題にも発展しかねない。
だから、ジュノー辺境伯はラシェルの学校に手を回した後、社交界の場で少女の後ろ盾となっているシャーロットにそれとなく釘を刺した。
その平民がいくら優秀でも、他の貴族と問題を起こすようではウォーレン伯爵家の恥になる。ゆえに、早々に学校から引き上げさせた方が良い――と。
本来であれば、それで丸く収まるはずだった。
けれど――シャーロットはわずかな迷いもなく言い放ったのだ。「リスティアがそのようなことをするはずがありません。その話はなにかの間違いですわ」と。
ジュノー辺境伯にとっては、その時点で予想外だった。
ジュノー辺境伯の話を頭ごなしに否定し、娘を信じるような発言をして見せた。それはつまり、ジュノー辺境伯よりも、そのリスティアという平民の娘を信用していると言うこと。
そんな風に言われてしまえば、ジュノー辺境伯とて後には引けなくなってしまう。
しかし、シャーロットはまだ若い。いや、幼いと言っても過言ではない。ならば、お気に入りの娘の欠点を指摘され、感情的になってしまうのも分かる。ジュノー辺境伯は、シャーロットの隣にいた、ウォーレン伯爵の取りなしを期待したのだが――
「リスティア嬢のことは娘から聞いている。ジュノー辺境伯が嘘を申しているとは思わんが、そのようなことをする娘でないことも事実だ。誰かに謀られたのではないか?」
信じられないことに、ウォーレン伯爵当主までもが、シャーロットの――いや、そのリスティアという娘の味方を始めたのだ。
ジュノー辺境伯は国境に領地を持つがゆえに兵も多く抱えており、他の伯爵よりも中央への影響力を持っている。
しかし、ウォーレン伯爵家は最近、至高のアイスクリームなるデザートを国王に献上し、覚えもめでたいと聞く。決して軽んじて良い相手ではないのだが……ジュノー辺境伯達のやりとりは、いつの間にか周囲の注目を集めてしまっていた。
このまま引き下がれば、事実がどうであれ、ジュノー辺境伯は誰かの虚言を信じたばかりか、ウォーレン伯爵に言い負かされた愚か者と笑いものにされてしまう。
どうするべきか。どうするのが正しいのか。そうして葛藤している内に事態が急変した。ウォルター公爵が、ジュノー辺境伯達のいるテーブルに姿を現したからだ。
ウォルター公爵はもともと、国内で一位二位を争う大貴族である。そのうえ、隣国との和平を結ぶ、その担い手としての役目を国王より任された。
ウォルター公爵の娘と、隣国の王族の婚姻。二人の行く末に、ウォルター公爵家の興廃が掛かっているといても過言ではない。
だが、隣国にはいまだに根強い戦争推進派がおり、婚姻は難しいというのがおおよその予想であった。ゆえに、ウォルター公爵家の発言力は落ち始めていたのだが……ウォルター公爵は、先日のオークションで神のごときエンチャント品を落札したという。
そのブローチがあれば、ウォルター公爵の娘が謀殺される可能性は低い。それが理由で、ウォルター公爵の影響力は以前よりも向上している。
もはや、彼に対抗できる貴族はこの国には存在しない。ジュノー辺境伯は皆と同じように、ウォルター公爵に恭しく頭を下げた。
「ジュノー辺境伯よ、久しいな」
「はい。ウォルター公爵におかれましては、益々ご清栄のこととお慶び申し上げます」
形式張った挨拶は恭順の意を表してのこと。だが、同時に助かったとも思っていた。ウォルター公爵が現れれば、先ほどの話はうやむやになると、そう思っていたからだ。
けれど――周囲がざわめきはじめた。なにごとかと顔を上げると、ウォルター公爵の背後より、一人の娘が――いや、天使が降臨したからだ。
長い黒髪は艶やかで、シャンデリアの光を受けて輝いている。天使のように見えたのは、その反射する光が輪っか状になっていたからだ。
