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2日後、ヴィヴィアンヌ家に来訪したフェリクス殿下は、何故か上機嫌だった。
「よっぽど解放されたのが嬉しかったのかしら」
『それは違うぞ』
思わず零した独り言に、ルナは即答した。
上等の来賓室に案内したところで、お父様の代わりにお兄様が駆け込んで来た。
「はあっ……はあ……レイラ。待ったかな……ぜえ、はぁ……」
しかもものすごく息が切れてる。
「お父様はどうされましたの?」
「……僕が、代理で……はあっ……はっあ……」
話し合いがあるということは、お父様の仕事内容が変更されたのかと思っていたがそうではなかったようだ。
お兄様はどうやら走ってきたらしい。
「ヴィヴィアンヌ侯爵は仕事だったと聞いてね。しばらく話し合いは出来ないかと思っていたんだけど、メルヴィン殿は早めに対策をしたいだろうと思ってね。だから彼を代理ということで諸々の手続きを進めてみた。侯爵の仕事の代理もこなしていると聞いたし、大切な妹のことなのだから関わりたいかと思ったんだ」
まさかすぐに話し合いが行われるとは思わなかったけれど、思っていたよりもトントン拍子で決まっていく。
息を整え終えたお兄様が教えてくれた。
「殿下が早めに予定を立てて伝えてくれたおかげで、僕も時間を捻出出来たんだ。……諸々の手続きが早くて、とても助かりました。殿下。父上に任せるのも良いですが、レイラのことです。蚊帳の外で居たくないのです」
ただの手続きだというのに、お兄様にとっては譲れなかったらしい。
お兄様とフェリクス殿下が手続きをしていくのを半ば夢心地で私は眺めていた。
もちろん、話はしっかりと聞いていたし、今後のことなども頭に入れていたが、どうも実感が湧かない。
婚約なんて絶対に受けるつもりはなかったのに、本当に人生は何があるか分からない。
書類にサインをして封をした後、殿下はそれに魔術をかけた。
ふわりと白い鳩の姿になった書類が窓の外へ出ていくのを眺めながら、これで婚約者になるのだと思えば、不思議な気分だった。
「そういえば、陛下の許可が呆気ないくらい簡単に出たんだよね。それだけが不思議だ。まるで私がそれを言い出すのを待っていたみたいな……。まさかそんなことはないと思うけど」
「陛下も、リーリエ嬢の件では頭を抱えていたのでしょう」
「……」
あっはっは、と笑っている2人だけど、私は叔父様に聞いて知っている。
以前から伏線があったことを。
あの時は、不穏だとブルブル震えていたけど、まさか私が了承するなんて。
やはり運命や因果というのは侮れない。
何が起こるか分からないのだから。
「名目的に婚約者になったから、王城への立ち入りも前より出来るようになったと思う。せっかくだし、2人のための客室も用意しようかと思う。図書館や書庫も使える範囲が増えたと思う」
「書庫!」
思わず目を輝かせる私の頭を、お兄様は撫でてくれている。
『微笑みというより、ニヤケ顔だな』
それは言ってはいけない。私も少し思っていたのだから。
「兄妹2人で気軽に……とはいかないかもしれないけど、機会があったら探索するのも楽しいと思うよ」
「王家の素晴らしく芸術的な庭園で佇むレイラ……良い!」
『自分家の庭でも似たようなことを言っていた気がするが』
お兄様は私が何か行動する度にこうなので、いい加減、私も慣れている。
それでも習慣で、ついジト目で眺めていたら。
フェリクス殿下は、クスクスと楽しそうに笑っていた。
「私も一応、兄だからね。メルヴィン殿の気持ちも分かる。立場上、弟を溺愛っていうのも表立って出来ないから、2人を見ていると少し羨ましいな」
『王太子の発言は、どこからどこまでが本気なのか、本気で分からんな』
「そういえば、殿下も兄上ですからね。なるほど……道理で僕の気持ちを分かってくださると思いました」
お兄様が感動で打ち震えている。
基本、シスコンでドン引きされることしか無かったから、殿下のように普通の反応をされることは珍しい。
