フェリクス殿下の奮闘
婚約者が可愛い。
その1点に尽きるとフェリクスは本気で思っている。
レイラの体を抱き締めた瞬間、新たな世界が開けた。
彼女の体は柔らかくて、力を入れれば潰れてしまうのではと思うくらい華奢で、しかも彼女からは花のような、かぐわしい香りが仄かに漂っていた。
思わず首筋に顔を埋めそうになったのは、ここだけの話だ。それをしたら確実に嫌われる。それは嫌なので、そんな己の欲求は無視した。
拒否をされることなく労るように背を撫でる白くて細い手は、普段から手入れをしているのか艶々としていた。治癒系の魔術や薬草は手荒れなども克服しているらしい。
実際に働いている姿を見なければ、彼女が医務室勤務だとは気付けない可能性もありそうだ。
おずおずと背中を撫でられて、フェリクスは確かに高揚した。
好きな人に触れてもらえることが、こんなにも嬉しいとは!
その後は、嬉しすぎる贈り物をくれて、彼はその衝撃に取り乱した。
どうして、あんなにも可愛いのだろう。
無意識なのだろうか? 対の指輪の片方を渡すなんて、初心でいたいけな男を一体どうするつもりなのか?
彼女が既に身につけていた指輪は、首にかけられていた。
もう、正直どうしたら良いか分からなくて。
些細なものだとレイラは言うけれど、フェリクスからしてみれば、些細なものどころじゃない。
何があっても逃がしはしないと改めて己に誓った。
何しろ対である。
対の指輪だ。
期待するなと言うのが無理な話では?
その後に現れたメルヴィンの前で、平常心を装うのが大変だったし、なんならその日は高揚頻って眠れなくて、結局徹夜した。
婚約。
その響きが特別神聖に聞こえるのは、重症だろうか?
フェリクスは紆余曲折を経て、レイラ=ヴィヴィアンヌと婚約をすることに成功した。
ついに婚約者という立場を得ることが出来た。
兄であるメルヴィンを宥めすかし、押さえ込み、理論的に迫り、半ば騙すような手口で「今しか好機はない」と彼を煽り、最終的には己の手のひらの上で転がした。
ギリギリ嘘は言っていない。詐欺とかでは決してない。
レイラにも様々な手練手管を駆使して丸め込んだ。彼女は頼られることに大変弱かったため、最終的には善良な彼女の同情を引く形で、己の望む結果を得ることが出来た。
リーリエの件で胃が痛くなったり頭が痛くなったり、魔法薬を使い始めたことは本当だったし、内心疲れきってはいたけれど、外に出す程ではなかった。
だけど、これを利用出来るのではと思い立ち。
つまり、苦しげな表情を盛った。
フェリクスは人に対して「助けて」など言わない人間だけれど、今の状況が使えるなら使う。躊躇いはない。
レイラに甘える自分に対して、「誰だ、この男?」と思った。
我ながら気色悪かった。
とにもかくにも、そうして好きな女性と婚約の形へと持ち込み、彼女の兄とも定期的に交流を図ることにした。
彼の様子を見て面白い人だと興味を抱いた……という理由もあるけれど、レイラと共にあるためには、彼女の兄の信頼を得るべきだというのが1番の理由だった。
リーリエ対策ということで、彼女の兄もあえて巻き込むことにより、一体感を得てもらい、完全に味方に引き込む。
人間は、ある程度長い時間を共に過ごすと、警戒心が緩んでいく生き物だ。
メルヴィンの場合は妹のことについて語る相手があまり居なかったようで、尚更相乗効果を狙える。
正直、ある意味素直なヴィヴィアンヌ兄妹を相手にしていると自分の性格の悪さが露呈した。
友好的な彼らを見ていると罪悪感が込み上げて来て、とても申し訳なくなって、良心が疼くのだが……。
正直に言ってしまえば。
反省は大いにしているが、後悔はしていない。
正直、すまないと思っている。
そして。
レイラが素敵な贈り物をくれた、特別な日。
あの日から数日間、フェリクスとレイラ、彼女の兄のメルヴィンとリーリエ対策を話し合った。
レイラは慈善事業の件で、何度か孤児院に足を運んでいたが、以前のブレイン=サンチェスターの件で立腹していたメルヴィンもその間、レイラに付き添って孤児院に顔を出していた。
対策会議は、その合間をぬって行われ、レイラが婚約者という立場になってからの今後について皆で話しあっていた。
基本は3人で話し合うが、レイラが彼女の叔父の世話を焼く間は2人で会議が行われた。
レイラの前では出来ない会話が主。
そういう理由でレイラの兄であるメルヴィンとの間で行われている話し合いだが、その話し合いはまとまりかけていた。
それはある日のこと。レイラが叔父を無理やり叩き起し、ちょうど研究室の外へと引きずり出していた頃……、いつもの来賓室では、男2人の作戦会議が行われていた。
