父と息子の話。
フェリクス殿下と国王陛下の話です。
その日、国王の執務室では、親子が並んで書類を捌いていた。
山のように積み上がったそれを次々と処理しても、さらに運ばれてくる書類の山。
つまりはエンドレス。
ひたすら羽根ペンを動かしながら、真顔で息子が父に声をかけた。
「父上、本気でどうにかしてくれませんか?」
「主語がないぞ、フェリクス」
「母上です」
「ああ……」
その「ああ……」には万感の思いだったり長年の苦労が込められていた。
息子の一言で大方を察するくらいには、王妃エリーゼを彼は理解していた。
「プライバシーって何なんでしょうね」
「無の境地に至れば楽だぞ」
「私は、そこまで悟れません」
「いつか諦める」
「誰がです?」
「お前が」
「…………」
そんな未来予想知りたくなかった。
ジークフリード=フォン=クレイド=グレイスフルール=クレアシオン。
フェリクスの実の父親であり、クレアシオン王国の国王。
「父上はもう諦めたのですか」
「細かいことを気にするのは面倒だ。私のことは、別に良いんだ」
「そうですか」
それは何かを悟った男の顔をしていた。
真面目一辺倒。基本的には常識人の類。ハロルドとは違い、外交向けの微笑みは一応つくれるが、普段表情はあまり動かない男。
特筆する点として、彼は効率至上主義の男だった。
最短で終わるようにシステム化された執務。
最短で効果が出るように組まれた訓練カリキュラム。
無駄を嫌うため、以前、レイラの叔父の記憶を丸ごと読み取ったことがある。
終わらない仕事は、適当な人材に振る。
睡眠不足による能率低下を嫌っているからか、無茶をしない、ある意味地に足がついた性格。
それぞれの個性や特性、適正により振り分ける手腕は見事だ。
仕事を抱え込みがちのフェリクスは、父のそういった部分を尊敬している。
「……母上が突拍子もないことをして後始末する方が面倒ではないですか?」
「エリーゼの回収は慣れたんだ。まとめて回収する方が効率的だろう。さすがに度が過ぎているようなら私が注意しておく。例を挙げれば、奇行に慣れていないレイラ嬢にエリーゼが迷惑をかけないように見張ったりしているな」
「……」
レイラのことを気遣ってくれるのはありがたいけれど。
どうやら日常と化したせいで面倒だとは思っていないらしい。
まるで母の保護者か何かのようである。
母の奇行に慣れて、将来自分がこうなったら嫌だ。
「それに、エリーゼのことを面倒だと思ったことはない。厄介だと思うことはよくあるが」
「……結局、惚気じゃないですか」
厄介な母の行動を面倒ではないと言う時点で、母は父にとっての特別だ。
ちなみにこう見えてアプローチしたのは、父の方だという。
「面倒ではないなら、どうにかしてくれませんか? 最近、母上は私の執務室の本棚にある本を持ち出したりとやりたい放題です」
「ああ、いわゆる成人指定小説だろう。そういったものを隠すなら、無造作に置いていた方がバレないぞ」
何故知っている。母上か。母上だ。
「そんなアドバイスは求めていないんですよ。母上をどうにかしてくれませんか?」
話しながらも、お互い、手は止めない。
玉璽を無造作に机の上に放り出し、国王は答える。
「エリーゼのすることは突拍子もないことが多いが、そのくらいなら瑣末事だろう」
何を今更と言わんばかりの顔をする己の父を見て、微妙な気分になった。
「父上。あまり言いたくはありませんが、母上のせいで感覚が麻痺していませんか?」
「私はいつも通りだ。それに見られるくらい気にしなければ良い。羞恥心を捨ててしまえば全てが楽になる」
何を言っているのだろうとフェリクスは素で思った。
──羞恥心を忘れた瞬間、人として大切な何かを失う気がするんだけど、気の所為かな。
この父は母による度重なる奇行によって、少しのことでは動じない精神力を身につけたらしい。
「それより、フェリクス」
「何ですか?」
「エリーゼが見つけたという、その蔵書を読んでみたい」
「何言ってるんですか」
「お前が隠す程の本だろう? 興味がある」
「興味持たなくて良いんですよ」
ちなみにこの時のフェリクスは知らなかったが、レイラが受け取らなければ、国王陛下の執務机に例の本が置かれることになっていたので、母もこの父の性質を理解していたと言って良い。
父は読書好きだ。
ヴィヴィアンヌ医務官の論文も好きだし、図鑑、料理本、美術書、それから少女向けから少年向け、はたまた男性向けから女性向け、それから推理小説に経済小説など、全ての小説を愛しているので、本を差し入れると喜ぶのだ。
レイラに貸してもらった愛が重い監禁男の小説を試しに紹介してみたら次の日、購入していたので見境はない。
女性向け小説を人前で堂々と読むので、本当に彼には羞恥心などなかった。
