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連投失礼します。
クリムゾンは私の体をぐいっと引き寄せた。
すぐ目の前には麗しい顔。髪とは違い、本来の色である金の瞳が私の瞳を覗き込んでいた。
「距離が近いです!」
「そうですか?」
鼻先が触れてしまいそうなくらいの距離にパニックになりそうになって、私は身動ぎしていたけれど、それは無駄な抵抗に終わる。
手が! 離れない!
掴まれた手首は離してもらえなさそうだし、身動き出来ない。
どういうつもりなのかと思っていたら、クリムゾンは私にさらに顔を近付けた。
「レイラの紫色の瞳は、宝石のようで本当に綺麗ですね。間近で見ると吸い込まれてしまいそうで、1度囚われてしまうともう2度と目を離せない」
突然、歯の浮いたような台詞を言い始め、何の脈絡があるのか分からないまま、私は顔を真っ赤にしながら戸惑いつつも、目の前の男を見つめる。
もし、こんな姿を見られていたらどうするのだ。
さっきだって、殿下は私たちが居ることに気付いたようだし。
ジタバタと暴れようとする私を力で押さえつけるクリムゾンは何かを面白がっていた。
「ちょっと……離れて──っあ!」
何の冗談かと魔術を発動させようとした寸前、突然後ろから何者かが私を引き寄せた。
その温もりと香りには、どこか覚えがあって。
「殿下!?」
私をクリムゾンから引き剥がし、自らの背に庇うようなフェリクス殿下の姿があった。
「彼女から離れろ」
地を這うように低く、恐ろしげな声がこの場に響いた直後、クリムゾンが壁に叩きつけられる。
力任せの勢いでクリムゾンが壁にぶつけられ、それは明らかに痛そうな鈍い音だった。
「っ……!」
微かなクリムゾンの呻きと、殿下のぎりっと手を握り締める音。
私を背に庇うようにしながらも、フェリクス殿下は、あろうことかクリムゾンの胸ぐらを掴み上げ、詰め寄っていた。
私の方から殿下の顔は見えない。
だけど、こうした殿下の姿を見るのは初めてだった。
品行方正で暴力など無縁の殿下がする行動とも思えなかった。
「レイラに何をしている」
「何も? というか、何かしたところで貴方には関係ないはずですが?」
「良いから答えろ!」
激昂したフェリクス殿下の声に、私の方がビクリと身を竦めた。
「交流のある家の者同士、交流を深めていただけですよ」
「そんなことを聞いているんじゃない!」
「良いんですか? 完璧な王太子の仮面が剥がれていますよ?」
珍しく冷静さを欠いた様子の殿下にクリムゾンは口元を愉快そうに緩めながら煽った。
フェリクス殿下はハッとしたようだったが、胸ぐらを掴んだ手はそのままだった。
「今はそんなことはどうでも良い。私は彼女に触れるなと言った。彼女に何をしたのかとも聞いたんだ」
「さあ? ご想像にお任せします。レイラと俺の間の話。忙しい王太子様には関係のないお話です」
「関係なくはない。彼女は私の友人だ。彼女におかしな噂が立つことを見逃す訳にはいかない」
クリムゾンは、殿下の言葉に面白いものでも聞いたとばかりに鼻で笑った。
「友人……ね。……まあ、ともかくとして、俺にこんなことをしている時点で、おかしな噂になると思いますよ? この光景、傍から見たらどう見えるか」
「……っ」
少し冷静になったフェリクス殿下は、少々乱暴に胸ぐらを掴んでいた手を離した。
「……っ。強く握りすぎなんですよ」
「相変わらず、お前は気に食わない」
「それはお互い様というものでは?」
この2人、元々知り合いだったのか。
しかもここまで険悪って。
クリムゾンの表情は、この邂逅が不本意だとばかりに不愉快そうに顰められていた。
殿下の表情は、分からない。
頑なにこちらを向かず、顔を見せることのないまま、クリムゾンと対峙しているからだ。
「ねえ、フェリクス殿下。貴方には、あの光の魔力の女が居るでしょう? 突然こんなところに来て、彼女は置いてけぼり。戻って差し上げては?」
「護衛は付けた」
「ほう? 先程の一瞬で? 抜かりないお方だ。私たちを見て狼狽していらっしゃるから、冷静ではないと思っていましたが、なかなか冷静なようで。けっこうけっこう」
不遜な物言いは、殿下を積極的に煽って弄んでいるように見えた。
2人の険悪な空気に私はと言えば固まっていた。
何かしら口を挟んでくるルナも黙り込んでいた。
それもそのはず。先程までフェリクス殿下の周りには恐ろしい程の魔力が渦巻いていたのだから。
あの魔力量は恐ろしく、精霊ですら何も言えなくなってしまう程で。
アビスも一言も口にしなかった。
そんな中、わざと殿下を怒らせるような物言いをするクリムゾン。
心臓に毛でも生えているのだろうか?
