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ベッドの中、こちら側に体を傾け、私を見上げるフェリクス殿下は一瞬傷付いた表情を確かに浮かべていた。
人の顔色ばかり窺っていた私は負の感情にとても敏感で、殿下のそれにも気付いてしまった。
一瞬だけ浮かべたそれは、何事もなかったかのように引っ込められ、彼は今度は困ったような苦い微笑みを浮かべていた。
その変わり様にぞっとした私は、とっさに殿下の手をぱしっと掴んだ。
今の殿下の苦しみの表情には既視感があって、この手の苦しみを見逃してしまえばどうなるか私は知っていた。それは、前世から蓄積された条件反射。
この表情は、駄目だ。この人は、溜め込むタイプの人間だ。
そういう性質の人は隠すのがとても上手い。表面上からはなかなか気付かれないから、後回しにされて、後々とんでもないことになる。
「レイラ?」
きょとんとした表情は、少し無防備で、その瞬間私はハッとする。
私は何をしているの!? 殿下相手にいきなり手を掴むなんて無礼を!
前世の感覚から現在の感覚へと戻り、私は青ざめる。
「ご、ごめんなさい!」
ぱっと掴みかけた手を離して、距離を取ろうとしたのだけれど、そうは簡単にいかなかった。
「待って」
ぱしっ、と今度は私の手が掴まれた。
ビクリと身を震わせる私に構うことなく、掴まれた手首ではなく、だんだん手のひらを重ね、指と指を絡めるような繋ぎ方になっていって。
呆然と固まっていた私をよそに、最終的には恋人繋ぎになっている。
「……」
しかもガッチリと繋がれてなかなか外すのは難しそうだ。
「随分と必死に見えるけど、私は消えたりしないから安心して。ただ……少し疲れただけだ。……でもどうやらレイラは私の感情を読み取ったようだから、少しだけ話を聞いてもらおうかな?」
押し隠そうとした感情を私は偶然にも暴いてしまったらしい。
とにかく放置してはいけないと思った故のとっさな行動。
殿下の苦しみに気付いたことを当の本人に気付かれてしまったようだ。
安堵の吐息の後、私の手を軽くにぎにぎしながら殿下は語り始めた。
「今、リーリエ嬢と恋人同士だという噂が立っているのは有名だと思うけど」
「そうですね。よくその話題を耳にします」
「先に言っておくけれど、それは私にとっては不本意なんだ」
思っていたよりもハッキリと否定された。
この部屋に居る人間は私たちだけ。
「2人きりになっているのは、たまたまというか、偶然というか、自分でも何を言っているのか分からないが、とにかく私の意思じゃない」
詳しく話を聞いてみると、どうやらリーリエ様と2人きりになるという空気が出来上がってしまっているらしかった。
その結果、何をするにも一緒で、授業すら一緒に行動して、隣を向けばいつもリーリエ様という日々だったらしい。
ゲーム補正か何かに近い強制力すら感じられる。一瞬それを疑った。
ハロルド様やノエル様も、無意識に彼らを2人きりにしているのも、何か理由があるのか偶然の産物なのか。
だけど。
ハロルド様もノエル様もあまり社交的ではないため、理由がなければリーリエ様の相手をしないようにも思える。
そこに違和感はないように思えるけれど、周りの男子生徒たちの変な気遣いは何なのか?
「リーリエ嬢は、私にはっきりと好意を示して来ている」
「……周りの男子生徒たちが変な気遣いをされているのは、そういう理由なのでしょうか?」
「たぶんね」
つまりはカップルを応援する体制に入っているということか。
あるよね、そういう空気。学生ならではの。
男子生徒からの評価が高いのは、彼女の貴族令嬢らしからぬ振る舞いが珍しくて目を惹いたのかもしれない。
彼女、初対面でも明るくて笑顔だものね。
「驚くかもしれないけれど、女子生徒たちからは特に何もないんだ」
女子生徒が本格的な虐めや嫌がらせをしないのは、私が以前やった活動の成果かもしれない。
もし、リーリエ様に目立った嫌がらせがあったらさらに状況が悪化していた可能性があると考えると笑えない。少なくとも、殿下はさらに疲労を増していたかもしれない。
過去の私にありがとうと言いたい。
「リーリエ嬢が女子生徒たちに反感を持たれているのは知っているよ。女子生徒たちの手綱を取ってくれている誰かが居るおかげで今は平和なんだ」
手綱?もしかしてそのラスボスっぽい誰かって。
『どう考えてもご主人だな』
ルナの一言に私は震え上がった。
どうしよう。変な肩書きが増えた。そういえば1番相応しいのは私だとか前に言われていたっけ。
だからといって、手綱を取る系の令嬢にはなりたくなかった。少し悪役令嬢っぽいのだもの。
内心震えながら聞いてみる?
「その誰かってどなたなんですか?」
「その誰かの正体は、ユーリに探らせても正体は掴めなくて。それどころか、本人すら知らぬうちに勝手に担ぎ上げられた疑惑が浮上していて。これ以上は分からなかった。誰もその令嬢の名前を口にしないらしい」
フェリクス殿下は、それを語る時には興味深そうに悪戯めいた顔をされている。
謎が謎を呼ぶと、ムキになって謎を暴きたくなるタイプらしい。
むしろ、女子のコミュニティにそこまで接触出来るユーリ殿下がすごいと思った。
水面下で話題になっているとは聞いていたけど、思っていたよりも情報規制がすごかった。
結束力がすごすぎない?
