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水面に映る満月が、風に煽られゆらゆらと揺らいでいる。

木々の香りと、辺りを漂う月花草の花の香りが鼻腔を満たす。

月の光のみが闇を照らしている光景は、幻想的な空間を生み出している。

今日はさらに蒼の炎が辺りにキャンドルのように点っていた。

湖にそれらが反射して、キラキラと輝いていて美しい。


蒼のキャンドルを生み出した張本人である青年の、穏やかな低い声が耳心地良く、静かに響いていく。

「ほら、静かな水面を見ていると、心が落ち着いて来るでしょう?おまけに邪魔も入らず、安らぐことが出来るこの場所は私にとっての楽園のようなものでね」

『そうですね、殿下』

私は声を出す代わりに持っていた手帳に文字を書いていった。筆談である。

狐火のような蒼い炎が私とフェリクス殿下の周りを囲んでいるため、私の書いた文字を見て、彼は嬉しそうに笑う。

何の面白みもない返事だというのに、このやんごとなきお方は、はしゃいでいる。


さもありなん。


今の私は、ここにレイラ=ヴィヴィアンヌとして居るのではなく、フェリクス殿下の初恋の君である月の女神としてここに居る。


つまり眼鏡なしの素顔でここに居るのだ。悲しいことに眼鏡はポケットの中。


私たちが初めて会った湖の畔で、私は今夜、ありのままでフェリクス殿下と向き合っていた。


どうしてこうなったのだろうか?


『ご主人、もはや腹を括ってしまえ』


ルナだけは味方だと思っていたのに、最近のルナは私が奮闘すればする程、まるで無駄なことをしていると言いたげである。


ことの始まりは今日の朝に遡ることになる。




それは、今朝。それも早朝。



「レイラ。月花草を取りに行くのはいつですか?」

フェリクス殿下とリーリエ様のことを話してから、さらに1週間経過していた今日、叔父様がふと私に問うて来た。


「あっ……」

「もしかして、忘れていましたか?ここ最近忙しかったですからね」

「ごめんなさい。私から言い出したことなのに」

今の今まで忘れていたことに申し訳なく思う。

「レイラが取りに行ける時で良いですよ。僕が取りに行っても良いんですが、いつ呼び出されるか分からないものですから」

それはそうだ。私は医療関係者だし、資格もあるけれど、私が居なくなるよりも彼が居なくなる方が不都合が多い。

今年入ったばかりの新人と、もう何年も続けているベテランとでは後者の方が常駐した方が良い。

私は叔父様の助手みたいなものだし、やはり叔父様にしか出来ない仕事もある訳だ。

「……確か、ちょうど今日から3日の間に咲くと思うの」

「ちょうど良い時に思い出せて良かったじゃないですか。どっちにしろ、取りに行くのだから問題ありませんよ」

研究第1の魔術オタクだが、仕事への理解はきちんと示す人だ。

私が忙しくしていることを知っているため、責めることは一切しない。

前回のリーリエ様相手の時みたいに八つ当たりをする大人げなさはあるけれど、基本的にはマトモな部類だと思う。

変なところが目立ちすぎるため、イロモノ扱いされるだけである。


「叔父様、月花草を使って、今回は何を作るの?」

「精神干渉系魔術の解除薬を作ろうと思っています」

「精神作用系って毒みたいに解除するのは難しいのでは?それに魔術で人の心に干渉出来る程の力を持つくらい強大な魔術師は居ないような気がするわ。それに、どちらかと言えば、あれは精神医療になるような……?」

質問した瞬間、叔父様の目がキラリと光った。

あ、この反応は。


「ふふ。そんな魔術師が現れる前に対抗策を打っておくのが、出来る研究者ですよ!」

叔父様は力強く熱弁し始める。

『また始まったな』

ルナの呆れ声も聞き慣れました。

「一見無駄と思われる研究もいつか役に立つ時がきっと来る!ならば、結果的にそれは無駄な研究ではなく、絶対的な研究成果も同然!」

『無駄と思われる研究をしている自覚はあったのだな』

「うわあ……ルナ、辛辣……」

普段から、肉食獣のような目でルナをガン見しているせいだろうなあ。

叔父様はコホンと咳払いをする。

「精神系統の魔術を行使するとですね、一時的な魔力の層みたいなものが神経系に纏わりつくのですよ。その層が精神を無理矢理、ねじ曲げているのですが、やがて精神そのものが変化しきった時、無理矢理ねじ曲げる力はお役御免になるのです。その時点でお役御免になった魔術は役目を終えて解けているのですが、ねじ曲げられた精神はそのまま」