「レイラに、婚姻前の年頃の令嬢と、みだりに2人きりになるな」
非常識だとフェリクス殿下の目は告げていたけれど、クリムゾンはその言葉を聞いた途端、肩を震わせ始め、やがて盛大に笑い始めた。
「あっははははは! 貴方がそれを言うとは。光の魔力持ちのあの女と2人で居る貴方が? 事情はどうあれ、傍目から見れば貴方たちは、それ相応の仲に見えるってことは自覚しているのですか? そんな貴方がレイラに近付いたら、迷惑ですから」
「……」
フェリクス殿下は、痛いところを突かれたとばかりに押し黙った。
「だから、他の女と2人で居る貴方にそれを言う筋合いはありません。その時点で、レイラが誰と居ようが人のことは言えない。その資格もない」
こちらを咄嗟に振り向いたフェリクス殿下の表情は切羽詰まっているようにしか見えなかった。
私は殿下の事情を分かっていた。殿下は既に私に迷惑をかけないようにしてくれている。
それを言いたかったのに、私の唇は震えて上手く動かない。
止めるべきなのに、私はこの空気に圧倒されていた。
「そもそもね、俺は貴方が気に食わない。何でも手に入るそのお立場ですよね。俺が欲しいと思ったもの、全て貴方は手に入れられる立場にあるじゃないですか。……なら、1つくらい俺が持っていても構いませんよね? 俺はほとんど持っていないのだから」
何かの宣戦布告をしているような錯覚。
意味を深く考える余裕は、私にはなかった。
殿下は苦悩した様子で零した。声だけでもそれは分かった。
「何でも手に入れられるからこそ、私は簡単に欲しがる訳にはいかない。……だから何もかも持っている訳ではない」
ただ、どんな表情でそれを言ったのかは私からは見えない。
2人が無言で対峙する中、様子がおかしいと思ったのだろう。
リーリエ様が駆けてきたところだった。
何やら争っている一部始終を目撃した彼女は、予想外にもこんなことを言った。
「光の魔力の持ち主である私を欲しがる人はたくさん居ます。ですが、私は貴方の元には行きません!」
「は?」
クリムゾンは呆気に取られた後、失笑した。
「貴女のことで争っているとでも勘違いしたのですか?おかしなところで自意識過剰な女性だ。……俺は光の魔力に興味はないのです。奇跡を起こせる程の力があっても、俺たちの目的には恐らく役に立たないだろうから」
なんとも意味深なことを口にした。
もちろん、リーリエ様もあからさまな嫌味には気付く。
「なっ! 失礼ですよ!」
「おや、失敬。俺も少々気が立っておりますので、つい本音が……」
『この男、各方面に喧嘩を売っていないか、なあ。黒猫』
『我が主は少々ひねくれておりまして、煽り癖があるのですよ。狼殿。貴方のところの主は素直で可愛いのに、うちの主と来たら。どうしてこんな風になってしまったのでしょう……』
『嘆かわしい風の口調だが、声が笑っているぞ。黒猫』
精霊たちの会話が聞こえてくるが、何故か彼らはいつもよりも本気の隠形魔術を使っていた。
もしかして、リーリエ様の精霊を警戒している?
「ブレイン、と言ったかな。お前には今から2人で話がある」
「奇遇ですね。俺もあります」
男2人はまだ、威圧し足りないのか、別室で話し合いの場を設けるところらしい。
リーリエ様の訪問は中止となり、彼女は有無を言わさずに馬車で送り返されることになったのだった。