いや、その少女の美しさは髪だけの話ではない。艶やかな髪に縁取られる小顔には、計算し尽くされたかのように、整ったパーツが収められている。貴族の中でも滅多に見ないレベルの美少女だが、身につけているドレスがまた凄まじい。
艶やかな髪にも負けぬ光沢を持つ生地で作られたドレスは、ジュノー辺境伯が見たこともないほど洗練されたデザインで、少女の美しさを見事に引き立てている。
娘と同世代の少女に見惚れるなどと、魅了の魔法でも掛けられたのだろうかと疑うが、視線だけで周囲を見ればば、他の貴族も同じような反応をしていた。
彼女は何者なのかと考えていると、ウォルター公爵が「彼女は私が後ろ盾となっている、普通の女の子だ」と紹介をした。そして、それを受けた少女は、まさしく天使のような微笑み浮かべてカーテシーをして見せる。
普通の女の子というニュアンスがいまいち分からないが、平民の娘という意味だろう。つまりは、才能ある平民の娘に教育を施し、夜会でお披露目するために連れてきた。
シャーロットが後ろ盾になっていると言うリスティアという娘のように、性格に難がある場合は問題だが、これほどの娘であれば夜会に連れてくるのも頷ける。
ゆくゆくは養子にして、どこかに嫁がせるといった話も考えられる。ジュノー辺境伯自身も、出来れば次期当主である自分の息子にと思ったほどである。
だが、そんなことを考えていられたのは、その娘が自己紹介をするまでだった。
「お初にお目にかかります。あたしは普通の女の子、リスティアと申します」
少女が天使のような音色で口にしたのは、リスティアという名前。
それはつい先ほど、シャーロットが後ろ盾になっていると聞かされた――娘に恥を掻かせた相手だと、ジュノー辺境伯が難癖を付けた平民と同じ名前である。
ウォルター公爵がこのタイミングで姿を現したのは偶然ではない――と、それを察することが出来ないほど愚かではない。
ジュノー辺境伯は、自分の顔が蒼白になるのを自覚した。
「ときにジュノー辺境伯に尋ねたいことがあるのだが」
「……なんなりとお聞きください」
もはや従うほかに道はないと、ジュノー辺境伯は服従の姿勢を見せる。
「平民ごときと蔑む貴族の手を振り払うは、平民には許されざることだと思うか?」
その質問に、ジュノー辺境伯は目を見開いた。
いまのウォルター公爵の一言が意味するのは、セラフィナがリスティアを平民の娘だと蔑んだ結果、リスティアがセラフィナの手を振り払ったと言うこと。
セラフィナがそのようなことをするとは思えない。しかし、ウォルター公爵が嘘を言っているとも思えない。いや、たとえ嘘だったとしても、ここで反論など出来るはずもない。
ウォルター公爵もそれが分かっているから、セラフィナとリスティアの話ではなく、例え話として口にした。つまり、ここで言及するつもりはないと言うこと。
であれば――
「そのような貴族であれば、手を振り払われたとしても文句は言えないでしょう」
ジュノー辺境伯に出来るのは、事実を口にすることだけだった。
◇◇◇
「どうしてこんなことに……」
セラフィナは学校の廊下をとぼとぼと歩いていた。
王都で開かれた社交界のパーティーで、ジュノー辺境伯がウォルター公爵の秘蔵っ子であるリスティアに難癖を付け、怒りを買ったという噂が貴族のあいだで広がってしまった。
当然、貴族のクラスでもその話で持ちきりだ。
そして、セラフィナとリスティアの一件は周知のことだったので、原因がセラフィナにあることも瞬時に広がった。
その結果、ウォルター公爵やウォーレン伯爵を敵に回すことを嫌った生徒達が、一斉にセラフィナの側から離れて行ってしまった。それどころか、廊下を一人で歩くセラフィナを露骨に避ける生徒や、遠目にひそひそと話す生徒までいる。
セラフィナはいまや、この学校で完全に孤立していた。
けれど、セラフィナがなにより落ち込んでいるのは、『セラフィナがリスティアに難癖を付けた』という部分だった。
