第138話 自分との戦い
来月に全国高校駅伝の本戦を控えた俺は、日々の鍛錬と調整に全力を出していた。しかしそれでも、和彦に伝えた通り想定よりもタイムが伸びない。
前回は区間1位を取れたけれど、今回は厳しいかも知れない。他の選手が成長しないままなんて、スポーツの世界では有り得ない。
自分と同じか、それ以上に成長している可能性は高い。だからこその想定を立てて来たけど、超えられない壁が立ちはだかった。
陸上はタイム等の明確な数字が出る競技だ。球技の様に何点取れるかは相手次第の競技ではない。
試合に挑む前から、自分のタイムが凡そ分かってしまっている。当日のコンディションも当然重要だけど、結局は日々の記録がほぼ最終結果となる。
「はぁ……また駄目か」
「何だ? どうかしたのか咲人?」
「ああいや、別に何でもないんだ」
放課後の練習中に悩んでいると、休憩中に一哉が近くにやって来た。伸び悩んでいる事をわざわざ今話す必要はない。
個人の競技が多い陸上においては、自分との戦いが基本だ。皆がそれぞれ自らの課題と向き合っているんだ。
俺だけが特別困っているのではない。それに短距離走と長距離走は共通点もあるが基本的には別物だ。
競技性が違うのだから一哉に相談する事でもない。するならまだ同じく長距離ランナーの柴田にする方が相談相手として正しい。
そして柴田はチームメイトでもあり、同時にメンバー枠を競い合うライバルでもある。そうホイホイと悩みを打ち明ける気にはなれない。
「で、最近どうなんよ? お姉さんとは」
「美佳子さんか? まあ別に普通じゃないか?」
「その普通を聞いてんじゃん」
そうは言われてもなぁ。時折こんな風に現状を聞かれる事がある。俺と美佳子さんの日常を聞いて何が面白いのだろうか。
恋愛相談が参考になるのは分かるけど、一哉の場合はそうではない。シンプルにどんな事をしているのかが知りたいだけなのだ。
大人のお姉さんとの恋愛が、新鮮に思えるとは言っていたけどさ。俺以外で10歳以上離れた相手と、恋愛をしている生徒は居ないからな。
だからこそ貴重なサンプルであるのは理解しているが。でも俺に聞いた所で、相手が特殊過ぎると思うけどな。美佳子さんみたいな人はそう居ないと思うし。
「そう言われてもなぁ。特別な事は何も……」
「甘えさせて貰ったりとか、何かあるだろ?」
「どっちかと言えば向こうが甘える側だしなぁ」
大人の包容力を見せてくれる時もあるけど、大体は美佳子さんが甘える側である。俺が高校を卒業したら、お風呂に入れて貰うと宣言しているぐらいだ。
基本的には俺がお世話をする側だ。その関係性に俺は満足しているし、大人の女性に頼られるのは悪い気がしない。
先日もドライヤーをして欲しいと頼まれたので手伝った。あの時はお風呂上りの色気が大変な事になっていた。
滅茶苦茶ドキドキさせられる羽目になったんだよな。どうしてお風呂上りの女性はあんなに良い匂いがするのか。
「お? 何かあったのか?」
「何かって言う程では……お風呂上りの魅力がエグかったなと」
「かぁーーー! 羨ましいねぇ、あんな美人の風呂上りなんて」
でも手を出せないジレンマがあるんだぞ? これはこれで中々な苦行ではある。俺が未成年であるせいで、この先にはまだ進む事が出来ない。
他の皆がそう言った経験をしていく中で、俺はまだまだお預けだ。覚悟の上で付き合い始めたとは言っても、それなりに辛いのは仕方がない。
もうすぐ2年生になるから、解禁の時は着実に近づいている。だがそれでもまだ1年以上あるのだから、時の流れが疎ましく感じる。
陸上のタイムみたいに走った分だけ時が縮めば良いのに。まあそのタイムにも今悩まされている訳だけど。
「2人も休憩? 何の話をしてたの?」
「よっ澤井! 今は女性の風呂上り姿について熱く語り合っていた所だ」
「…………東君?」
「ち、ちがっ! 大きな誤解があると思う!」
誤解も何もないけれど、ここは誤魔化しておきたい。澤井さんから突き刺さる冷たい視線が非常に痛い。
俺がしていたのは恋人の風呂上りについての話であって、不特定多数の女性について話していたのではない。
そんな下世話な想像は決してしていないし、そもそもそんな話でもない。クラスメイトの女子で妄想をしようとか、失礼な事は一切していない。
脳内で妄想してスケベ心を燃やしていたのではないのだ。いやまあスケベ心ではあるんだけども。
それはそれ、これはこれ。ちゃんと誠意ある下心を…………誠意ある下心ってなんだよ。
「男子ってほんとエッチだよね」
「甘く見るなよ? エロは原動力になるんだぜ」
「誇らしげに言うな、そんな事」
分かるけどさ、その言い分も。美佳子さんとの日々を楽しむ為に、頑張ろうと言うモチベーションが湧く。
これまでに無かった、もう一つのエンジンが心に搭載出来た様な感覚がある。意外とこれが馬鹿にならないエネルギーを生んでくれる。
良い所を見せたらキスぐらいして貰えるかなとか、考えてしまう事だってある。それがまた異様なまでの活力になるのだから、男って単純な生き物だなと思った。
だが今回はそれだけでは解決出来ていない。友人達といつも通りに過ごしつつも、消えない悩みが俺の胸で燻り続けていた。
俺は和彦に、立派な姿を見せる事が出来るのだろうか? アイツの心を開かせる程、何かを伝えられるのか?
念のために補足しておきますが、陸上が球技より厳しいって話ではないです。
そもそも私は最終的にバスケ部に落ち着いた人ですので。
50m走7秒の人が本番だけ5秒になったりはしないけど、バスケなら100点取る時もあれば60点で終わる試合もあるよねって意味です。




