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  今、この場所に居るはずもない人の声と姿に私は驚いていた。

  ルナは私の肩から手を離しつつも、何やら罰が悪そうにしていて。


「彼女から離れてくれ」


  フェリクス殿下は無表情のまま、氷のような目をルナに向けながら私の腕を引っ張って引き離した。

  一言だけなのに、この場に冷気でも漂っているようだった。

  声も冷えていた。冷たくも燃え盛るような声音。

  紳士的な笑顔を浮かべている殿下にしては珍しかった。

  掴まれた腕が痛いような気がするのだけど。

「……ごめん。痛かったね」

「いえ、大丈夫です」

  痛がった私を見て、すぐに手は離してくれた。



「そなたがそこまで怒るのは珍しい」

  純粋に驚いたからこそ零れ落ちた言葉なのだろうが、それを耳にした殿下は機嫌が悪そうに思い切り顔を顰めた。

「未婚の女性に馴れ馴れしいのは、どうかと思う。肩を抱き寄せてあそこまで密着するのは良くない」

「そう噛みつかずとも、私たちはそなたの心配しているような関係ではないぞ。……なんなら私は外すが?ちょうど、この周辺を1周して異変を確認しておこうと思ったのだ」

  ルナは危険を察知出来るから、これは嘘だと思った。

  目的があるとすれば、魔獣の死体処理や隠蔽くらいだと思う。

「ご主人。上手くやれ」

  激励の言葉。

  つまり、ルナは私と殿下に話す時間をくれたのだろう。


  ルナが緩慢とした足取りでこの場から去っていくのを見届けると、殿下は私に向き直り「元気そうで良かった。それにすぐに見つけられた」と先程とは違い、柔らかな笑みを浮かべて温度のある瞳を向ける。

「あの、ルナは私の家族みたいな従者で……」

「家族?それにしては近すぎるよ」

「……」

  これ以上何かを言っても不興を買うだけだと思った私は、他に言うべき言葉を探す。

  えっと、この状況は……。

  考えた挙句、出てきた言葉はこの状況に尤も適していると思う。

「あの……殿下。この度はご迷惑おかけいたしました。私は問題ありません。その様子ですと、先生方や他の生徒さんは街へ下りられたようですね」

「うん。私たちの方は無事に合流出来た」

「すみません。見知らぬ場所に迷い込みまして……。気がつけば暗くなってしまったので、こんな形に」

  すなわち野宿。食料などは持ってきているし、何ならテントも用意しようと思えば出来る。

  気疲れして何も出来なかっただけで。

「何故レイラが謝るの?」

「ご迷惑をおかけしたので」

「何を言ってるの。迷惑なんてかけてないし、それに私は」

  殿下は一瞬、口を閉ざしたけれど、よく聞いてくれと言わんばかりに私と視線を合わせた。

  逃げようもないくらいに。

 

