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リーリエ様は健気なのか、フェリクス殿下に自分の熱意を伝えている。
「守ってくれる恩返しに将来役に立つためにも、勉強はしっかりしないとね」
「……そう、頑張って。学んだことは人生の糧になるからね」
フェリクス殿下たちが勉強している丸机の近くの本棚に姿を隠しつつ、盗み聞きをしていた。
この辺りの棚に用があるのは本当だから、断じて職務怠慢ではない。
少し耳が声を拾ってるだけで。
少し息を潜めているとはいえ、別に疚しいことはしていない。
「光の魔力持ちだし、精霊とも契約しているから、フェリクス様の役に立つことも出来ると思うの」
「……無理に役に立とうとしなくても良いんだよ。貴女がやりたいと思うことを優先して?」
対する殿下の声は落ち着いていて、ゲームの時とも違う声音だし、話している内容も違う。
リーリエ様は天真爛漫で素直な人。
何を会話するにしても、まず相手の出方を窺う私とは真逆の性格。
その真っ直ぐな性格も、その立場も羨ましいと思ってしまうところが、私はヒロイン向きではないのだろう。
私は十分恵まれているのに。
書名に目を移し、ため息をつきながらも指で辿りながら引き抜いたりを繰り返す。
考えごとをしながらも器用に仕事をしていく。
ゲームのシナリオ通りにフェリクス殿下と私が婚約していたら、きっと悲惨なことになっていたかもしれない。
何しろ私の性格はあまりよろしくないからだ。
婚約者なんて甘い夢を見ていたら、その夢に押し潰されて現実でも苛まれていただろう。
「婚約しなくて良かったな……」
ぽつりと呟いて誰にも聞こえないはずだった。
「おや、貴女は婚約をお受けにならなかったので?」
真横に満面の笑みを浮かべる黒髪金瞳の男。
一瞬誰かと思いきや、黒の髪の毛が一瞬だけ紅色に変化をしたのを見て、私は思わず本を落とした。
少し前に出会った侵入者のクリムゾン=カタストロフィの顔をした男が目の前に居たのだ。
また、異界を通じて侵入して来たとでも言うの?
「なっ……なんで」
何も言えない私の近くに顔を寄せると、囁いた。
「俺の名前はクリムゾン=カタストロフィです。俺が俺だけのために付けた名前ですから。だから、誰も俺の名前を使う者はいない」
つまり、この名前を公表したところで意味がないと言っているのだ。
そして、この男は、自分のためだけに付けた名前をヒロインに教えるのだ。本来は。
何故私に教えるの? リーリエと出会う前に私に出会ったから?私は無垢でも純粋でもないし、どちらかと言えば性格は歪んでいる。
「ふふ、貴女と俺は似ていると思うんです。同族、同輩? 同胞でしょうか?とにかく似た匂いがします」
何故校内に居るの? そしてこの言葉も知らない。
私が興味を持たれた理由は精霊を使って少し戦ったからかもしれない。
すっと離れて行った彼は紳士的に微笑むと、再び問いかけてきた。
「ところで、レイラさん。貴女結婚をやめたのですか?」
「あのっ、声が大きいですよ!」
何故、その話題を言うんだ。しかも、私がここに居て、この男と結婚の話をしていることがフェリクス殿下にバレたじゃないか。
その証拠にぽつぽつ聞こえていたはずの殿下の声が先程から聞こえなくなった。
少なくとも私がここに居ることはバレた気がする。
「話は違うところで聞きますから」
「俺はどこでも良いですし、何でも良いですよ? ふふ、貴女に会うという目的は達成出来ましたし」
なら帰ってくれないだろうか?
とりあえず手元の資料を全て借りることにして、その場を離れれば後ろをひょこひょこついてくる背の高い魔術師。
物珍しそうに周囲を観察している彼に気付く者は居ない。
いつの間に使ったのか、隠形魔術を。私たちが使うものと比べ物にならない程、精度は上だ。
叔父様が居ることを期待して、医務室を覗いてみるけれど、案の定誰もおらず肩を落とした。
この人を視認出来る人、居ないかしら?
