62
「……殿──フェリクス様」
間違えそうになっただけなのに、圧のある笑顔を向けられて慌てて訂正する。
「何かな?」
「兄のメルヴィンがリーリエ様の護衛の任を受けたというお話の件で……手を回してくださったと父に聞きました。お気遣いに感謝申し上げます」
殿下のおかげで、お兄様は1度だけ顔を出せば良いことになったのだ。
「ああ。これ以上ゾロゾロ集団になっても無駄が多いし、何よりヴィヴィアンヌ家に迷惑をかけたくない。メルヴィン殿は、今まで通り領地経営に邁進して欲しいからね。さすがにリーリエ嬢の滞在中ずっと拘束するのは、ね」
てっきりお兄様までも、リーリエ様の元へ集うのかと戦々恐々していたので、ホッとしている。
「兄も安心しておりました。ご迷惑をおかけしたのは大変申し訳ないことですが……」
「既得権益を求める貴族たちが余計なことを言っただけで、貴方たちは完全な被害者だ。むしろ、面倒なことに巻き込みそうになってごめんね」
広々とした庭園の薔薇を眺めていた殿下は、こちらを振り向いた。
酷く大人びた表情のフェリクス殿下は、私の方へとそっと手を伸ばした。
「……!」
思わず身を引きそうになるのを堪えてじっとしていたら、髪に優しく指先が触れて、何かを摘んだ。
「花びらがついていたよ。どこからか飛んで来たんだろう」
「あ、ありがとうございます」
私、自意識過剰すぎる……。何かされるかもとか思って身構えようとするなんて、殿下にも失礼だし、何より……。
恥ずかしすぎる!!
僅かに頬を染めている私をどう思ったか、殿下は小さく笑みを零すと、花びらをそっと離す。
花びらは風に攫われていく。
ふと真剣味を帯びた声が呼び止める。
「レイラ」
恥ずかしがっている場合ではなさそうだと思い至り、私も居住まいを正した。
「はい。どうなされましたか?」
「貴女に聞きたいことがあるんだ」
改まって何だろう?
「──何なりと」
フェリクス殿下は苦々しげに顔を歪めて、私の手をおもむろに下から掬い取った。
え?
「ブレイン=サンチェスター公爵令息とは、いつ知り合った?」
「はい? ブレイン、様ですか?」
一瞬誰のことを聞かれたのか分からなかった。
ブレインとは、クリムゾンの名前だ。本人は貴族としての名前と言っていたが、本名ではないのだろうか?
私の中では、クリムゾン=カタストロフィと認識されていたせいで、名前と顔が一致しなかったため、きょとんとしてしまった。
「彼との関係について聞きたい」
その瞬間、掬い取られた手の意味を理解した。
質問に答えさせるため、決して逃げないようにと、いつでも手を捕まえることが出来るのだという圧力。
殿下は、私が手を振り払えないことを分かってやってるのね。
聞きたいことを聞くまでは逃がさないという意思表示。
手を下から掬われ、指先を軽く握り込まれている。
なんて答えたら良いのだろうかと一瞬迷う。
『ご主人。あの男の正体が件の侵入者だということはとりあえず伏せておけ。あの男が敵か味方か分からない以上、刺激を与えないで置く方が賢明だろう』
確かに殿下に打ち明けてしまえば、クリムゾンがどう行動するか分からない。
言う言わないを決めるのは、この場でなくても良いのでは?
とりあえず嘘は言わないでこの場を乗り切るのだ。
「ブレイン様とお会いしたのは、夜会の日、皆様がお集まりになる前です。早めのご挨拶にいらしたのです」
「あの時が初めて?」
「ブレイン様と会うのは、初めてです」
例の嘘は言っていないぞ作戦である。
「少々お話させていただいたところ、なかなか愉快な方でして、仲良くさせてもらいました」
色々な意味で。
「へぇ」
「家同士のお付き合いですよ。だから彼とは初対面ですよ」
「そう」
あれ?
だんだん機嫌が悪くなってきたような?
「初対面、ね。初対面だというのに、あの男は一体どういうつもりなのか」
「殿下?」
「呼び方が戻っている」
「あっ、はい」
このお方はあまり表情を出すお方ではないけれど、ずっと見てきたから分かる。
恐らく今、とても機嫌が悪い。
私、何を間違えたの!?
「家同士のお付き合いなら、ダンスが終わった後も片時も離れず傍に侍るのも普通? 婚約者でもないのに?」
「たまたまですよ」
目には見えない圧のようなものを感じて、私は少し身震いした。
「たまたま、ね。これは私の勘みたいなものなんだけど、何か妙な事件に巻き込まれたりしていないよね?」
ギクリ。
『王太子はするどいな』
ルナはもはや驚くことを辞めたらしい。
「初対面であそこまで馴れ馴れしいなんて、ブレインとやら貴女に何か思うところがありそうだ。……あまり追求するのも執拗いだろうし、これ以上細かいことは聞くつもりはないよ。でも、レイラ」
するりと手を離すと、フェリクス殿下は私の頤を掴んで上向けて私と真っ直ぐ視線を合わせた。
距離を縮められる。
近い……!
赤面しそうになったけれど、深刻そうな彼の顔を見たら、それどころではなくなった。
空気がピリピリする錯覚。
殿下は私に何か大切なことを伝えようとしている。
「もしも何かあったのなら、貴女にはクレアシオン王国の王太子──フェリクス=オルコット=クレアシオンの名を出せば良い」
「フェリクス様、もしかして」
私は侯爵家の令嬢。ブレイン──クリムゾンは公爵家の令息。
ようするに、身分を笠に着て何か意に沿わないことをされているなら頼れということだ。
殿下自ら私に約束してくださるとは思わなかった。
「心配、してくださったのですね」
「個人的に思うことは色々あるけど、最優先事項はレイラの安全だ。サンチェスター家に一応悪い噂はないようだけど、貴女の尊厳は守られるべきものだから」
顎の下を優しく指先でくすぐるように撫でた後、彼は私から身を離す。
「レイラは、私にとって大切な人だ。貴女の事情を全て知っている訳ではないけれど、それでも寄り添うことくらいはしたいと思ってる」
不誠実なのは私だ。彼に隠しごとをいくつもしている。
そんな秘密の香りを嗅ぎとってもなお、フェリクス殿下は私のことを友人として想ってくれている。
「フェリクス様。これからも貴方の友人として相応しい人間になるためにも精進いたします。どうかよろしくお願いいたします」
「……友人として、ね。うん」
何故か微妙な顔をされたのが解せない。
誰かを信じることも、誰かと親しくなることも相変わらず恐ろしいことだし、私の正体を明かすことも出来ないけれど、でも。
できる範囲で自らの問題に目を背けず、諦めずに抗い続けていれば、少しはフェリクス殿下の友人として相応しくなれる気がした。
人間不信で自分不信。自らの業。せめて諦め続けないでいられれば、と思う。
「フェリクス様。私を友人と仰ってくださって、ありがとうございます」
私は幸せものだ。尊敬出来る友人が居るのだ。
それに好きな人にある程度信用してもらえている。
「友人……うん。私とレイラは友人だ……」
「はい!」
友人という言葉はいつ聞いても嬉しくて、私は自然に笑みを零していた。
このままの関係性で満足していた。
しばらくニコニコと笑っていたフェリクス殿下は、しばらくして何故か頭を抱えた。
何故に?
『ご主人……そなた。繊細な男心を……。案外と残酷だな……。いや、何でもないぞ』
最近、ルナはよく分からないことを言うことが多いと思った。




