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 光の魔術の行使はあまり見たことはなかった。


 胸の前で手を祈るように組んだリーリエ様は目を閉じて、辺りに光の粒子を巻き起こした。


 ふわりと花の香りが辺りに広がり、柔らかな風が巻き起こり、周囲の人々を包んでいく。


 暖かな、春風みたいな……。

 私の消費していた魔力さえ回復していく。


 倒れていた人々は、運ぶことよりもまず応急処置を優先していたのだが、彼らの火傷の傷が見る見るうちに消えていくのを目にした。

 意識を失っていた人はぼんやりとしながら、その場に起き上がっていく。


 光の粒子により、周辺は眩い光の中にあった。


 私は彼女の頭上で旋回している光の精霊の姿を見て、あまりの神々しさに、見とれた。


 これが光の魔術。ただでさえ魔力の消費が激しい治癒魔術をいとも簡単に行えるなんて。


 リーリエ様は微笑んでいて、まるで聖女のようで。

 疲れなど微塵も見せないまま、光の魔術を行使していた。


「女神だ……」

「違う。聖女だ……!」


 この場に居た者たちは、リーリエ様を取り囲み、歓声を上げている。

 とりあえずこの場で私がやることは終わったということは分かった。


 あまりリーリエ様と顔を合わせるのは得策ではなかったため、そっと引っ込んで裏道へと入っていった。


『すごい盛り上がりだな』

 苦虫を噛み潰したようなルナは、どうやらあの光の精霊があまり得意ではないらしい。

「あんなに強力な治癒魔術、見たことないもの。それより、そろそろ戻ろうと思うのだけど」

『学園にか?』

「あまり私が彷徨いているとボロを出しそうで……」


 そろそろ着替えて、こっそり学園に戻ろうと画策していた。

 素顔を見られたこともある。

 幸い、有耶無耶になって身を隠すことが出来そうだ。

 フェリクス殿下は私を逃がさないと言っていたけれど、構うことはない。

 逃げられるなら逃げるべきだ。

 責任ある立場だから、私に構うことは出来なかったのだろう。だから逃げ出すことが出来た。

 感情に捕らわれずに冷静に判断して指示を飛ばす彼が王になるのなら、将来は安泰だ。


 裏道を少し進み、さらに曲がろうとした時だった。

 曲がり角から現れた誰かと思いきりぶつかり倒れかける。

 がしっと肩を掴まれ、支えてくれる誰かを目にした途端、己の不運を呪った。


「貴女は何故、こんな裏道に?」

「……」


 フェリクス殿下も、何故こんな暗い道に居るのですか?


 まさか、こんなことってないだろう。こんな裏道、誰も通らないような場所で誰かと遭遇すること自体珍しいのに、よりによって今会いたくない人とぶつかるなんて、私は何かに呪われているのだろうか。


 通って来た方向──後ろを振り向き、殿下が来た方向を確認し、本当に私たち二人きりだということを確認した。

「奇遇だね。何故こんなところに居るのかは分からないけど、ここで会えて良かった。私がここに居なければ二度と会えなかったかもしれないからね」

 さっきまで聞き取りとか仕事とかしていたはずだけど、何故こんな暗い場所に居るのか。

 早く表に出た方が良いのでは?

