邂逅、または再会の話。
番外編。
精霊フェリクスとレイラの話です。
時系列としては、ことの顛末とエピローグの間の話です。
精霊の湖。
仕事に行き詰まった時、静かなところで瞑想したい時、落ち着きたい時に私が佇む場所。
フェリクス殿下も私も多忙になり、少しだけすれ違う日々。
全く会えない訳ではないけれど、お互いに忙しなかったりする。
私が空いている時間と彼が空いている時間は違うのだ。
合間を見計らって私に会いに来てくれるのだけど、フェリクス殿下に無理はさせたくないので、我儘は言わないことにしていた。
とにかく、彼の体調が心配で仕方なかった。
部屋を分けたら、当たり前と言ったら当たり前だけど、会う機会が以前より少なくなって、少しだけ後悔したのは、私だけの秘密だ。
大抵誰かが居るし、二人きりで居ることも少なくなったからだろうか。
仕事に息詰まると、私もフェリクス殿下もここに佇むことが多くなった。
二人きりで会いたいと、お互いに偶然の接触を図って。
抜け出す方法は少し手が込んでいる。
まずは、少し一人になりたいのだと部屋に籠る。
それからルナの転移魔法を使って湖へと直接移動するのだ。
ちなみに私の痕跡をまとったぬいぐるみ──以前フェリクス殿下がくれたもの──を部屋の中に置いておくので、リアム様やクリムゾンには今のところバレていない。
仕事に行き詰まり黄昏ていたら、たまたま愛しい人と顔を合わせるというシチュエーションは、言わば免罪符。
その時、さくっと柔らかな草を踏む音を聞いた。
私は期待が胸いっぱいになった。
ここに来れるのは私たち以外いないからだ。
はしゃいでしまうのも分かりやすすぎて恥ずかしいので、誰かの足音がきこえている今も、あえて湖の方をじっと見つめていた。
「レイラ」
聞き慣れた声が私の名前を呼ぶ。
草むらに敷物を広げて座る私の後ろから、手が回ってきて、抱きすくめられる。
「……っ」
安心する香りに包まれてそっと息をついた。
それから優しい声音。
私の銀髪に優しいキスを落とす。
「最近、色々と忙しいようだね。無理は禁物だよ、レイラ。周りも心配するよ」
前に回された腕に、私はそっと手を添えて。
「貴方はどちらさまでしょうか?」
フェリクス殿下の声と香りと気配を纏っているけれども、彼ではない彼に問いかけた。
魔力に変わりはない。
フェリクス殿下の体ではあるが、後ろから抱き締められて、何かちょっとした違和感のようなものを感じ取った。
なんというか中身が違う。
「すごいね?まさか、彼と僕の違いを見破るとは」
フェリクス殿下の声と香りと気配を纏っている彼の違和感が強くなった。
彼が声を発した途端、私は本能的に理解した。
この人は別人だと。
「とりあえず、離していただいても?」
「ええー。中身は違えども、体は君の婚約者のものだよ?」
「それでも、ですよ」
先程まで黙っていたルナは私の影から這い出すと、思わずといったように呟いた。
『この男、女心を分かっていないようだな。それと情緒がない』
「うっ、そんなハッキリと言わなくても」
何故か、ルナの呟きをフェリクス殿下の中に居る誰かは聞き取っていた。
体を離してもらい、後ろを振り向きながら体をずらすと、そこには予想通りフェリクス殿下の姿があった。
ただし、蒼の瞳は黄金色になっていた。
彼は、「昔も似たようなことを身内に言われたなあ……。モテなさそうな性格のくせにモテるの狡いとか悪口も言われたっけ」などとブツブツ言っている。
その目の色には既視感があった。
「……姿形は分かりかねますが、いずこかの上位精霊の方とお見受けしますが」
「ご名答。本当は非常時でも何でもない時に人間と接触するのはご法度なのだけど、おあえつらえ向きに状況が整っていたから、つい」
彼はここに来ていたフェリクス殿下の体を借りてみたらしい。
どうも最近のフェリクス殿下の疲労が蓄積していたことと寝不足が原因で簡単に憑依出来る状態だったらしい。
精霊の湖近くだったのと、この場所で警戒心をなくしていたらしいフェリクス殿下には憑依しやすかったとか。
「フェリクスは精霊の目の持ち主だし、ここは人間界じゃないし、問題ないかなって思って」
『どこがだ』
ルナにぴしゃりと言われても、さして気にしていないようだ。
「ところでレイラは、この子に会いに来たの?」
この子、というのはフェリクス殿下を指しているのは明白だ。
フェリクス殿下の姿を借りた彼は私の隣に腰を下ろすと腰を抱いてきた。
「あの、ちょっと」
「最近は随分と忙しいのか、たまに疲れた顔をしてるよね」
腰に回された手をさり気なく解きながら、私はオウム返しに聞き返す。
「疲れた顔をしている?」
「ああ、さすがに婚約者の前ではカッコつけたかったのかな。……好きな人と想いが通じ合うのって羨ましいよね」