「それでは、やはり精神系統の魔術の解除なんて出来ないのでは?やはりそういったものは時間をかけて少しづつ改善していくものではなくて?」

時間をかけて、本来の形に戻していく治療方法は、医療魔術と本人の精神に頼ったものだ。


「だが、しかし!解けたと思われた魔術ですが、残滓は微かに残っているのですよ。その魔力の残滓を一時的に増幅して、擬似的な魔術発動状態へと移行してしまえば、なんと!解除が出来てしまうのでは!?と考えました」

私は首を振った。

「一時的に増幅してしまえば、被験者の精神はどうなるの?」

「ふっ、さすがレイラ。痛いところを突きますね」

嫌な予感しかしない。


「一時的に……2日くらい?狂って暴れたりすると思いますが、3日目に正常に戻るので問題ありません」

「いやいやいや。狂ってちゃダメでしょ!」

「レイラ……。何かを治すためには、何かを犠牲にしなければならないのですよ……」

何か良いことを言っているように聞こえるけど、犠牲になっちゃ駄目だと思う。


「計算上では問題ないのですよ」

「それ、狂化学者が言っている台詞だと思うの。叔父様」

「薬の名前は、満月の狂気」

狂ってちゃ駄目じゃん!

ええ。こんな良く分からない薬のために、月花草を取りに行くの?


気が乗らないながらも、約束を守るのは淑女としての定めであり、義務だ。


仕方ない!行ってやる!と思い立ち、早速今夜、以前と同じ場所に夜も更けた頃に向かったのである。


そこから先はとにかく怒涛だった。


湖が月に照らされ、以前見た美しさに見蕩れていた私は、足を滑らせ、またもや湖の中に転落した。


暗くてどこからどこまでが湖なのか分からなかったのだ。

ばしゃーん!と騒がしい音を立てて水の中に落ちていく私。


『ご主人─────!!』


落ちる私に慌てるルナの叫び声。

もうね。私も2回も同じことするなんて思ってなかったの。

「これは……酷い」

幸い、身体強化の魔術で溺れることもなく顔を出した。

すぐにバシャンと顔を出して、落ちそうになる眼鏡をポケットの中へと仕舞う余裕もあった。


まあ、良いや。寮に戻って乾かせば良いやと、服がびしょびしょのまま、畔へと近付き手を伸ばして、差し出された手に咄嗟に捕まった。


ん?差し出された手?


横を向くとルナは狼姿のまま。


え?誰の手?


はい。その手は、運が良いのか悪いのか、フェリクス殿下の手だったのです……。


「年頃の女性が異性の前で服を濡らしているのは良くないよ。……目に毒だ」

引き上げてくれた殿下は目を若干逸らしながら、そんなことを言った後、火の魔術を使い、服を乾かしてくれた。

ありがたかったけど、私は内心それどころではなかった。

服が張り付いて気持ち悪かったから本当に助かったのだけれど!


声を出したらレイラだとバレるので、苦肉の策として筆談を始めたのだけど、何故か殿下は今回突っ込んで来ることがなかった。

何か事情があるのだと察してくれたのだろうか?

とにかく、声さえ出さなければバレないのだから、どうにかするしかない!

『ご主人、そなたは知らないかもしれないが、王太子は……』

ルナはごにょごにょ何かを言った後、私の影の中へと溶け込んで行った。

『まあ、世の中には知らないことがあっても良い』

しかも含みのある台詞を言って。


ものすごく気になるけど、今はそれどころではない。

先程から、この場所の美しさを語っている殿下からどうやって逃げるべきなのか。






そういう経緯で今に至り、私は今、フェリクス殿下と並んで座り、湖を眺めているのである。

「湖に月が映るから神秘的で、貴女が現れた時も月の女神かと思ったよ。髪の色も銀色だし、月の明かりに似ている気がした」

『そうなんですね。ちなみに私は人間です』

うわあ。情緒の欠片もない。

普段、私が書いている字とは違う形で筆談しているため、まともな台詞を考える余裕なんてないのだ。

どんなに字を変えたところで本人の癖みたいなものは抜けきらないらしいけど、見比べて筆跡鑑定をする訳ではない。

ここでチラッと字を眺めるだけなのだから、さすがにそんな癖字を鑑定するなんて殿下も出来ないはず。

少なくとも私は出来ない。

「人間なら、触れても消えないのかな?」

「っ……!?」

私の銀髪をひと房掬い取って、そっと口付けられて、変な悲鳴が出そうになった。

そういうことをするのは止めて欲しい。切実に!


