閑話 暗躍する通りすがりの普通の女の子
月に一度、王都の会場で行われるオークション。熱気に包まれたその会場の片隅で、ウィルダーネス子爵家の娘――先日十五歳になったばかりのルクレツィアは緊張していた。
彼女の父が統治するウィルダーネス地方は、普通の子爵家からは考えられないほど広い土地を有しているが……その土地の大半は作物がまったく育たない、不毛の大地だ。
それでも彼の一族は、身を粉にして領民達を護り続けている。そして領民達もまた、ウィルダーネス子爵の熱意に応えようと、領地を豊かにするために働き続けていた。
しかし、ウィルダーネス領に人が暮らし始めておよそ千年。人々の暮らしは改善されず、その地で暮らす人々も減少。領地の経営は限界に達していた。
その上、ルクレツィアの父――ウィルダーネス子爵が先日、過労で倒れてしまった。このままでは領地経営もままならず、家臣への給金も支払えなくなってしまう。
そうなれば、国王に領地を召し上げられてしまうだろう。
だから、父の力になりたくて、ルクレツィアはこのオークション会場にやって来た。母から譲り受けた形見のブローチをオークションに出品するためである。
もちろん、母の形見を売りに出すことには抵抗がある。母も、その母から譲り受けた、先祖代々伝わるブローチだというのだからなおさらだ。
けれど、父を、そして領地や領民を護るためなら、母もきっと許してくれるだろう。
問題は、いくらで売れるのかと言うこと。
ブローチには魔石がはめ込まれているが、残念ながらエンチャントの類いは施されていない。とは言え、美しい装飾が施されているので、金貨30枚は下らない。
恐らくは、金貨50枚くらいは期待できるはずだ。
そして、今日のオークション会場は、妙な熱気に包まれている。もしかしたら、それ以上の価格で落札されることもあり得るかもしれない。
金貨30枚なら、当面の家臣への給金を。50枚なら、それに加えて、貧困に喘ぐ領民への支援を。そして100枚なら、遅々として進んでいない開墾にも手を伸ばせるかもしれない。
そんな夢を見たのだけれど――
「そん、な……」
自らが出品したブローチの競売が始まったとき、舞台袖にいたルクレツィアは、自分が悪夢を見ているのだと思った。
貴族なら飛びつかずにはいられない。そんな繊細なブローチが出品されているにもかかわらず、貴族達が見向きもしなかったからだ。
そして――
「金貨18枚、現在金貨18枚。他にはいらっしゃいませんか?」
転売目的なのだろう。一部の商人が少し競り合っただけで、すぐに片方が脱落してしまった。恐らくはこのまま、金貨18枚で落札されてしまうだろう。
けれど、金貨18枚では、家臣への給金を支払うことも難しい。それでは、なぜ母の形見を競売に出したのか分からない。
「……お母様、ごめんなさい。お母様……。うっ……うぅ」
ルクレツィアは白く小さな手をぎゅっと握りしめ、大粒の涙をこぼした。
――そうして、悲劇で終わったはずの物語。だけど、その話にはまだ続きがあった、
それから数ヶ月。父の容態は思わしくなく、ウィルダーネス子爵家の資金はとうとう底を突いた。いよいよ、終わりが迫っているのだと覚悟を決めたそんなある日。ルクレツィアのもとに、使用人から来客があるとの報告があったのだ。
しかし、このような時期に自分を訪ねてくる知り合いに心当たりはない。
考えられるのは、ウィルダーネス子爵家に対する支援と引き換えに、自分との婚姻――つまりは、ウィルダーネス子爵の地位を手に入れようとする商人といったお金持ちくらい。
そういった提案ですら、あるかどうかも分からないほど酷い現状。条件によっては、家臣や領民達を護るために――ルクレツィアはそんな風に考えた。
「その来客とは、どのような方ですか?」
「本人は、通りすがりの普通の女の子だと名乗っています」
「……はい?」
「ですから、その……通りすがりの、普通の女の子だそうです」
「貴方はなにを言っているのですか? 普通の女の子は、通りすがったからといって、子爵家を訪ねてきたりはしないでしょう?」
「えっと、その……ご指摘はごもっともだと思うのですが、お召し物はとても上品で、高価に見受けられます。恐らくは……」
「お忍び――という訳ですか。分かりました、ともかく会ってみることにいたしましょう」
ルクレツィアは素早く身だしなみを整えて、客の待つ応接間へ。そこには、普通の女の子とはなんだったのかと、首を傾げたくなるほどに可愛らしい女の子がたたずんでいた。
「初めまして、ルクレツィア様。あたしは通りすがりの普通の女の子です」