黄金色の瞳が私をじっと見ている。
なんだか少し落ち着かなくなって視線を逸らす。
彼はふっと微笑むと、柔らかい表情で私だけを見ていた。
「うん、可愛い。可愛いよ、レイラ」
「……!?」
『突然口説き始めたぞ、この上位精霊』
「うん。僕は元人間の上位精霊だからね。人間的な感覚が強いんだ」
そういえば、上位精霊には元人間の精霊も居たんだった。
どうやって、人間が精霊になったのかが気になったので尋ねてみれば、彼は苦笑して首を振った。
「ごめんね。一応、これは禁則事項というか今は言えない。……いずれ分かると思うよ?」
『なんとも釈然としない返答だな』
中級精霊のルナにも何のことなのか分からないらしい。
もしかしたら上の立場の者しか分からない特別な決め事でもあるのかもしれない。
気になったが、とりあえず上位精霊には元人間の精霊が居て、性格もそれぞれというのは分かった。
『上位精霊の割には、この精霊、軽薄だな』
「酷い。僕は一途だよ? それにしても可愛いなあ」
『接触禁止だ』
その上位精霊が私に手を伸ばした瞬間、ルナはぺいっと彼の手を前足で弾き飛ばした。
『恐らく、人間だった頃は皆に同じ内容を言っていたに違いない。悪い男に違いない』
その精霊は過去を回想するように目を細め、切なげに微笑んだ。
「それはないよ。元々僕は意気地無しで、好きな子に好きだと言えなかったんだよね。あの時、好きだと言えたら何か変わっていたのかなって、たまに思うよ。もう終わった話だけど」
「……」
その上位精霊は、空を仰ぐ。人間らしく様々な想いが交差しているようだった。
フェリクス殿下の顔で、そんな顔をされるのは……ちょっと。
手に入らない何かに恋焦がれるみたいな。
「身分差……ですか」
「当たらからずも遠からず、かな。あの時の僕にとっては、手の届かない月のようなものだった」
彼は私の頭に手を置くと、よしよしと撫で始める。
「……?」
なんだろう、変なの。
これが初めてではないような既視感。
いや、まあフェリクス殿下は、たまに頭を撫でてくるから当たり前と言ったらそうなんだけど、そうじゃなくて、なんというのか。
一人困惑する私にルナが警告を発した。
『やはりそなたは軽薄だ。ご主人に気安く触るのは感心しない』
「んー、軽薄かあ。それとは違うかな。今の僕はフェリクスに憑依しているから、本来の姿が分からない状態なんだ。だから今は何者でもない僕な訳で。普段では出来なさそうなことをする良い機会じゃない?」
普段言えないことも他人の皮を被ることで出来るというよりも、彼の場合、匿名だからこそ何でも言えるのだという意味合いが強い気がした。
「それにしても今代のフェリクスは本当に人外染みているよね。最近ではかなり人間らしくなって来たけど」
話をすり替えて、私の肩に彼は頭を乗せた。
なんかもう言っても聞かない。
上位精霊って……。上位精霊って……。
「フェリクス殿下は元々人間ですよ」
「うん。知ってる。僕はこの子が生まれた頃から見ていたからね。期待する周囲とそれに応えるこの子の非凡な能力がね、この子を歪にした。子どもなのに完璧で隙がなくて、まるで人間ではないみたいで、たぶん僕よりも精霊に向いてたかもね」
彼の幼少期はあまり知らなかった。断片的に聞いたことがあるくらいで。
「完璧でソツのない微笑みを浮かべて、狸連中も内心舌を巻くくらいの立ち回りっぷりだったよ、昔から。本当に可愛くなかった」
『最後だけ力いっぱい言ったのは何故なのか』
そう言いつつも、彼のフェリクス殿下に対するそれは親しげなものだった。可愛くないと言いつつも、彼を心配していることはひと目で分かる。
それにしても、さっきからのしかかってきて重い。
非常に重い。
フェリクス殿下は今成長期で背も伸びているし、体もがっしりして来たのだ。
ぐぐぐっと押しやっていたら、「君にそんな顔を向けられるなんて」と幸せそうに言われた。
そんな顔って何ですか。精霊様。
「この子は良いなあ。恋する可愛い君を婚約者に出来て。恋する女の子は可愛いって本当だったんだなあ。初めて知ったよ」
「え、その……周りでそういった女性を見たことなかったのです?」
「うーん。その時の僕は好きな子のこと以外、基本可愛いと思えなくてね。他は野菜みたいに見えたよ。あ、レイラは可愛いよ」
「え、ええ……と?」
なんて返したら良いのか分からない。
特に彼も返答を期待してはいなかったのか、話の流れを戻す。
「まあ、とにかく色々思うことはあるけど、フェリクスが、昔より人間らしい表情をすることに関しては安心してるよ。昔は感情を知る前に精神が成熟したっていうか、色々と危うかったからね」
元人間の精霊。この人はどういう人だったのだろうか?