セラフィナは、リスティアの実力に惚れ込んでいたし、自分の手を振り払った理由に関しても納得している。それどころか、平民を蔑む発言をしたドロシーに、同調するような行動をとってしまったことを恥じている。
だからこそ、友人のために貴族の娘の手を振り払ったリスティアに強い憧れを抱いた。
――自分の手を振り払ったことを後悔させてみせる。その言葉は、リスティアがセラフィナを認めてくれるように、自身を高めてみせると宣言した――つもりだったのだ。
それがなぜか、学校内ではリスティアとセラフィナが敵対しているかのように噂され、否定できぬうちに、夜会での一件にまで発展。いつのまにか、セラフィナはリスティアに嫌がらせをして、ウォルター公爵を怒らせた愚かな娘と噂されている。
こんな状態では、リスティアに認めてもらうなんて夢のまた夢だ。
「……はあ、どうしてこんなことに」
セラフィナは、もはや何度目か分からないため息をついた。
ジュノー辺境伯がセラフィナに確認していれば、こんなことにだけはならなかった。
けれど、フローレン子爵から話を聞き、セラフィナに負担を掛けないように秘密裏に解決しようとしたと聞かされては、文句を言うことなんて出来ない。
セラフィナは誤解されがちだが、基本的には優しい心の持ち主だ。
ただ、辺境伯の娘として、強くあらねばいけない。そんなプレッシャーに晒されながらも頑張っている。ただそれだけの、まだ十六歳の女の子である。
そんなセラフィナが、初めて尊敬できると思った女の子には嫌われ、友人だと思っていた者達にはそっぽを向かれてしまった。
これまでに築き上げた自分という存在が、足下から崩れ去っていく。今回の一件は本当にショックで、セラフィナはしょんぼりとしていた。
「リスティアお姉ちゃん……」
どうすれば誤解を解くことが出来るのかしら――と、廊下を歩きながら考える。
セラフィナは自分に非があると認めているので、頭を下げることに躊躇いはない。けれど、家の権力を使って圧力を掛け、さらなる権力にねじ伏せられた。
そんな状況で頭を下げても、誠意ある謝罪とは思ってもらえないだろう。
どうすれば分かってもらえるだろう――と、思いを巡らせたセラフィナは、懐に忍ばせている短刀に指を這わせた。
その短刀は、女としての尊厳を護るためにと、セラフィナが母にもらった、いわゆる自害用の刃だが――別に自害しようと思った訳ではない。
リスティアの前で、女の命とも言える髪を切り捨てて見せたら、誠意を認めてもらえるだろうか? なんてことを考えていたのだ。
だけど、その案が検討されることはなかった。考えごとをするセラフィナの前に、女の子が立ちはだかったからだ。
誰だろうと顔を上げると、そこにはセラフィナ同様に落ち込んだ様子のドロシーがいた。
「……ドロシー?」
どうかしたのと手を伸ばそうとして、その手をもう片方の手で引き戻した。いまのセラフィナは、大貴族を敵に回した愚か者で、かかわったらとばっちりを食らうと避けられている。
ドロシーにまで拒絶させたら立ち直れない。そんな風に恐くなってしまったのだ。
だけど――
「セラフィナ様、ごめんなさいっ!」
ドロシーがウェーブの掛かった金髪を振り乱し、セラフィナの胸に飛び込んできた。それをセラフィナは慌てて抱き留めた。
「ド、ドロシー? どうしたの?」
「あたくしのせいで、セラフィナ様がこんなことに。本当にごめんなさい!」
セラフィナにしがみついて、ごめんなさいと繰り返す。ドロシーはどうやら、今回の一件の発端となってしまったことを気にしているらしい。
「大丈夫よ。ドロシーの責任じゃないわ」
セラフィナが背中を優しく撫でつけた。その直後、ドロシーがピクリと身を震わせる。
「……セラフィナ、様。あたくしを、許してくださるんですか?」