「フェリクス殿下。貴方からレイラに話しかける回数を2回だけ増やしても良いですよ。あの女とはさり気なく距離を取っていくつもりなのでしょう? なので今回は特別です」
「ありがとう。婚約者とそれなりに上手くやっているように見せないとリーリエ嬢対策にならないから、助かるよ。友だち以上恋人未満の距離感は保つから安心して。設定としては、友情よりの信頼。3割の恋情」
「1割にしてください。レイラに気付かれない程度で! 誑かすのは禁止です!」
「……分かった。百戦錬磨の恋愛達人が見抜ける程度の押し隠した恋情程度にしておく。これ、噂かき消せる?」
「問題ありません! その手の友人をさり気なく配置するので! 彼の商談を操作して、そこに居合わせるように誘導します! きっと次の日にはその友人が噂をばら撒くでしょう!」
意味の分からない会話だと誰しも思うだろう。
正直、フェリクスもそう思う。
何の話かというと、今度また別の孤児院へと訪問する際に、フェリクスがレイラに話しかける回数についての話である。
意味が分からないと自分でも思うが、提案したのはフェリクス自身である。
孤児院訪問のメンバーとしては、フェリクス、レイラ、メルヴィン、リーリエ。
この4人で向かう際、リーリエに張り付かれては大変困る。物凄く困る。
フェリクス王子は婚約者のレイラ=ヴィヴィアンヌと良好な関係を築いている。リーリエ=ジュエルムとの噂は眉唾ものだったのだと皆に認識してもらわなければ意味がない。
リーリエを刺激しないように配慮しつつ、レイラとは、仲睦まじい婚約者同士っぽい会話をしたいところだが……。
そこでレイラの兄、メルヴィンが立ちはだかる。
あまり最初から警戒されるのは、今後のためにも都合が悪いので、彼の顰蹙を買うことなく、レイラと仲睦まじい婚約者同士を演じなければならないという無茶ぶり。
──メルヴィンがシスコンじゃなければ、堂々とレイラを口説けるのに。
それこそ、「周りにそう思わせる必要があるから」とか何とか言って、堂々と口説く。
演技と思われても良い。まずは彼女に意識してもらうところから始まるのだから。
リーリエを刺激しないように配慮しつつも、フェリクスの想い人という噂をばら撒く。
そうしてリーリエとの不名誉な噂も消えてハッピーエンド。
もちろん、そう上手くいかないのが人生だ。
メルヴィンは正真正銘のシスコンである。
なので、苦肉の策。
回数制限である。レイラに話しかけるタイミングと回数、特殊な事例に対応出来るように事細かに予めマニュアルを決めておくのだ。
たとえば、リーリエに引っ付かれた場合のマニュアル。これは、リーリエに近付かれた際に他の者に声をかけ、さり気なく逃れるために決められた内容だ。
パターンAならば、レイラに声をかけて良し。パターンBならばメルヴィンに声をかける……などと、対応パターンを出来うる限り予測しておいて、その通りに行動していくのだ。
さらに、一時的にリーリエの話相手になる回数も定めて、個々の負担を軽減する試みもしている。
そう、最初から全て決めておく。
予め決められていれば、兄のメルヴィンに目くじらを立てられることなどないし、一応彼に誠意を持っていることは伝わるはず。
ポイントは、フェリクスから提案したという事実。
──とか、なんとか自分で言い出しておいてなんだけど、正直意味が分からない。何故、私はこんな回りくどく面倒なことをしているのだろうか?
ついでに、何故メルヴィンはこんな面倒な話に乗ったのか。愛か。妹への愛なのか。
その事細かなマニュアルを平然と頭に叩き込めるメルヴィンは何なのだろうか。さすが名領主になると噂されているだけのことあって、優秀な頭脳を持っている。
だが、その優秀な頭脳の使い方がとても残念である。
「よーし! レイラに変な噂が立たないためにも頑張りましょう! 殿下!」
「そ、そうだね……?」
「レイラに頼られるなんて、久しぶりなので。腕が鳴ります」
「そ、そうか……」
ちなみにこのメルヴィン。レイラにちょっと頼まれただけで、即了承したらしい。
レイラをこんなことに巻き込むなんてと言われたらどうしたものかと思っていたが、彼女が上手いこと彼を懐柔したらしい。
「可愛らしく上目遣いで『お兄様だけが頼りなのです……』って言われたのですが、凶悪だと思いませんか? うちの妹は世界一……」
「……」
──え。羨ましい。
上目遣い。それは凶悪的に可愛いかもしれない。
レイラの預かり知らぬところで、男たちは暗躍していた。
──まあ、こういう積み重ねが信頼に繋がる訳だし、良いか。
将来、レイラと穏便に婚姻を結ぶため、少しでも心象を良くしていきたい。
──家族に祝福された方がレイラも嬉しいに決まってる。うん。その方が良い。
フェリクスの中で、彼女と結婚することは決定事項だったが、それを2人の兄妹は知らない。