フェリクス殿下のことを幼い頃から観察していて、見てきたというこのお方。
生前はどんな名前だったのかを聞いてみれば、彼は断固拒否した。
バッと身を起こすと手を前で振っている。
「いやいや! 駄目! 無理! そんなことしたら僕の恥ずかしい日記とかポエムとか知られてしまうし!」
「お書きになられたものが保存されているということは、それなりの身分の方ですか?」
昔の王族の日記とかが書庫に保存されているけれど、よく考えたらそれってプライバシー的にはちょっとあれかもしれない。
「やぶ蛇!? あー! あー! 聞こえなーい!」
彼は断固として自分の正体を語ろうとしなかった。
「そう仰られると気になってしまいます」
「情報提供を求めるなら条件を飲むなら良いよ。うーん、そうだなあ。キス一回とか」
「あっ、やっぱり聞かなくて良いです」
「即答!?」
それはフェリクス殿下に対する裏切りみたいだと思う。
体はフェリクス殿下のものだけど、中身が違うなら立派な別人。
「まあ、冗談は置いておいて」
『冗談だったのか』
「そう言えば最近、二人とも忙しいようだけど、会う時間は確保してるの? レイラも会いたいなら会えば良いのに」
「……!」
精霊は、人の心を見透かす能力があったのだろうか。
「どうして……」
それを。
「中身が僕だって知った時に、少しだけ残念そうにしていたからかな。レイラはこのフェリクスのことが本当に好きなんだなっ……って思った」
俯いている私に、彼の表情は窺えないけれど。
なんだか不思議なその声色は、複雑な色を孕んでいた。
勘違いなのかもしれないけど。
上位精霊のこの方が何を考えているのか、私には見当がつかない。
精霊としては長いのか。人間だった時はいつの話なのか。私は彼の背景を知らないからだ。
「言える時に言いたいことは言った方が良いと思うよ。これは僕の教訓」
彼の背景は知らないけれど、妙に実感のこもった言葉だった。
「そういえば、レイラ。君はフェリクスのこと、そのまま名前で呼ばないんだね」
ドキリとした。
「あの、ずっと慣れなくて……」
何度かフェリクス殿下は、名前だけで呼ばせようとして来たことがあったが、なんだかんだ有耶無耶になってしまっていたのだ。
どうしたものかと思っていれば、フェリクス殿下に憑依した精霊は爽やかにこんなことを言ってきた。
「なら、僕を練習相手にすれば、良いよ」
「え、貴方に……?」
「フェリクスの意識は眠っているし、彼に聞こえることもない。試しに今、僕をフェリクスだと思って呼んでみて?」
「……フェリクス様!」
「様なしで!」
「えっ」
なんて難しい注文を付けるのか!
口が固まって動かなくなった。
うう……。少し呼び捨てをするだけなのに、それが出来ない。
「ほら、フェリクスは眠っているんだから、ね?今だけだよ、練習する機会は」
楽しそう。すっごく楽しそう。
「フェリクス………………様」
「おしい! もう一声」
ええい、もうどうにでもなれ!と思うしかない。
顔が熱くなる。
「っ……フェリ、クス」
恥ずかしがりながらも口にして、そっと見上げた先。
「うん。なあに? レイラ」
フェリクス殿下ではない誰かは、まるで己の名前でも呼ばれたかのように、ふわりと幸せそうに、まるで噛み締めるようにして微笑んだ。
その声は甘く、まるで好きな人に呼びかけるみたいな柔らかく穏やかな響きだった。
蜂蜜色に蕩ける瞳。
甘い、旋律。
木漏れ日のような暖かさと、隠しきれない喜びが同居したような。
フェリクス殿下の声だから、そう感じるの?