「レイラは本当に女神ですし、可愛らしくもあり、美しくもあり、ただそこに居るだけで僕の心を洗ってくれる存在なんです」
『この兄の心が清く洗われたことなど、1度でもあっただろうか』
本当にルナはお兄様の何を見たのだろうか?「やはり燃やすべきなのだろうか」などと物騒なことを言い始めているのが怖い。
何がルナをここまで駆り立てるのか。
フェリクス殿下は出来たお人で、お兄様の話に相槌を打ってくれている。
というか、お兄様。恥ずかしいから止めて欲しい。お願いだから普通の会話をして欲しい。
「とにかく! だから変な虫がつかないか心配で心配で! だってこんなにも可愛いでしょう!?」
「彼女は社交界でも有名ですからね。今までさぞかし大変だったでしょう」
「分かってくれますか!」
フェリクス殿下がすごい。お兄様の面倒くささを見事に神回避している。
「可愛いでしょう!?」って同意を求めているが、ここで私の容姿を素直に褒めた場合、「お前もレイラを狙っているのか!?」とか言い始めるし、適当に返事をすれば、「お前の目は節穴か!」と返してくる。
非常に面倒なので、正直まともに会話が出来ない。
殿下のすごいところは、お兄様を刺激しないようにあくまでも一般論で返事をして、さりげなく話を逸らすところである。
あと、お兄様の前で私に必要以上に話しかけないところも正直助かった。
あくまでも私とお兄様の2人に、友好的な微笑みを向けているのだ。しかも、物凄く健全で爽やかな空気を纏っている。
この間、目のハイライトをなくしていた人とは思えない。あれは何だったのか。
この人、もしかしなくてもヤバい人?
最終的には、「ドレスは兄である僕が選びたい」やら何やら言っているお兄様に「メルヴィン殿は彼女の似合うものを1番知っていそうだね」とフェリクス殿下が返していた。
何故、私の着るものの会話になっているのか。
というか、私のことだけで、よく長時間も会話が持つよねって思った。
フェリクス殿下もヤバい人だけど、お兄様もヤバい人だ。
しばらくして話し合いが終わり、フェリクス殿下が馬車に乗り込むのを見届けた後、お兄様も帰って行った。
なんだろう。何もしていないのにすごく、疲れた。
称賛されて疲れるって、普通におかしいと思う。
『たまに思う。ご主人のするーすきるとやらが上がったのは、あの兄のせいであると』
否定出来ないのが悲しい。
疲れたまま部屋に戻ると、見慣れないテディベアが置いてあった。
可愛らしいチョコレート色のテディベアの瞳は、フェリクス殿下の瞳の色に似ている宝石で。
テディベアが抱えているのは、可愛らしいメッセージカードだ。
「殿下の字……」
名前だけ書かれているそれを私は指でなぞる。
「あれ?」
メッセージカードを取り外したその下。
首にかけてあったのは、テディベアの瞳と同じ宝石で作られたブルームーンのペンダントだった。三日月の形をしていてダイヤモンドも使われている。控えめだが趣味の良いアクセサリーだった。
そのメッセージカードで一見すれば、アクセサリーがかけられていることには気付かない。
『もしあの兄に見つかったとしても、気付かれないようにと苦肉の策だったのだろうな……』
「ああ……なるほど」
なんだか、そんな気がして来た。
恐らくお兄様は、そういう婚約者っぽいイベントを見るのは嫌がるだろうとの配慮なのかもしれない。
でも何も持ってこないのもアレなので、豪華なテディベアを贈ったと。
本命のペンダントを隠して。
これが噂に聞く婚約者への贈り物!
……私の方からも何か贈り物をしたい。ベタだけど刺繍のハンカチ……とか?
「まさか、初日にこんなに素敵なプレゼントを……。それに、何から何までご迷惑を……」
お兄様のせいで胃炎が悪化したら、どうしようと少し思ってしまった。
私は、ペンダントを手に取って、そっと胸元に当ててみる。
「ふふ……」
好きな人からもらう初めての贈り物。
私は不思議な高揚感を胸に、その日はテディベアを抱き締めて眠ったのだった。