 そんな思いが顔に出たのか、フェリクス殿下は思い至ったように教えてくれた。


「念話で報告を受けたんだ。今、私があの場所に戻ったら面倒なことになる」


 あの場所。リーリエ様が奇跡を起こした場所。

 あの場を掌握したリーリエ様と王太子であるフェリクス殿下が並んで、リーリエ様がいつものように紛らわしい行動を取ったならば確かに面倒そうだ。


 なんというか、あることないこと噂にされて、学園内の噂どころではなくなるというか。


 光の魔術を扱う特別なリーリエ様が想う相手は王太子。

 物語めいた符牒。お膳立てされたように揃った舞台。

 民衆という目撃者。


 これは外堀が埋まっていくやつだ。


「……」

「ほとぼりが冷めるまで隠れていようと思ってね。少し話し相手になってくれる?」


 伸びてきた手は私の手首を掴む。

 私を傷付けないように優しく触れられているだけなのに、触れられているだけで胸がいっぱいになってしまって、私は振り払うことが出来ない。

 逃げたいと思っているのに。

 触れられたら逃げられない。魔術を使われている訳でもないのに。

 殿下が私に触れる。そんな単純な事実に私は翻弄されている。

 私の手を掴んだり肩を抱き寄せていたりするのは、無意識に知っているのかもしれない。

 私が隙さえあれば逃げようとしているということを。

 そして無意識に知っているのかもしれない。触れられた瞬間から、私が抗えないということに。

 自分の感情が厄介だった。


 かくして、質問という名の尋問が始まった。


「貴女は一体、何者? 所作や仕草から、貴族令嬢というのは分かるよ」

「……」

 そっと視線を逸らながら、適当に頷いた。


『声を出したら終わるぞ』

 ルナの忠告が辛い。話さずにどうしろと。


「私と会ったことがあるんだけど覚えてる?」

「……」

 ふるふると私は首を横に振った。

「……それと先程から聞きたかったのだけど」

 こちらへ殿下が来るから、少しづつ私は距離を取りつつ後退する。

 ゆっくりと、私は追い込まれていく。

 壁に背中がとんっと触れて、まるで閉じ込めるみたいに殿下の手のひらが真横についた。

 気が付けば壁に追いやられる形になり、俯いた私の顎にかけられた指で、さり気なくゆっくりと上に上げられる。

 私を脅かさないように、優しく丁寧な手つきで、繊細な壊れものを扱うように彼は私に触れている。

「目を逸らすのは何故? 貴女が話せることは知っている。それなのに何故、私の前では口をきかないの?」

 合わせられた視線は私を責め立てているように見えた。

 子どもと目を合わせるように、ゆっくりと覗き込まれる。

 触れる手は優しいのに振り解けないのは、私の意思が弱いせいかもしれない。

 

 ハロルド様と話していたのも知っているし、それに応急処置のために奔走していたのも見られてる。

 ちらりと遠くへと視線をやり、このままここで話していて良いのかと思っていたら、殿下は私の頬を軽く撫でる。

「あの場の騒ぎが治まるまで少し時間がかかるからね。私の時間はまだたっぷりとあるよ。声を聴かせてくれるまで逃がさない」

 声を聞かせたら、それで済ます問題なのだろうか?

 余計に問題が発生するのは目に見えている。

「何も答えなくて良いから、まずは貴女の声を聞かせて」

「…………」


 空白の時間が過ぎ去っていく。

 音もなく、お互いの息遣いに気を配りながらどれだけ時間が経過しているのか分からないまま、無言が続く。


「どうか、声を聞かせて」

 それは切望か嘆願か、哀願か、懇願か。

 それだけで良いと、彼は望んでいた。

「………………」

「ただ、声を聞かせるだけなら出来るよね? ハロルドたちとは会話をしていたのだから」

「…………」 

 その通り過ぎて固まることしか出来ない。

「声を聞かせることも出来ない?」

「………」

 フェリクス殿下は何も答えない私を不敬だと罰することはしないらしい。

 ただ、焦れに焦れてしまっていたらしく、溜息をついた後に、私の顎を掴み固定すると。

「十秒以内に何も言わなかったら、キスする」

 それは強硬手段だった。

 秒数を数えるフェリクス殿下の声は、低いままで彼が何を考えているか分からない。

 十秒なんてあっという間だ。私は結局何も言えないままで。

 この状況で何を言えば良いの?


「……時間切れだ。なんて強情なんだろうね」

 今にも唇同士が掠めて触れそうな程、顔を寄せられて、私はぎゅっと目を瞑った。

 唇同士が重なる寸前、ピタリとフェリクス殿下の動きが止まる。

 そっと薄目を開けておそるおそる様子を窺えば、ふっと吐息が唇に触れる。

「どうやら貴女はキスをするより、声を出す方が嫌みたいだね」

 フェリクス殿下はおもむろに顔を離すと、仕方なさそうに笑った。

「淑女相手に無理矢理どうこうなんてするつもりはないよ。少し脅してみようと思っただけ」

 いまだ壁に背中はつけたままだし、腕が囲いのようになって彼と壁の間に閉じ込められている状況だけど、どうやらこれ以上何かが起こることはなさそうだ。

 フェリクス殿下は、紳士だ。無理矢理触れるなんてしない人だった。

 もしかして私の方が自意識過剰だったり?

 羞恥からか、私の顔は熱くなっている。

「そんなに怯えられると、物凄く悪いことをした気分になるな」

 顎はしっかりと固定されているため、目は逸らせない。

 キスはしないけれど、間近で私の目を覗きながら、顎を掴んでいた親指が、私の唇を愛撫するみたいに触れる。

 何気ないその行動にビクリと身を震わせつつも、声を決して出さない私の様子に、殿下の苦笑は深まった。

「うーん。ここまで強情とは。……いっそのこと、くすぐってみる?」

「……!?」

 殿下の手が脇腹付近に添えられる。

 それもそれで淑女にやることではないと思う!