そういえば、殿下は月の女神に一目惚れをしている。だからなのか、声がいちいち甘ったるい気がする。

応えるつもりがないのに、気を持たせるようなことをするのは残酷だ。

ズリズリと殿下からさり気なく距離を取っていれば、私の片手に手を乗せて、それを阻止された。

え?何で、引き止められるの?

と思った頃には、そっと寄りかかって来た。


「ここは誰も邪魔しないからね。私がこんなことをしても貴女を除けば、誰も気付かない」

「……」

肩にこてんと寄りかかり、殿下の頬が当たる。

まるで甘えるみたいな仕草だった。


近い。近すぎる。


好きな人の傍に居て、こうやって触れ合っていることは奇跡だとも思うけど、私には刺激が強すぎて。

重ねられた手の下で自らの手をゴソゴソと、抜き取ろうと奮闘する私に気付くと、殿下はそろそろ頃合だと思ったのか。


私からすっと身体を離し、重ねていた手も外したのだ。


殿下は、私の様子を見てる。様子を確認しながら、触れてくる。

触れられた私が困っているのを察すると、すぐに離れていくのは気遣いだ。

もう無理と思った瞬間に、タイミング良く解放してくれる。


キョトンとしている私に殿下は言った。


「無理強いは何の意味もないからね。私は貴女にこうして直接会えただけで嬉しい。普段は会えないからね」


殿下は好意を隠そうともせずに、甘い声で囁いた。

こうした真っ直ぐな想いが伝われば伝わる程、自分が酷いことをしているのを自覚する。

彼の想いや告白をなかったことにした上に、こうして姿を隠して、嘘をついているのだ。

自分が死にたくないから、と無下にしてしまっている。

期待させるようなことをするのは残酷だ。応えるつもりがないのなら、拒絶するべきなのに、私は彼の傍に居たいからと、医務室のレイラとして彼の友人になっている。

最低な行いをしているからこそ、早く離れた方が良いと知っているのに、それでも。

殿下は今の私がレイラだと気付いていなくて、今の私に殿下が一目惚れしたということも知られていない設定で……。

とてもややこしくなってきた……と思う。


告白されてもいないのに、拒絶したら自意識過剰だろうか?

そもそも、一目惚れは、どこまで本気なのか。


悶々と悩み続けるおかしな私を指摘することもなく、フェリクス殿下は優しげな眼差しで私を見守っていた。


だから分かってしまった。

この人は、確かに私を好きなこと。


そして改めて思う。


私って最低だ。


俯いていく私に殿下は声をかける。


「この場所はね、特別な場所なんだ。この湖は何の効能があるか分からないけれど、微弱な魔力の気配を感じるし、そもそもこの場所は選ばれた者しか入れない。邪な者は近付けない、異界だ」

「……?」

突然、どうしたのだろう?

「そんな特別な場所でこうして並んで座っていること、私たちの出会いに、何か意味がある気がして素敵だよね。……ここで貴女と出会えたことが私にとっては特別なんだ。……だから、何かを申し訳なく思う必要はないんだ」

まるで心を読まれたような錯覚を覚えた。

私は先程からそんなにも酷い顔をしていたのだろうか?


『貴方はここに昔から来られているのですか?』


会話の糸口が掴めなくて、当たり障りのない質問を投げかけた。

フェリクス殿下はうん、と軽く頷いた。


「疲れた時、前からここで横になって空を眺めるのが習慣だった」


だから、初めて会った夜も、殿下は1人でこんなところに居たのか。

静寂で神秘的な湖。

その湖に名を付けるならば。


「ここはね、精霊の湖なんだ」


ああ。まさしくその名が相応しいと思った。


この日の出来事は、私の思い出の1つになった。

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