なので、とんでもないことを本気で頼んでくるのだ。
「嫌です。それより、息子の本棚を漁り、あまつさえそれを婚約者に渡す母親ってどう思います?」
「フェリクス、お前、珍しく怒っているのか。なるほど。お前も好きな人にはカッコつけたいと願う男だったのだな」
「感動とかしなくて良いですから、父上の方から母上に一言仰ってください」
フェリクスは次の書類の束を関連ごとに仕分けしながら、渋面を浮かべる。
「エリーゼは私が注意すると、膨れっ面を見せつつ、上目遣いで睨んでくるんだ。フェリクス。知っているか? 世の中には『好きになった方が負け』という言葉がある」
「父上が母上に弱いことは分かりましたが、そこを何とか物申すことは出来ませんか」
何度も繰り返す陳情。
国王は、ふむ……と何か思案した後、こんなことを聞いてきた。
「これは例えだが、フェリクス。レイラ嬢が上目遣いでお前を見上げ、何かを強請ってきたとして、それをお前は振り払えるのか?」
「無理ですね」
即答だった。
「つまりは、そういうことだ」
どうやら母のすることなら、多少のことは目を瞑ってしまうらしい。
まあ、実際のところ、フェリクスの母であるエリーゼはフェリクスたち息子揶揄ったり、突拍子もない発言などで周囲をを振り回したりするけれど、業務にさしたる影響はないし、致命的な失敗は侵さないし、自らの執務仕事はきちんとこなしている。
他人を怒らせたり、不快にさせるようなことはしない上、引き際は心得ている。
文句が言いづらいので、父だけが頼りだったのだ。
「母上は私を全身全霊で揶揄うことが多すぎます」
「彼女なりに心配しているのだろう。お前は優秀すぎて子どもらしさを失っているからな。…………やはり、あの教師共は害悪だったな」
国王の声が地を這うような低音になり、怒りで空気をビリビリと震わせる。
「……!」
未熟なフェリクスとは違い、魔力を完全にコントロールし、魔力を外に漏れ出してはいないというのに、この殺気と覇気。
これは魔力でも何でもなく、父が纏う圧力。
──ああ、これはマズイな。
父はフェリクスの幼い頃に行われた過剰すぎる英才教育について今でも悔恨している。
フェリクスの性質を歪ませてしまったのだと。
「父上。先に申し上げて置きますが、私は教師たちに思うところはございませんよ」
フェリクスは優秀で、それから器用だったのだ。
限界を限界だと思わなかった。
それから、努力を努力と思わなかっただけだ。
辛いと思ったとしても、それを隠し通せるだけの器用さがあったから、発見が遅れただけのこと。
多忙すぎる両親が気付けないのも無理はなかっただろうし、そもそもそれに対してフェリクスに思うことはない。
フェリクスの中では生まれた頃からのただの日常で、自分が不幸だとか思われる方が不本意だ。
「それよりも私は母上のことをどうにかして欲しいくらいです」
父である国王は、フェリクスがそれ以上この話をして欲しくないことを察したのか、話を切り上げて話題を変えてくれた。
「私も昔、お前と同じようにエリーゼにそういう本を発掘されたことが何度もあった。昔は、いちいち狼狽していたものだが、いつからか振り切れたんだ。恥ずかしいと思うこと自体が間違いだったのだと」
「父上。色々と間違っていると思います」
というか、今の父が羞恥心を置き去りにしているのは、母の影響があったらしい。
開き直った父の精神が強すぎる。
「途中から私があまり反応しなくなったからか、エリーゼの方が、本を発掘することに飽きたみたいだな。参考になるだろう?」
「なりません」
国王は、書類の山を一つ片付けると、次に運ばれてきた山に眉間をぐいぐいと揉んでいる。
お互いに執務地獄は終わらない。
「レイラ嬢はそんなお前を見て、どんな反応したんだ」
「……レイラは、生暖かい目で『分かってますよ』って言った後に、『年頃の男の子ですもんね』と」
なんだろう。逆にいたたまれない。
「良い婚約者じゃないか」
「良い婚約者ですよ。レイラは良い婚約者なんですよ!でも、せめて、こう……もう少し、なんと言うか……」
レイラの前であまりにも格好つかなさ過ぎて、精神的に来たのだ。
「まあ、でもその本の中身は、お前とレイラ嬢との話だったそうじゃないか。後暗いこともなく、お前は純愛を貫いている」
「そういう問題ではないんですよ、父上」
なんだろう。少しズレている。慰めようとしているのは分かるが、ズレている。
──というか、何故内容を知っている。母上か。母上だな。
「……まあ、女性には分からない男心というものは、私にも覚えはある。なんと言えば良いか……災難だったな」
国王がわざわざ立ち上がってこちらにやって来て、フェリクスの肩をぽんっと叩いた。
その後、見つかりにくい隠し場所やテクニックを教えてくれたが、何度でも言おう。
違う。そうじゃない。




