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第210話 美佳子と明宏

 結論から言うなら、数時間に渡る手術の末に咲人(さきと)は生き延びた。死んでしまったのではないかと、何度思ったか分からない。

 どれほど涙を流しても、尽きる事なく流れてくる経験は初めてだった。ボクが昨日買い物に行こうとか言わなければ。

 新しいコスメショップではなくいつものデパートに行っていれば。そうすれば咲人はこんな目に合わなかった。そんな後悔だけが脳裏に浮かぶ。


 どう考えても、今から目を覚ましたとしても駅伝大会には出られない。なぜなら咲人は、無事では無いから。

 頭部からの出血は多かったものの、鍛えていたからか右足の骨折以外は手術でなんとかなった。

 ただ完治ではないから安静にする必要があるけど、命に別状はないらしい。脳波に異常は見られておらず、後は目を覚ますのを待つのみ。

 頑丈なお子さんですねと、手術してくれた先生が言っていた。それから数時間、咲人の父親である東明宏(あずまあきひろ)さんと2人で眠ったままの咲人を見守っていた。


篠原(しのはら)さん、無理はしないで下さい」


「まだボクは大丈夫ですから」


「会社の仕事もあるでしょう?」


「それは……まだ取り返せます」


 良くないのは分かっているけど、咲人を放置は出来なかった。今日やらないといけない業務を、全部ふっ飛ばしてしまった。

 VB(ブイビー)所属のライバー達から来ている連絡も、全く確認出来ていない。ボクにとって、咲人の存在はこんなにも大きかったんだね。

 今日まで築き上げて来た、VBの全てを放棄し兼ねないぐらいボクは咲人に執着してしまっていた。

 もう咲人無しの人生なんて考えられない程に、居て当たり前の人と認識している。もしこのまま咲人が、目を覚まさなかったら。

 僕に出来る全てを懸けて、どうにか出来る人を探す。もう財産なんかよりも、咲人の方が遥かに価値のある存在だ。


「咲人は、()()()()()()()()()?」


「それは、どういう」


「咲人の母親に関してですよ」


 美羽(みう)ワンダーパークで母親を困らせた話は知っている。だからボクは咲人のお母さんとの最後の思い出の場所、美羽ワンダーパークを守ると決めた。

 でもそれ以上は、特に聞いていなかった。聞きにくい事でもあったし、無理に聞く気も無かった。

 咲人も話そうとする素振りも見せないので、心の整理はついているのかなって勝手に思っていた。

 だからわざわざ掘り下げなくても良いと思っていた。でも東さんの言い方からして、そうじゃないのかな?


「恐らくですけど、貴女の前では弱さを見せない様にしているのでしょう」


「何かあるんですか? 弱さという程の何かが?」


「咲人は母親が亡くなった日、自分がもっと早く帰って来ていればと自分を責めました」


 どうやら咲人は、当時自分のせいで母親が亡くなったと思っていたらしい。前日に母親と揉めずに、普段通りだったら。

 真っ直ぐ帰宅して、2人で買い物に出ていたらと。だったらきっと、あれが欲しいとかこれが食べたいとかの話になった。

 そうしていたら、母親はあの時間にあの道を通らなかった。幼いながらにも咲人は、9歳でその回答に辿り着いてしまった。

 咲人の母親である翔子(しょうこ)さんは、今回の事故と似た理由で亡くなったらしい。咲人は飲酒運転でお母さんは信号無視で、ひき逃げは同じだけど状況が違う。


 咲人は大通りで、翔子さんは人通りがそう多くない道。咲人は相手がバイクで、お母さんは乗用車だったとか。

 咲人が助かったのは、天国の翔子が追い返してくれたのでしょうねと明宏さんはしみじみと言う。

 いつも待ち合わせの10分前には必ず来る人だったから、お盆より先に来ていたのだろうと。


「本当にね、咲人の責任じゃない。悪いのは信号無視の挙句ひき逃げしたドライバーさ。でもせめて自分が一緒だったらと、当時9歳の咲人が泣きながら訴えた」


「そんなの……咲人は何も悪くないのに……」


「だからでしょうね。咲人が貴女を捨て身で庇ったのは」


 そんな昔から、咲人は自分を責めていたの? ボクは結局咲人の苦しみを、悲しみを分かっていなかった。

 いつもボクを尊重してくれるから、そんな咲人の優しさにただただ甘えていただけじゃないか。

 母親の死に、そこまでの責任感を持っていたなんて初めて知った。そうだよね、そんな意識があったなら、咲人の行動にも納得がいく。

 ああそうなんだ、ボクは咲人に救われてばっかりだ。じゃあボクは? 咲人の何を救えた?

 咲人の辛さを、ちゃんと理解出来ていたの? この有様で? 病院のベッドで眠り続ける咲人に、ボクは何が出来る?


「ボクは何も知らなかった……」


「教える必要がないと思っていたのでしょう。明るい話ではありませんし」


「ボクは恋人失格だ……何もしてあげられていない……」


「そんな事はありませんよ。篠原さんと出会ってから、咲人は毎日楽しそうにしていましたから。あんな咲人は見た事が無かった」


 本当にそうなのだろうか? ボクが恋人で本当に良いの? こんな時に何もしてあげられない情けない人間なのに。

 ここまでの無力感を感じた事は無かった。大抵の事は実力で乗り越えて来たし、お金だって沢山ある。

 でもその全てが、今ここでは何も役に立たない。せめて着替えの洗濯だけでも出来たら良かったのに、ボクにはそれがまるで出来ない。

 咲人はボクが困った時に助けてくれるのに、ボクは何もしてあげられない。家事全般が出来ないから、してあげられる事が無い。

 ただこうして、待ち続ける事しか出来る事が無い。そしてそれは、自分のせいでしかないんだ。


「私も以前、貴女と似た悩みを抱えたので分かりますよ。自分1人で咲人を育てる力があるのかと、何度も悩みましたから」


「東さん……」


「暗い事を考え続けても良くありませんよ。一旦帰って休んで下さい。息子は私が見ていますから」


 これ以上出来る事がないのは変わらないから、ボクは一旦帰宅する事にした。深夜3時に帰宅して、溜まっていた連絡への返事を送っておいた。

 せめて何かしていないと気が狂いそうだったから、少し仮眠をしてから仕事に取り掛かった。配信の方は……暫くやれる気力も元気もない。

妻で一度経験したからこその、咲人パパの対応です。この父あれば、この息子あり。

明宏の優しさと心遣いが、咲人に受け継がれている部分ですね。事故死した妻をいつまでも想い続ける一途さが、咲人君の恋愛観に影響を与えています。

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