「ただすごく、心配した」

「え」

  ルナに対して、「肩を抱き寄せるな」「密着するな」と言った本人が私を引き寄せ、自らの腕の中へと閉じ込めた。

「あ、あの! 殿下!」

  背中に手を回され体が密着してしまい、どちらのものか分からない鼓動の音がドクンドクンと激しく鳴っている。

  首元に顔を埋められてパニックになる私とは対照的に、殿下は安堵したように小さく息を吐いた。

  首筋に当たる吐息がくすぐったくて、押し返そうともがいたら、殿下はあっさりと私を解放した。

「彼にあんなことを言いながら、こんなことをしたのは謝る。だけど、反省はしない」

  開き直られていらっしゃる。

  顔が熱くて仕方なくて、パタパタと誤魔化すように手を振っている私を見て、目を細めたりなんてしてくる殿下。

  先程私が座っていた隣、ちょうどルナが居た辺りに座った殿下は、私に手招きした。


「お互いに状況説明をしようか」

  素直に彼の隣に腰掛けていると、殿下が私の手の甲にいつぞやのように手を重ねてきた。

  魔力をじわじわと注ぎ込まれる感覚に、私は身体の力を少し抜いた。


  暖かい。


  体の芯から温まるような。


  実を言うと私の魔力消費は激しかった。

  魔獣を呼び寄せるために使った音声魔術に関してはそこまで消費はしなかったのだが、問題は契約した精霊の力を使ったことだ。

  精霊の魔力は契約者が負担し、その魔力を消費することによって精霊は魔法を使う。

  精霊と意思疎通を交わし、その能力を貸してもらうとはいえ、魔力は自分依存なため、結局のところチートではない。

  それ相応に疲労して動けなくなるので、注意が必要だ。

  道を探すのを諦めたのも実は疲れていたからでもある。

  必要最低限の修行じゃ駄目だなあ。

  体力、魔力を増幅させるために工夫しないと。

  私の実技参加もそろそろ本格的に始まることだし。

「前よりも手が冷えてる」

  自分の手で温めるように包み込む私のより大きな手。

  純粋に心配してくれているからこそ、少しの接触を意識してしまうのが少し申し訳ない。

  手は冷たいのに、顔だけは上気している私を見ても、殿下は何も言わないでくれた。

  気付いてはいるみたいで、少し頬を緩めていたけど。

  この人、絶対タラシだ。無自覚タラシ。


「先生が召喚陣を破壊している間に、レイラは囮役をしていたと聞いた。魔獣の半分も。……私たちを助けてくれてありがとう」

  苦々しい顔をしているのは、どういう心境からなのだろう。

  感謝の念も感じるけれど、随分と心配をかけてしまったらしく、難しい顔をされている。

  重ねていた手は、きゅっと握り締められ、それは離すことが出来なくなった。

「半分……。そう、半分しか引き寄せられなかったのです。残りの半分はどうされました?」

  どうにかして追い払ってくれたのだろう。

  殿下を始めとしてあの場所には手練がたくさん居た。


「最初は、先生方とノエルが結界を強化して魔獣の攻撃を受け止め、私とハロルドとユーリが攻撃魔術を使って殺す予定だった」

「予定、だった?」

  追い払ったのだろうか?それにしては、もうこの森に魔獣が居ないのはおかしい。

「魔獣も必死の形相で。私たちも容赦なく攻撃していたのだけど、それをリーリエ嬢が止めたんだ」


  殿下の説明によると、リーリエ様は契約した精霊の力を発揮し、浄化の魔法を使ったらしい。

  その豊潤な魔力と一点の穢れすらない神々しく神聖な光が魔獣を包み、瘴気を全て取り払ったらしい。

  その結果、瘴気を取り除いて残ったのは、狼の群れが穏やかに眠りにつく光景。

  どうやら元々は動物だったものが何かが原因で魔獣となっていたらしい。

「彼女の力によって、浄化された動物たちはしばらくすると森の奥へと戻って行った。印象的だったのは、リーリエ嬢にお礼でも言うかのように振り向いた狼たちだ」

「……」

  原作と同じだ。

  フェリクス殿下を始めとした仲間たちに協力してもらい、狼の群れを浄化し、この危機を乗り越えたのだ。

「さすが、リーリエ様です」

  さすがヒロインだと思った。生き物を傷付けない慈悲の心に、それを貫くことが出来る力を持っている。

  口だけではなく、それをやり遂げる実力があったのだ。

  リーリエ様自身に何を思っている訳でもないけど、少しだけ虚しくなった。

  戦闘について私が説いたことも、きっと彼女には必要なくて。

  結局のところ、口煩い令嬢というイメージを与えてしまっただけになったのだ。


  これだけ足掻いているのに、シナリオがほとんど逸れることがなかったことも、虚しい。


  あ……。でもレイラの怪我は阻止出来た?

  私は怪我が残ることもなく、ここに居る。


  それに私は今、一人ぼっちじゃない。

  私は仄かな歓喜に震えている。

  何故、殿下がここに居るのか、その理由に期待して逸る自分を押さえつけながら、問いかけた。

「殿下は、どうしてここにいらっしゃるのですか?」

  期待しても良いの?助けに来てくれたって。


  散々この人を拒絶しておきながら、都合の良いことに私は期待している。

  期待しておきながらも、言葉にされることに対しての怯えのようなものもあって。

  相反する思いに自分の不誠実さや自己中心的な性質を自覚した。


  嫌な、女。

  汚い。穢い。きたない。


  どうして、私はこうなんだろう。


  殿下の指が私の指の間に絡みつき、優しく指の腹で愛撫でもするように触れられる。

「忘れ物をしたから、取りに来たんだ」

  何を忘れたのかは言わないまま、レイラの目から視線を外さない。

「それは、見つかったのですか?」

「うん。見つかったよ、レイラ」

  手の温度に声の温度に、胸の奥が締め付けられた。

  名前を呼ぶ声に涙が出そうになる。

  簡単すぎる言葉遊び。お互いに何を意味しているか、分かった上で何も言わない。

  彼の優しい声で、私はそれを知っていたし。

  彼も私の眦に浮かぶ涙で、私の気持ちなどおおよそ察してしまっている。

  そっとハンカチを差し出されて、それを受け取った。

「ありがとうございます、フェリクス殿下」

  何に対してのお礼なのか、殿下は知っている。

  複数の意味を込めた『ありがとう』に彼は優しく目を細めた。


  フェリクス殿下は、表向きにはそうとは見せないが、非生産的なことや非効率を嫌う冷徹な部分があり、意味のないことはしない人だった。

  そんな人が、今ここに居る事実。そこに何かしらの意味があるのは確実で、私は泣きそうになってしまった。

  淑女として、これ以上は涙を零す真似はしたくなくて、目をぱちぱちと瞬かせて誤魔化していた。

  手の温もりに私は少しおかしくなってしまったのかもしれない。

  重ねられた手のひらを握り返したくて仕方ないなんて。

  なんてはしたない……。

  私が誤魔化すように首を振っていたところを、親しげに呼ぶ殿下の声。

「レイラ」

  自分の名前なのにそれが特別な響きに聞こえたのは何故なのか、その理由を考えるのは止めておこう。


「明るくなったらここを出ようか。道に迷ったレイラと忘れ物を拾いに来た私が道中、たまたま会うのも不思議じゃない。行先は同じなのだから」


  ハンカチを出した際に、殿下のポケットからヒラリと落ちたのは、見覚えのある手紙。


「私が送った手紙……?」


  野宿する旨と、無事であるということを綴った手紙。それを魔術で届けた。

  伯爵令嬢の私が1人野宿するのは問題なので、従者も呼び寄せたということも綴ってあった。



「ふむ。逆探知系の魔術の痕跡があるな。どこから送られたのか探るのは最適だが、そなたはそんな魔術も扱えたか。大方、ご主人を探すために──」

「それ以上は何も言うな」


  フェリクス殿下は私の耳を塞いでしまったので、突然現れたルナの言葉は途中で聞こえなくなった。


  耳を塞ぐその大きな手に意識してしまった私は、深く物事を考えられなくなった。

  どうしよう。胸が苦しくて、仕方ない。


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