第178話 ジム通いと帰り道
もうすぐ6月に入り、県予選が始まる。始まるまでに出来るだけの調整を続けるつもりだ。
今日もシルバージムのランニングマシンで、山崎さんに作って貰った俺専用のメニューをこなしている。
筋肉の増量を目的とした内容に変わってから、よりハードにはなったが何とか継続出来ていた。
徐々に慣れて来ると共に、成長を実感出来ている。少しずつ伸びていくタイムと、増えていく筋肉量。
どちらも数字上では僅かな差だけど、その微妙な違いが勝敗を分ける。0.1秒違うだけで、負けてしまう事だってあるのだから。
「お疲れ様、東君。最近調子が良さそうね」
「ふぅ……。これも山崎さんのお陰ですよ」
「私は方針を決めただけよ。頑張ったのは東君自身よ」
まだ油断は出来ないけれど、1ヶ月前に立てた目標から大きなズレはない。ほぼ予定通りに進行出来ているから、後は俺が本番で結果を出せるかどうかだけ。
山崎さんは褒めてくれているけど、自惚れてはいけない。先ずはしっかり予選に勝って、本戦への出場を決める。
恐らくは問題ないと思うけど、万が一という事もある。今や美羽高校は駅伝における強豪校であり、チームメンバーにも恵まれた。
しかし勝負事に絶対はなく、思わぬ逆転劇もそう珍しくない。良く知らない無名校が突然、なんて事態も起こり得る。
野球だと甲子園の魔物なんて言われているな。普通なら有り得ないミスをしてしまうアレだ。油断大敵とは良く言ったものだと思う。
「メンタル面は大丈夫そうね。食事の方はどう?」
「前より多く食べているので、まだ少しキツイですね」
「もう少し我慢してね、そろそろ慣れて来るから」
よりハードになったトレーニングもだが、それ以上に食事が大変だ。筋肉を増やす為には、日常的な食事よりも多くのカロリーを必要とする。
様々な栄養を摂りバランス良く、尚且つ沢山食べないといけない。特にタンパク質は重要で、肉類を今まで以上に食べている。
ただ筋トレをしただけでは、筋肉は効率的に増えてくれない。食事のタイミングと、その内容が大切になって来る。
お陰でここ1ヶ月程は、やや重めの食事が中心となっていた。もちろんプロテインも併用しているけど、それだけではカバーし切れない。
早い話が、沢山食べて一杯運動しろと言う事だ。後は沢山摂った栄養を、良質な筋肉に変えていく作業だ。
「それじゃあ今日はここまでにしましょう」
「はい! ありがとうございました」
「ふふっ。篠原さんが待っているわよ」
からかう様に笑う山崎さんに別れを告げて、俺はシャワー室へ向かう。手早く済ませてトレーニングウェアを脱ぎ、持って来ていた私服に着替える。
忘れずに制汗スプレーを使用し、変な所が無いか更衣室の鏡で確認。問題ないのを確かめてから、待ってくれている美佳子の下へと向かう。
入り口付近でスポーツドリンクを片手に立っていた美佳子と合流し、俺達はジムを出て夜の住宅街へと歩いていく。
昼間はもう十分過ぎる暑さだから、日が落ちた後の時間は心地が良い。このまま散歩と行きたい所だけど、これから美佳子は配信がある。
そして俺も帰ったら、我が家の夕飯を用意せねばならない。最近は特に時間の流れを早く感じる。
「もうすぐ咲人達の予選だね」
「絶対に勝って、全国でリベンジする」
「男の子らしい表情だね」
美佳子にそう言われると少し恥ずかしい。運動馬鹿というか、少しガキっぽかったか? だけどそれが俺の本音だから仕方がない。
何だかんだ言っても、やっぱり冬の大会は悔しかった。再び区間1位に返り咲いて、全国優勝も果たしたい。
贅沢な目標なのは分かっているけど、勝負事である以上は最高の結果を目指す。それが俺のやりたい事で、現時点での一番の目標だ。
1位になって金メダルを美佳子に見せたい。チームメンバーの皆と、最高の瞬間を迎えたい。
それに3年生はこれが最後の機会だ、今年こそは優勝の2文字を届けたい。去年はそれが出来なかったし、実はそのリベンジも兼ねている。
「ごめん美佳子。集中すると陸上の事ばっか考えちゃうんだ」
「良いんじゃない? ボクは好きだよ、真剣な咲人が」
「あ、ありがとう。何か照れるな」
人の気配が少なくなった夜道を並んで歩きながら、手を繋いでゆっくりと歩を進める。
美佳子と付き合う様になってから、当たり前になったジム帰りのひと時。ただの何気ない時間に過ぎないけれど、俺はこの時間が気に入っている。
日常の中に美佳子が居る事を、強く感じる事が出来るから。俺達には年齢差があるからこそ叶わない、一緒に学校から帰るというイベント。
その代用とは言い切れないけど、近しいものはあると思っているから。とは言えそれほど長い時間でもなく、10分も歩くかどうかの短い移動。
デートと呼ぶには随分とあっさりした終わりが来る。近くのジムを選んだ以上は仕方ない。ちょっと名残惜しいけど。
「じゃあまた明日ね、咲人」
「配信は観るけどね」
「アハハ、それもそっか。あ、そうだ」
マンションの入り口で、美佳子が俺の目の前に移動した。既に離してしまった美佳子の手が、突っ立っていた俺の両頬を捕まえた。
以前よりも広がった身長差を埋める様に、スッと美佳子が背伸びをした。綺麗な顔が近付いて来て、そのまま軽く触れる程度のキスをされた。
頑張ってとだけ言い残して、彼女はマンションへと入って行った。ほんのり唇に残る感触と、美佳子の良い匂いが俺の意識を埋め尽くす。
急に来るからズルいよなぁ。でもまあ、余計とやる気が増したよ。ありがとう美佳子。俺、頑張るから。