 悪戯を思いついた子どもみたいな表情をする殿下を見て、本能的に危機感を覚えた私は、魔術を発現させた。

 絶対にこれは本気だ! 目が本気だから分かる!

 身体能力強化の魔術をかけて、慌てて身を捩り振り払って、殿下の腕から抜け出して。


 事故が起こった。


 何かに思いきり噛み付いた感触。

 ガリッという嫌な音。

 口の中に広がる血の味

 そして視界に映るのは、親指から血を流す殿下の姿。

 状況が飲み込めない中、ルナが端的に解説する。

『ご主人は無意識に王太子の指に噛み付いた。その結果、血が出た。以上だ。良い噛み付きっぷりだったぞ、ご主人』

 たぶんそこは褒めるところじゃないと思う……。


 や、やってしまった。

 どうやら逃げようとして、私の唇を撫でていた殿下の指を思いきり噛んだらしい。

 確かに思いきり何かに噛み付いた気がする。

 私は犬か。淑女としてこれはどうなの。

 いやいや、待って。本当に淑女としてこれは……。

 しかも流血なんて、なんて猟奇的な……。

 状況を理解していくと、とんでもないことをやらかしたことに気付く。


「大丈夫、大丈夫。それほど傷は深くないし、ハンカチも一枚で良いから」

 動揺した私はポーチの中からハンカチを5枚くらい出して、慌てて殿下に押し付けていたようだ。

「ごめんね。ちょっとした悪戯心だったんだけど」

 どう見ても本気の目をしていたと突っ込むことは出来ない。加害者は私。

 なんということをしてしまったのか!

 あ、相手は王族……。前回のキスといい、私って。……私って。

 青ざめる私とは逆で、殿下の様子は普通だ。

 痛がったり怒ったりすることもなく、むしろ微笑んでいる気がする。

「狙った訳ではないけど、私にとっては非常に都合が良かった。今日は貴女と会えたし、ついている日なのかもしれない」


 何を言っているのだろう。

 殿下が訳の分からないことを言っている。

 とにかく指の怪我を治さないといけないと思った私が彼に一歩近付いたところで。

「私の血を口にしたからか、貴女の中から私の魔力の気配がする。王家の魔力は強いし、貴女が完全に自分の魔力として取り込むのに数日はかかるだろうね」

 私はハッとした。どうやら殿下の血を口にした後、無意識に飲み込んでしまったらしい。

 魔術師にとって、血は魔力の塊と言っても過言ではないというのに。

 血を材料として使い、行う魔術は数えきれない程あるというのに。

 血を採取してしまえば、魔術師の特性を詳らかにしてしまうことも可能で、つまり、それ程までに魔術師の血というのは重要な意味を占める訳で。

 それを少量とはいえ、体の中に入れてしまったということの重大さ。

「自分の魔力の気配くらい探すのは簡単だ。ふふ、貴女を探すための数日間の猶予が出来たようだ。貴女がどんな格好や姿をしていても、確実に見破る自信があるよ」

 殿下は、余裕ありげに微笑んだ。

 嫌な予感がする。非常に嫌な予感がする。

 早く、帰ろう。出来るだけ、早く。

 対策をするためにも帰らなければならなかった。

「貴女も混乱しているようだし、また明日会いに行こうかな」

 それは勝利宣言。この場は逃がしてあげると彼の目が言っている。


 落ち着いて確認してみると、己の中にある魔力に、他人のものが混じり込んでいるのが分かる。

 それも主張するみたいな顕著さで。


 私は、とにかくその場を離れたくて逃げ出した。

 これは戦略的撤退である。

 時折後ろを振り返ってみれば、フェリクス殿下はまだ私を見送っている。


 本当にどうしよう?

『ご主人。分かっているとは思うが、そなたから別の魔力の気配が強まっている』


 本当に王家の血筋は、末恐ろしい。どれだけの魔力が血に溶け込んでいるのだろう?

 ほんの少しの血液だったというのに、私の体内の魔力は今までとは比べ物にもならない程に増加しているのだから。


 どこに居ても私は、見つけられてしまうだろう。それだけは分かった。

 これは数日、殿下の魔力が私の体内に存在することになるかも。

 いつまでも逃げられないことは分かっていたけれど……。

『ご主人。そなたは正体を隠したいのだろう? まだ方法はあるぞ』

「ルナ?」

『ご主人はどう感じたか分からんが、先程の王太子は珍しく感情的だったようだ。それを見抜けなかった私にも責任はある。協力出来ることはしよう』


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