第196話 2組のお母さんと変化の兆し
7月に入って本格的に夏の暑さになった今、朝練の時点で既に外はかなり暑い。朝練後のボディシートと、制汗スプレーが欠かせない季節だ。
更衣室と教室のエアコンが無ければやっていられない。制服に着替えていつものメンバーで教室に戻ると、特徴的な女子が俺に手招きをしている。
派手な金髪をサイドテールに纏めているダンス部の松下さんだ。相変わらずいつ見ても目立つ存在だなぁ。
「お母さ~ん! シャツのボタン取れちゃった~」
「ああ、はいはい」
「ごめんね~いつも」
もう俺はお母さんと呼ばれる状況に慣れてしまっていた。松下さんを含めた何人かの女子は、少し前から俺をお母さんと呼んでいる。
いっそこれで良いかなと思って否定するのは止めた。馬鹿にする意図はなく、困った時に頼る相手として使われているから別に良いかなと。
松下さんの席まで行くと、俺は鞄に入れてあるソーイングセットを取り出す。最初から学校指定のYシャツは脱いであり、Tシャツ姿の松下さんから受け取る。
取れてしまったのは、Yシャツの上から3番目のボタンだった。男子ならばともかく、女子だと取れてしまったら厄介な位置だ。
幾ら下にTシャツを着ていても不格好になる。ちょうど胸の位置なので、松下さんの様にスタイルの良い女子は特に目立ってしまう。
「前から思ってたけどさ、どうして裁縫まで上手いの?」
「あ~まあ、うち母親が居ないからさ」
「へぇそうなんだ? 東って何でも自分でやるんだね」
「何でもって事はないよ。出来ない事の方が多いしさ」
それは過大評価だ、俺に出来る事は少ない。家事全般と走る事以外に、得意と言えるものは無い。
勉強は平凡だし、特別IQが高いなんて事もない。出来る事をやって生きて来ただけで、これぐらい出来る男子学生は他にもきっと居る。
長距離走だけはそう簡単に負けないけど、料理の腕や裁縫技術はアマチュアの領域だ。一応料理はそれなりに自信があるけど、プロには遠く及ばない。
先日上げた料理動画も、突然バズる事もなく再生数は100も無い。陸上を除けば、多少同級生より家事が出来るだけの男だ。
「はい、ボタン付いたよ」
「マジありがとう! これお礼ね」
「オレンジジュース? 良いの?」
学校内に設置された自販機で売られている、350ml入りの缶ジュースを渡された。貰っといてと言われたので有難く頂く事にした。
朝練の後だったから丁度良い。もしかしたらそこまで込みで、予め用意してくれていたのかも知れない。
松下さんは派手なギャル系の女子だけど、そういった気配りが出来るタイプだ。傲慢な態度を取る事もなく、無駄に偉そうにする事もない。
うちの学校は進学校だからか、嫌われるタイプのギャルを見ない。多少の強引さはあったとしても、精々その程度で悪い所とは言えない。
それもあって最近は澤井さんを通じて、松下さんも田村さんとも会話をしている。もう完全にクラスに馴染んだなと判断しても良いのかも。
「あっ! 咲人お前、また松下の依怙贔屓か?」
「こりゃただの対価だ」
「良いよなぁ、お前は女子達に仲間認定されてるから」
「お前がそれを言うか」
既に俺の席で待っていた一哉が、勝手にそんな評価を下す。ピエロっぽいポジションに居ながらも、しっかりモテているお前にだけは言われたくない。
俺はただ無害認定されただけで、所謂モテとは全くの別物。オススメの日焼け止めトークをする様な立場は、男としてモテるのとはまた違うぞ。
今や半分女子扱いみたいな状態だ。だってお母さんだぞ? どう考えても異性として見られていない。
幾ら俺には美佳子が居ると言っても、これはこれでどうなのかと思わずにはいられない。
俺は果たしてこれで良いのか? と1人の男子高校生としては悩ましい所だ。そりゃあ嫌われるよりは良いけどさ。
「そうだ咲人、今日の帰りにラーメン食いに行かね?」
「今日? まあ火曜だし良いけど」
「うっし、後は柴田でも誘うか」
一哉の発言に釣られて柴田の方を見ると、いつも通り田村さんと会話中だった。相変わらず仲が良いなあの2人。
共通の趣味があると、会話が弾むのは良く分かる。俺だって料理が得意な女子となら、幾らでも会話が出来る。
そこに相手が異性かどうかは関係なくて、純粋に楽しい時間になるというだけ。一哉が言っていた様に、恋愛感情があるかどうかは別の話だ。
実際2人は今も友達として楽しそうに……ん? 田村さんが微妙に元気の無い様に見えるな。
笑ってはいるけど影があると言うか、普段ほど楽しそうに見えない。何かあったのだろうか?
「おい咲人、聞いてるか? 麺一とラーメン大関のどっちが良い?」
「え? あ、ああ。じゃあ麺一で」
「こってり系ね、了解」
田村さんの様子が若干気になるけれど、柴田と話している所に割って入る程でもない。
体調の悪い日ぐらい人間であれば幾らでもある。特に女子は月1で絶対に避けられない期間があるのだから。
もし理由がそれだったら、問い質すとセクハラになり兼ねない。何か困っているなら誰かに相談するだろうし、今どうしても俺が聞く様な事でもないしな。
そもそも今は柴田と話しているのだから、相談事ならあいつにすれば良いだけだ。女子としてのお悩みなら澤井さん達も居る。
田村さんに感謝しているとは言え、無駄に出しゃばるのは別問題だ。そのせいで迷惑を掛けては本末転倒になる。
「せっかくだ、今日は特大を食うわ」
「お前それ、山崎さんに怒られないか?」
「大丈夫だって! どうせその分のカロリーは部活で消費すっから」
田村さんの事は一旦保留して、いつもの様に一哉との雑談に興じる。この時に田村さんが何を悩んでいたのか、その理由を知るのはこの日の夕方だった。
咲人君はクラスの一部女子から、ほぼ女友達的な扱いです。以前友人にそのタイプが居たのですが、部分的に彼を参考にしています。
所謂トランスジェンダー的な人ではなく、普通に彼女を欲しがっている人でした。
女子の友達は多いのですが、女子の恋愛対象にはならないのですよね不思議と。彼もお母さん扱いをされていましたね。