「あ、えっと、私はルクレツィアですわ。それと、ここには私と貴方しかいませんので……」
正体を明かしていただいても大丈夫ですとの意味を込めたのだけど、自称通りすがりの普通の女の子は、可愛らしく小首をかしげている。
恐らくは、分からないフリ。正体を明かすつもりはないという意思表示だろう。
「えっと……お姉様は――」
「――お姉様!」
名前が分からなかったので、仮にそう呼んだのだけれど、自称通りすがりの普通の女の子は、なぜか過剰に反応した。
「す、すみません。なにか気に障ることを申しましたでしょうか?」
「あ、いえ、そんなことはないですよ」
「そ、そうですか?」
「うんうん」
よく分からないけれど、少女はニコニコとしている。やっぱりよく分からないけれど、たぶん、きっと、大丈夫だろう。本気でよく分からないけど。
とにかく、ルクレツィアは詳しい話を聞いてみることにした。
「では、その、お姉様は……私になにかご用なのでしょうか?」
「うん。このブローチについて少し聞きたかったんです」
「――それはっ!」
ルクレツィアは目を見開いた。自称普通のよく分からない少女が、どこからともなく取り出したブローチ。それが、涙を呑んでオークションに出品した母の形見だったからだ。
「どうして、お姉様がそれを……いえ、落札した商人から買い取ったんですね」
「うぅん、もらったんです。あたしが興味を持ってるのに気付いたみたいで」
「……そ、そうですか」
領地の命運を左右するほどの価値がある品を、興味の一つでプレゼントされる。それのどこが普通の女の子なのか……ルクレツィアは、自分の現状と比べてなんだか悲しくなった。
「それで、このブローチについてですけど、貴方が出品した品で間違いありませんよね」
「ええ、そうですけど。それが、なにか?」
「このブローチをどこで手に入れたのか、教えていただけませんでしょうか?」
「そのブローチは母の形見です」
「母の形見……」
自称通りすがりの普通の女の子は、どこか驚いたような顔をした。
形見の品をオークションに売りに出すなんてと責められているような気がして、「その、領民を護るためだったんです」と、言い訳を口にしてしまう。
「そのお母さんは、誰から貰ったとか言ってましたか?」
「えっと……母も、母から受け継いだと。そのブローチは、先祖代々伝わっていたんです」
「先祖代々……そう、ですか……」
自称通りすがりの普通の女の子は、なにやら遠い目をした。自分より少し年上くらいにしか見えない外見なのに、なにかを背負っているような表情。
「……あの、お姉様?」
「うぅん、なんでもないよ」
少女のルクレツィアを見る眼差しが、優しげなものに代わった。そしてそれと同時に、先ほどまでの他人行儀な口調が、親しい相手に向けられるような口調に変化した。
ルクレツィアは、それを馴れ馴れしい――とは思わなかった。それどころか、なぜか懐かしさすら感じてしまう。ルクレツィアはそんな自分に戸惑った。
「えっと……それで、ご用件というのはそれだけですか?」
「ん……迷っていたんだけど、このブローチは貴方に返して上げるね」
「……え?」
驚くルクレツィアの胸もとに、いつの間にかブローチが飾られていた。テーブルを挟んでソファに腰掛けていたはずなのに、一体どうやってルクレツィアの胸につけたのか。
いや、それよりも――
「返すと申されましても、私に買い戻すお金は……」
その先は情けなくて口にすることが出来なかった。だけど、自称通りすがりの普通の女の子は、それに対してやんわりと首を横に振った。
「二度と手放さないと約束してくれるのなら、お金なんか必要ないよ」
「ですが……」
「良いの。それに、約束だったからね」
「……約束、ですか?」
「うん。ミーシャと約束したの。いつか、ミーシャに大切なモノが出来たら、それを護るためのエンチャントをして上げるって」
「ミーシャ……ですか?」
ルクレツィアがミーシャと聞いて一番に思い出したのは、大きな手柄を立てて子爵家の地位を賜った女傑、ウィルダーネス子爵家の初代様。
だけど、それはありえない。
ウィルダーネス子爵家は千年ほど続いている。初代のミーシャと、自称通りすがりの普通の女の子が知り合いのはずはない。
いや、それよりも――
「あの、エンチャントというのは?」
「ミーシャが、貴方が護りたいモノを護るための力――だよ」
自称通りすがりの普通の女の子がそう口にした瞬間、奇跡が起こった。
緻密で、驚くほどに大きな魔法陣が彼女を中心に展開されていく。神聖な光が部屋一杯に広がり――やがて、その光はルクレツィアの胸もとに輝くブローチに吸い込まれていった。