それか穏便に帰らせる方法を知りたかった。
今のところ特に害はなく、私以外に声をかけている訳でもない。だから騒ぎにするのもはばかられる。
どうしたものかと思っていれば、彼は私の前に回り込み、「では、俺は今帰るので」と早口で言うと、目の前で忽然と消えた。
「……もしかして今この時に異界に消えてる?」
『高度な精霊反応があったから、その可能性が高い』
ルナが言うからにはそうなのだろう。
突然現れて特に意味もなく消えていくフリーダムさには呆れるけれど。
とりあえず名前を教えてもらったのは予想外の展開で、しかもこちらの名前も知られていた。
色々と違いすぎて、ゲームなどとても参考にならない。
「……仕事しよう」
借りてきた本を机の上に置いて、再び図書館に戻ろうと医務室のドアを開けた瞬間、目の前に人が居た。ちょうど相手もノックをする寸前で、どうやら鉢合わせたようで。
「きゃっ!」
「わっ!」
ぶつかりそうになってお互いに驚いていて。
私の方も驚いた。先程まで図書館に居た相手だったからだ。
「フェリクス殿下? どうかされたのですか?」
先程までリーリエ様に勉強を教えていたはずの人がすぐ目の前に居た。もしかして、クリムゾンは殿下の気配を感じたから出て行ったのかもしれない。
「迷惑なら詮索は止めるけど、さっきの大丈夫だった? 切羽詰まった様子だったから気になって」
医務室の中を覗いているのは、クリムゾンが居るか確認しているのだろう。
まさかすぐに殿下が来てくださるとは思っていなかった。
どうやら私のことを心配してくれたらしい。婚約とか結婚とか会話内容はアレだったけど。
「客人はすぐに帰りました。どうやら私をからかうことが目的だったらしく」
他に何と言えば良いのか分からない。クリムゾンが来ていたことを伝えても、特に意味はなさそうだ。ルナのお墨付きで目の前で異界に移動してしまった瞬間を見ただけ。
予想していたよりも簡単に呆気なく、異界へと消えていったので微妙な気分になった。
「からかう……?」
クリムゾンの意味深な発言がからかっているとは思えないのか、彼は戸惑っているようで。
「大丈夫ですよ。本当にそれだけです」
それよりもレイラは他のことが気になっていた。
もしかして、殿下、寝ていないの?
目の下にクマが薄らと出来ていて、疲れているように見えるのだ。
「そう。……なら寄っていっても良いかな」
納得しているように見えないのに、彼はそう言って追求をしないでくれた。
「はい」
患者用のベッドに案内したところで、彼を少し押さえてみるだけで抵抗なくベッドに沈んだので、寝かせた方が良いだろう。
「酷い顔色です。少し仮眠を取るのはどうでしょうか? リーリエ様の勉強も、あとは彼女自身が頑張ってくださるでしょうし」
「そういえば、さっきすぐ近くに居たから驚いたよ」
ベッドの中で寝る体勢になった彼だけれど、まだ眠る気にはならないのか、横たわりながらすぐ近くに居た私へ目を向けていた。
私は小さな椅子を持って来て、ベッドの横で腰掛ける。
すぐに寝かせた方が良いのだろうけど、殿下はまだ寝なさそうだ。
「……叔父に資料集めを頼まれておりました。その当の本人はここに居ないのですが」
盗み聞きしていたことを咎められる流れだったら、どうしよう。
今更ながら自分が私的な理由でとんでもないことをしていた事実に内心震える。
だって、2人が何を話しているのか気になって仕方なかった。
2人は噂通りの関係なのか、とか。
そんな風に思ってしまうからか、私の口は余計なことを紡ぎ始める。
声が白々しくならないように、嫉妬深くなっていないようにと、そればかり意識した発言だった。
「お2人はよく勉強を一緒になさっていらっしゃるようですね。お2人の仲が親密そうなのを目にすると、青春って感じなのが羨ましいです」
私は明るく言っていた。
心が洗われます!とついでに付け足そうとして止めた。
心が洗われるどころか、心が荒れ狂うというのに。
嘘に嘘を重ねた台詞なんて薄っぺらいだけ。
実際のところ、私が羨ましいと思っているのは、リーリエ様なのだけれど。
だからこの言葉もあながち嘘じゃないのだ。
でも、我ながら酷い迷走具合だ。
殿下に「そうだね」とか肯定されたら私はしばらく立ち直れないかもしれないのに。
この想いは仕舞い込むのを決めたはずなのに時折、未練が疼いて仕方ない。
無言の時間がキツイ。
だからちらりと様子を窺ってみて、私は戸惑った。
「貴女には、そう見えるの?」
「あ……」
苦しそうな顔と同時に彼は傷付いた表情を浮かべていたのだ。
私は今、どうやら彼を傷付けたらしかった。
私は2人の仲について何も知らないのに、余計なことを言ってしまったのだ。