私は呆然としていた。
愛しいと言わんばかりの彼の表情に。
やはり元人間と言っても精霊は精霊だ。
これは私たち人間を大切に思ってくれているということなのかもしれない。
よく分からないけれど、なんというか。
『なんだ、このむず痒いやり取りは』
まさしくそれ。
ルナの一言で私は我に返った。
なんで、私は素直にこんなことをしているのだろうか。
そんな私を他所に、ふと彼は空を見上げ、遠い目をしていた。
「あー……。良いところだったのに」
彼はぽつりと呟いて、それから聞いても居ないのに、話し始める。
「さっきからね、僕の知り合いの精霊が念話で、大目玉を食らわせるだとか、仕事を倍にするだとか、もういっそのこと人間との関わりのない管轄に送ろうかだとか恐ろしいことを言ってくるから、そろそろ僕は行くね」
管轄を変えられるということは、上司みたいなものなのだろうか。
その精霊がそれなりに地位が高いのは分かった。
『問題ないと言っていた先程の言葉は一体何だったのか』
ルナはジト目だった。いつも思うけど、ちょっと可愛い。
「あ、あはは……」
私も乾いた笑いしか出来ない。
見知らぬ精霊ではあるが、強く生きて欲しいと思った。
「それじゃあ、またね。レイラ」
最後に彼は近付いてくると、ちゅっと私の唇の端ギリギリのところに唇を落とした。
すぐに離れていく掠めるようなキス。
「……!?」
「あはは、男には隙を見せないようにしなよね、レイラ」
最後の最後でやられた!!
唇を手で覆いつつ、距離を取っていれば、彼は満足気に、そして寂しげに微笑んで。
彼はゆっくりとその目を閉じる。
「……なんだか、不思議な方だったわね」
『結局、どこの上位精霊だったのだろうな』
そう呟く割には、ルナは興味なさそうだった。
ルナは相変わらず、上のことには興味がないらしい。
すうっと何かが抜けていくように、フェリクス殿下の体が崩れ落ちた。
思わず支えようとするけれど、体格差があったため、私まで倒れそうになった。
「あっ、殿下!?」
「んん? あれ、私は一体ここで何を。レイラが居る……。ここは夢?」
「夢じゃないです、殿下!」
「んん? 夢じゃない?」
先程聞いた通り、どうやらここに来てからその後の記憶がないらしい。
疲れているのは本当らしく、精霊が憑依していたことも分からなかったようだ。
体勢を立て直しつつ、フェリクス殿下は私をまじまじと見つめて、その蒼の瞳を柔らかく細める。
熱い視線。熱が篭って、一心にそれだけを向けるようなフェリクス殿下の眼差し。
好きだなって思った。
「あっ……」
思わず頬が赤くなったのが分かる。
両頬を包まれ、労わるように撫でられる。
「どうしたの? そんな可愛い顔して。目が潤んでて可愛い」
「あっ、いえ。その……」
フェリクス殿下の顔で、あの名も知らぬ精霊が言ってくれた、「言える時に言いたいことは言った方が良い」という教訓が頭を過ぎる。
そう言えば、私、フェリクス殿下の体調のことばかり気にして、自分の想いを言ってなかった。
たまに、で良いから。
夜、一緒に過ごしたいって。
何もしなくて良い。ただ、寄り添いたいのだと。
昼間に会いに来てくれるだけで嬉しかったから、それ以上求めるのは違うと思って。
夜くらいフェリクス殿下もゆっくり出来た方が良いはずだと。
ただ、それを本人に聞いたことはない。
「あの……フェリクス殿下……私」
「うん? どうしたの?」
私だけに向けられる瞳は、蜂蜜色ではなく、深い蒼の瞳。
だけど、それは他のどんなものよりも、きっと甘い。
「私……その」
寂しいのだと言っても良いのだろうか。
いや、言うべきだ。言わなければ、何も分からないし、伝わらない。
私は、言葉を交わすことの大切さをよく知っているはずなのだから。
それから……。
この夜から、私とフェリクス殿下がこっそりとお互いの部屋を行き来するようになったのは、ここだけのお話。