「……いま、のは?」
なにが起きたのかと問いかけるけれど、自称通りすがりの普通の女の子は微笑むだけで答えてくれない。
「それじゃ、あたしはそろそろ帰るね」
言うが早いか、立ち上がって本当に退出しようとする。だからルクレツィアは慌てて少し待って欲しいと声を上げた。
「……あたしになにか言いたいことがあるの?」
「えっと……その。このブローチは、貴方が持っていてください」
「……どうして? 貴方にとってもは想い出の品だと思ったのだけど」
「だから、です。私がこれからどうなるかは分かりません。だけど、きっと、私にそのつもりがなくても、金品を手元に残すことは叶わないと思うので」
領地を召し上げられるか、その身をお金持ちに買われるか、どちらにしてもブローチを取り上げられる可能性は高い。だから、この少女にもっておいて欲しいと思ったのだ。
だけど――
「その心配は必要ないよ」
「必要がない、ですか? それはどういう……」
その後、彼女の口から聞かされたのは、信じられないような内容だった。
グラート商会と呼ばれる、とても大きな商会が、ウィルダーネス子爵領の支援を申し出てくれているというのだ。
それだけなら、理解できた。けれど、その後に伝えられた内容が理解できない。
家臣に支払う資金援助に、領民への食糧支援。更には開拓に必要な人員派遣と、その資金提供。それだけの援助をするというのだけでも驚きなのに、その条件がありえない。
将来、ウィルダーネス子爵領が豊かになったら、グラート商会と特産品などの取引をする。ただそれだけが条件だというのだ。
ウィルダーネス子爵領は貧困に喘いでいる。たとえ支援をしてもらえたとしても、商会を満足させられるほどの取引を出来るようになるとは思えない。
そもそも、ウィルダーネス子爵領に特産品などという物は存在しない。つまり、普通に考えれば、グラート商会に一切の利益はないはずだ。
そう言ったのだけれど――
「ふふっ、すぐに分かるはずだよ」
「……分かる、ですか?」
どういうことかと問いかけるけれど、自称通りすがりの普通の女の子は、天使のように微笑むだけで答えない。
そして――
「……ミーシャ。遅くなっちゃったけど……約束は果たしたからね」
優しげな眼差しをルクレツィアに――いや、胸もとのブローチに向ける。それと同時に、淡い光が少女を包み込み――光が弾けたとき、少女はどこにもいなくなっていた。
「お嬢様、お茶をお持ちいたしました。……お嬢様? 入りますよ」
さっきの出来事は夢だったのだろうか――と、呆然としていると、メイドが入ってきた。そして部屋を見回し、ルクレツィアしかいないことに気付いて首を傾げる。
「あら、お客様はどちらに行かれたのですか?」
メイドに問われ、ルクレツィアは部屋を見回した。
彼女がいた痕跡は、部屋のどこにも残っていない。だけど……と、ルクレツィアは、自分の胸もとにブローチが飾られていることに気がついた。
「彼女は……もう帰ってしまったわ」
「そう、ですか。何者だったんですか?」
「さぁ……なんだったのかしらね」
取引云々はとてもじゃないけど信じられない。けれど、母の形見は、ルクレツィアのもとに戻ってきた。だから――
「もしかしたら、通りすがりの天使だったのかもしれないわね」
ルクレツィアは窓の外を見つめ、ブローチにそっと触れた。
◇◇◇
破綻寸前まで陥ったウィルダーネス子爵領は、ある日を境に急速に復興していく。床に臥せっていた当主が快復し、それと同時にグラート商会が支援を始めたのだ。
当初、それを知った他の商人達は、グラートが子爵家の地位を手に入れようとしているのだと噂した。けれど、グラート商会はそれを否定。将来、商売をするためだと宣言した。
だから商人達は、最近規模を拡大しているグラート商会が調子にのって、無謀な賭に出たのだと笑った。けれど――
それからわずか数年。ウィルダーネス子爵領は復興を遂げた。
不毛だった大地が甦り、自然豊かな土地へと変貌を遂げたのだ。しかも、一体どこから手に入れたのか、後に国内で大人気となる、未知のフルーツまで栽培を始めた。
こうして、ウィルダーネス子爵領は、グラート商会との取引を経て、国内で有数の豊かな領地へと変貌を遂げた。
なぜ急に作物が育つようになったのかは不明。
グラート商会がなんらかの入れ知恵をしたという噂もあるが、そういった資料は一切見つかっていない。また、ウィルダーネス子爵の愛娘が荒れ地に訪れると、その地が自然豊かな地へと変貌したという伝説もあるが……事実は定かではない。
ウィルダーネス子爵家の七不思議の一つとして数えられている。




