第238話 ジムへの復帰と厳しい現実
10月の頭、遂に俺は完治という判定を受けた。これからはもう普段の生活に戻って良い。
ただいきなりからハードトレーニングは負担が大きいので、それは避ける様にと言われている。
それでもただの軽負荷のリハビリしか、俺には出来なかった頃とはもう何もかも違う。
2ヶ月のブランクを埋める為に、確実に体を元に戻していかないといけない。だからこその部活であり、休んでいたシルバージムへの復帰だ。
山崎さんもお見舞いに来てくれたから、事情は知って貰えている。顧問の勝本先生と、山崎さんに頼りつつ本戦でのメンバー入りを目指す。
「久しぶり~東君! もう大丈夫なの?」
「はい、昨日完治しました」
「本当に大変だったよねぇ。またここで会えて嬉しいわ」
病院で言われた事を山崎さんに伝えて、これからのメニューを相談する。先ずは入院によるボディバランスの変化の確認から始まる。
身長は178cmと変わっていないけれど、体重が激減してしまっていた。入院前は58kgだったけど、今は53kgと5kgも減っている。
元々低めだった体脂肪率も10%を下回り、BMIは言うまでもない惨状だ。分かってはいたけど、こうも変わるのか。
山崎さんには運動量が急に減った事と、ストレスが直接的な原因ではないかと言われた。
ストレスについては本当に滅茶苦茶与えられたので、身に覚えしかない。他にも10代の男子学生は、脂肪が落ちやすい傾向にあるのも要因だとか。
「これを戻すのか……」
「結構大変だけど、不可能じゃないわ。焦らずやって行きましょう」
「はい! よろしくお願いします」
休んでいた体がビックリしない様に、軽めのメニューから始めていく方針が決まる。
この10月については、実質的なリハビリと思って欲しいと言われた。まだリハビリが続くのか。
病人としてのリハビリが終わっても、アスリートとしてのリハビリが待っているなんて思わなかった。
正直急ぎたい気持ちはあって、冷静に捉えるのが難しい。だけど焦っても意味がないのも分かっていて、2つの気持ちが俺の中で戦っている。
まるで頭の中の天使と悪魔が言い争うかの様に。本当に辛いのは、きっとここからなんだ。
入院で落ちた身体能力、そして長距離走のタイム。それらと今から向き合っていかないといけない。
「こういう時が一番辛いのよねぇ」
「山崎さんも似た経験が?」
「事故じゃないけど怪我ならね」
学生時代にバドミントンをやっていた山崎さんは、大学時代に利き腕を骨折した経験があるそうな。
そこからの復帰で、色々と大変だったらしい。筋肉が付き易い男性ではなく女性なので、落ちた腕力を戻すのに時間が掛かったとの事。
俺が思っていた以上に、大変な思いをしていた人が居る。案外、世の中ってそうなのかな?
スポーツではないけど、美佳子だって恋愛が上手く行っていなかった。葉山さんの話も聞いたし、こうして山崎さんからも。
挫折しそうになると言うか、そういう経験はあちこちに転がっているのかも知れない。
「焦りそうになると思うけど、グッと堪えてね」
「なんとか、頑張ってみます」
「やさぐれそうになったら、篠原さんの所へゴーで」
冗談交じりで山崎さんが言うけど、実際そうなるのだろうなと思う。支え合って生きて行くのが夫婦だって、父さんが良く言っていたっけ。
俺達は夫婦ではないけど、恋人関係ではある。そして惚気話として、母さんに甘えていた父さんの話も良く聞いたな。
昔は何の話だよって思ったけど、今思うとその意味が分かる。寄りかかる事が出来る存在が、どれだけ大切かという話だったのかも知れない。
まあでも多分、8割はただの惚気が言いたかっただけだと思うけどさ。それでもかつての記憶が、今は意味があるモノに思えた。
「さて、そろそろ始めましょうか」
「軽めの筋トレから、でしたよね」
「そうよ。先ずは少しずつ、確実にね」
スポーツは急激に上手くなる事はない。地道な積み重ねが、どれだけ出来たかが全てだ。
才能って言葉で片付ける人が居るけど、俺はそんな風に思わない。その才能だって、その人が自分で作り上げたものだ。
生まれた時から全てが出来たのではなく、天才と呼ばれる様になるまでの過程がある。
天才と呼ばれる人達に歴史有り。そう呼ばれた人達は決まって、沢山の努力を続けて来た。
プロスポーツ選手の自伝書やインタビューを読めば、その事が良く分かる様になっている。
才能って言葉は、努力をした人への冒涜だと思う。努力も才能なんて言う人も居るけど、そんなの才能じゃない。それはもうやる気やモチベーションの問題だ。
「じゃあ、行って来ます」
「後で見に行くからね」
「はい!」
残念ながら俺は陸上の天才ではないけど、これからも頑張ろうって意思だけは持てるから。
そしてそんな俺が疲れ果てても、温かく包み込んでくれる人が居る。怖かったり辛かったり、そんな気持ちも一緒に愛してくれる。
美佳子が居るから、俺は挑戦を続けられるんだ。失敗も後悔も、美佳子は笑わず受け入れてくれた。
だから俺は、この道を進む。もう一度あの舞台に立って、今度こそ1番を勝ち取るんだ。
皆で優勝して、ここに帰って来る為に。その為に味わう辛さだって、俺は受け入れる。
それに障害が何もない道を歩んだって、俺はきっと強くなれない。東咲人が目指す場所は、舗装された平坦な道の先にはない。
そんなのあの日の出会いから、ずっとそうだったじゃないか。無視することだって出来たのに関わった。
路上で倒れていたお姉さんに出会ってから、今日まで歩んで来た道は決して平坦では無かった。
だから俺はこれからも、山あり谷ありの山道を走り続けるんだ。その先にある未来に、俺達の未来があるから。




