第146話 迫る駅伝大会
全国高校駅伝が始まるまで、もう数日しかない。相変わらずタイムに不安は残っているし、和彦の件も未解決のままだ。
恐らくは甲子園に関係があるのではないか、という予想が出来たぐらいだ。2つの問題を抱えたままだけど、気持ちを切り替えないといけない。
どちらも出来る事をやるしかないし、突然何らかの力に目覚めたりはしない。そんなのは漫画の主人公だけで、都合の良い展開が訪れる事もない。
焦燥というよりは、緊張感に近い感覚が俺の中にある。良くも悪くもプレッシャーを受けているんだ。
「ねぇ咲人、今日は調子が悪いのかな?」
「ああいえ、大会が近いので少し緊張してまして」
「4日後だもんねぇ」
顔に出てしまっていたのか、美佳子に気付かれてしまった。リビングの床を拭いていたのに、良くソファの上から見えたな。
……いや、書類の整理をしながらでも分かるぐらい出ていたのか。普通にしているつもりでも、上手く感情がコントロールが出来ていない。
調子の良い時なら出来る事も、そうでない時は難しいな。学校では悟られていなかったけど、大人が相手では見抜かれてしまう。
これが人生経験の差ってやつなのだろう。そもそも美佳子は社長だし、ライバーの面接を行えるぐらい人を見る目がある。俺達高校生とは乗り越えて来た場数が違う。
「すいません、仕事に集中します」
「別に良いってそれぐらい。ボク達は他人じゃないんだからさ」
「それで美佳子さ、美佳子の気が散らないなら」
脳内で呼び捨てにするのは慣れたけど、いざ口に出そうとすると失敗する時がある。そもそも『さん』を付けて呼ぶのが癖になっていたのもある。
本当にここ最近呼び方を変えたばかりだから、まだ完全には馴染んでいない。脳内と口に出すのは違うと言うか、気恥ずかしさが抜けない。
下の名前で呼ぶのも慣れたら当たり前になったし、多分そろそろ平気になるとは思うんだけど。
最近色々と起こり過ぎて、まだ感情が追い付いていないのかも知れない。どこかでしっかりと、心を落ち着けた方が良いかも知れないな。
「そう言う気遣いが要らないよって意味なんだよ?」
「えっ、あっ……」
「全くもう、また色々と考えているね?」
雑巾を絞ろうと中腰になっていた俺を、美佳子が後ろから抱き締めて来た。今は事務仕事仕事中でお酒を飲んでいないから、漂うのは仄かなタバコの匂い。
そして嗅ぎ慣れた恋人の甘い香り。女性特有の柔らかな感触を背中から感じる。でも俺が今感じているのは、いやらしさではない。
ただただ優しさと安心感に包まれている。肉体的接触から来る性的な認識を、温かみが遥かに上回るのは彼女の包容力が故か。
それで何か現実が変わる訳じゃない。抱えた問題が解決する事もない。だけど間違いないのは、精神的にかなり満たされているという事。
大会を目前にした焦燥感や猛りの様な感情も、丁度良いレベルに落ち着いていく。暫くそうして貰っただけで、心は穏やかに凪いでいる。
「えっと、やっぱり顔に出てました?」
「出てはないけど、ボクなら分かるよ」
「え? ど、どうして?」
「好きな人の事って、何となく分かるものだよ」
女の勘みたいな話かな? それでバレていたのか。でも俺もたまに分かる時がある。今どうして欲しいのかとか、本当にたまにだけど。
思えば俺達は付き合い始めて、そろそろ半年が経過する。もうそんなに経つのかとも思うし、案外早かったなとも思う。
これまでの日々の中で、色々な経験があった。2人だけの時間を共有して来た。今では2人と1匹だけど、それも疑似的な家族みたいな関係だ。
だからなのかは分からないけど、一番落ち着ける場所はここなのかも知れない。美佳子の側に居るのが、最高の精神安定剤なのだろう。
ドキドキさせられる事も沢山あるけど、それと安心感はまた別の物だ。特別な関係だからこそ、受け取る事が出来る独特な感覚。
「青春時代は色々とあるからね。難しい場面は沢山ある」
「それは、俺も同じだと?」
「皆がそうなんだよ。程度の差があるだけで、誰もが必ず何かを抱えている」
それはまあ、そうだよな。和彦だって夏歩だってそうだし、一哉や澤井さん達もそうだろう。
だからこそ問題は自分自身の力で……って、そうじゃないのか。きっと美佳子が言いたい事はそこじゃない。
今までもそうだったじゃないか。Vtuber園田マリアとしても言っていた。俺達は1人じゃなくて、人間は1人で出来る事が限られる。
何もかもを、自分1人で消化しないといけない決まりなんてない。俺はまた以前の様に考えてしまっていた。
これまで何を見て来た? 友人達と何をして来た? 美佳子が教えてくれた事は沢山あっただろう。
「……実は、その……最近タイムが伸びなくて、少し不安なんです」
「そうだったんだね」
「でもそう言う所を見せたら格好悪いかなって、思ってしまって」
「そんな訳ないじゃない。ボクはどんな咲人も好きだよ」
悩んだら、相談すれば良い。そして恋人の前で、余計な背伸びはしなくて良い。俺はそれを学んだじゃないか。
こうして正直に話せば良かっただけなんだ。ちょっと弱みを見せたぐらいで、嫌いになる様な女性か?
そんな事はないと分かっていただろうに。和彦の件を夏歩に相談出来るのは、夏歩を信用しているからだ。
和彦には話せたのだって、殆ど同じ理由だ。だったらその相手が美佳子だったら? 変に悩まずにこうして聞いて貰えば良い。
1人で抱え込んで、ピリピリしていても意味がない。全部1人で解決する事が、格好良さではないんだ。
「もしかしたら、活躍出来ないかも知れないんですけど」
「その時はボクが、頑張ったねって労うからさ」
「はい。1位は取れないかも知れませんけど、全力で走ります」
和彦に約束した事だってそうだ。俺はプロ選手として、手術を受ける子に約束をしたのではない。
俺が区間1位を取れたら出て来いなんて言っていない。ただ今の俺を見てくれと約束しただけ。だから和彦、最後まで走り切る俺を観ていてくれ。
3章の完結についてと3章に込めた意図などについて、近況報告に書いておきました。カクヨムの方でたまに聞かれたので、念の為にと。
本編1話分ぐらいの文章量なので、まあまあ長いです。