「本人すら知らされずに……ですか」
確かに言われなかったら気付かなかった。まさかそこまで影響力があるとは思っていなくて。
「その誰かには巻き込んで申し訳なかったけど、正直女子生徒たちがリーリエ嬢に辛く当たっていたら面倒なことになっていたと思う。リーリエ嬢は貴族の風習になかなか馴染もうとしないから、女子からの当たりはもっと強いと思っていた」
どうやら女子となかなか仲良く出来ない様子から、もしもの事態を想定していたらしい。
そこまでリーリエ様に気を配るということは、もちろん理由がある訳で。
「私は、陛下にリーリエ嬢を気遣えと言われているんだ」
強調して言われた言葉と、フェリクス殿下の目を見て、それが言葉の通りではないことを私は確信した。
それは気遣え、ではなくて。
王家に逆らえないようにしろ、という命令なのではないか?
リーリエ様の類まれなる力を悪用される訳にはいかず、よそに奪われる訳にもいかない。
結論として、表向きフェリクス殿下はリーリエ様には逆らえなくなっている?
そこまで行ったら機嫌取りみたいなものじゃないかと頭が痛くなる。
ゲームでは語られていなかった真実。
言われてみれば当たり前の理由。
ゲームでは個別ルートに入ったら、2人をメインとした物語になるけれど、どうして都合良く2人きりになって、2人だけの物語になるのか不思議だった。
つまり、リーリエ様が気に入った相手ということなの?
ゲームでも現実でも、ヒロインは攻略対象を選択する。
前世でゲームをやっていた時は、ゲームだからご都合主義か何かだと私は思っていた。
王命、ね。殿下は立場上、はっきりと言えないらしくそれ以上は言わないけれど、なんとなく分かったことがある。
殿下はリーリエ様のことを好きな訳ではなかったのだ。
この先はどうなるか分からないけれど今のところは。
「大変、ですね」
何を言えば良いのか分からなくて、それでもその一言以外、彼は求めていないようだったから、それだけ一言返事をした。
「青春とは程遠いだろう?」
「……はい。お2人のことを知らないまま、余計なことを言ってしまって……申し訳ございません」
謝ることしか出来ない。
「謝らせたい訳じゃない。知ってもらいたかっただけなんだ。……楽しそうなハロルドやノエルたちを見ていたら、普通の学園生活がほんの少しだけ羨ましくなっただけで」
彼は何でもないように笑っている。
「……」
これは恐らく本音だ。
好きでもない人と四六時中共に居るのは、どんな感じなのだろう?
彼は自分の意思など関係なく、個別ルートへと括り付けられてしまったも同然なんだ。
恋愛感情どころか、2人きりを求めていなかった彼に突きつけられたのは何なのか。
これが現実か、ゲームの強制力なのかは置いておくとして、これは間違いなく攻略対象の悲哀そのものだ。
リーリエ様は選ぶ立場で、殿下は選ばれただけだった。
そして1度しがらみに囚われれば後は……。
疲れたように目を閉じていたフェリクス殿下の髪を思わずそっと梳いた。
柔らかな金の髪は、手入れがされていて、触り心地が良い。
王命ということは、他にも色々と命令があったのかも。
15歳という年齢ながら優秀な殿下は既に執務もこなしていると聞く。
執務をして勉強をして、リーリエ様の相手、か。普通に考えても大変そう……。
表にそういった事情を一切出さないというのも、それはそれで強い。
それで目の下のクマということは、寝不足もプラスされている。
まだ子どもなのに、少年なのに。
前世の大人の感情が少しだけ湧き上がってきて、庇護欲に近い何かが私を満たす。
思わず目の前に居るのが、王子ということを忘れかけ、頭を撫でていた。
『ご主人』
ルナに呼びかけられ、ハッと我に帰った私は手を退けて、平謝りした。
「も、申し訳ありません! 度重なる無礼を……」
私は、何を。
「許して欲しい?」
殿下の顔には苦痛の色は見えず、今は楽しそうだ。
「ええ、もちろん」
ぺこりと頭を下げれば、殿下は予想外のことを言い出した。
「さっきの、続けてくれるなら許しても良い」
「は?」
さっきのって、頭を撫でていたアレ?
思い切り子ども扱いしていたアレですか?
繋いだ手を解かれて、頭の方へと移動させられる。
「頭を撫でられるのは幼い頃以来だよ」
「ええと、本当に申し訳なく……。あの他意はなくて」
「他意がないなら出来るよね」
「……」
『ご主人。人間、死んだ気になれば何でも出来るという』
いやいや、死んだら駄目でしょ。
心を無にするんだ。そう、目を瞑って撫でていれば、誰を撫でているかなんて分からない。
そうっと手を動かしていれば、指先に触り心地の良い髪が触れる。
目を閉じているとその感触がなんというか。
うう。私の馬鹿。微かな笑い声の元は殿下からだ。
少し面白がってない?
髪の感触から、私のより大きな手に包まれ、手は剣の稽古からか硬い感触がした。
何事かとここで私を目を開けて。
直後そのまま硬直して赤面する羽目になる。
ベッドの上に横になった殿下は、私の手を両手で包んだまま、指先に軽く唇を落としたのだ。
「……!?」
悪戯が成功したみたいに密かに笑う殿下が憎い。
自分が魅力的だと分かっている顔つきだ。
流し目とか角度が分かっているから出来るんだと思う。
ぱっと手を引っこ抜いたけれど、彼は素直に逃がしてくれた。
「じゃあそろそろ、レイラの言う通り、仮眠取ろうかな」
本人はこんなことを言っているし!
キスされた指先を押さえながら、距離を取っていれば、コンコンコンと外のドアがノックされた。
『ご主人。光の精霊の気配がする』
外に居るのが誰か分かった。
とりあえず、殿下に会いに来たのだとしても、仮眠の時間くらいはそっとしておくべきだと思う。
「はい。今、そちらに参ります」
務めて冷静な声を心がけて私は返事をした。