「ドロシーは、あたしのためを思って、父に進言してくれたのでしょう? それに、あたしがハッキリと言わなかったのが原因だもの。ドロシーは悪くなんてないわ」
「でも、いまの状況はあたくしのせいで……」
「違うって言ってるでしょ。それに、みんなに避けられているあたしを、ドロシーはこうやって気遣ってくれている。そんな貴方を恨むはずがないでしょう」
「セラフィナ様……」
セラフィナの胸に顔を埋めたまま、ドロシーがぷるぷると身を震わせる。だからセラフィナは、そんなドロシーの震えが治まるまで、ずっとその背中をなで続けた。
それからほどなく、ドロシーはそっと腕の中から抜け出し、セラフィナの顔を見上げた。
「……セラフィナ様。あたくしにお詫びをさせてください」
「気にする必要はないって言ってるでしょ?」
優しく微笑みかけるも、ドロシーは思い詰めたような顔で、譲るつもりはなさそうだ。それを理解したセラフィナは、少し困った顔で「なにをしてくれるつもりなの?」と尋ねた。
ドロシーは実は――と、セラフィナの耳元に唇を寄せた。
「セラフィナ様を内緒で、下町のお店にお連れします」
「下町のお店……?」
「……アイスクリームに勝るとも劣らないお菓子を売るお店を見つけたんです」
「なっ、それは本当なの!?」
「ええ、その店員を召し抱えて、国王陛下に献上させましょう」
「それは……」
アイスクリームと言えば、最近シャーロットが国王に献上したという至高のお菓子で、それを食べた国王や貴族達は感激のあまりに涙を流したという。
もしそれに匹敵するお菓子をセラフィナ達が発見し、国王に献上することが出来れば、今回の失態を帳消しに出来るかもしれない。
そんな期待を抱き、セラフィナはゴクリと生唾を飲み込んだ。
「どうですか? セラフィナ様」
「それは……けど、良いの? 本当なら、貴方の手柄に出来るのではなくて?」
「良いんです。セラフィナ様が窮地に立たされているのはあたくしのせいですし、その責任をとらせてください」
「ドロシー……ありがとう。なら、あたし達二人の手柄としましょう。それで、あたし達の家も、窮地から脱することが出来るはずよ」
今回の一件はあくまでジュノー辺境伯の失態であるが、その原因となるのがドロシーの実家であることを知る者も少なくない。
失態を挽回するというのなら、二人一緒にとセラフィナは主張した。
「……セラフィナ様、ありがとうございます。それでは、さっそくお店に行ってみましょう」
「ええ。それで、そのお店はどこにあるの?」
「それですが……外出するとなると、護衛がついてきますよね?」
「そうね。学校の外に出るのなら、護衛の騎士に声を掛けることになるわ」
学校の中は、学校が雇った警備兵が見回りをしている。だから基本的には、自身の護衛はどこかで待機させていることが一般的だ。
けれど、外に出るとなれば話は変わってくる。中には、お忍びなどと言って護衛を引き連れずに外出するものもいるが、セラフィナは必ず護衛に声を掛けるようにしていた。
「その護衛に内緒で外出することは可能ですか?」
「えっと……出来なくはないけど、どうして?」
「さっきも言いましたが、そのお店は下町にあるんです。もし護衛などを連れて行けば、他の者達に、そこになにかあると教えるようなものですから」
「……たしかに、そうね」
他の貴族にその店の存在を知られれば、出し抜かれてしまうかもしれない。ことの重要性を考えれば、護衛を連れて行けないというのはもっともな意見だ。
「それじゃ護衛には、学校で修練をすると嘘をついて抜け出すわ」
「お願いします。それじゃお互いに内緒で、別々に学校を抜け出して、表通りにある教会の前で落ち合いましょう」
「ええ、分かったわ」
こうして、セラフィナはドロシーと内緒の約束をすると、護衛達には学校の修練室で剣の修行をするから帰りは遅くなると伝え、人目を憚って学校から抜け出した。




