フェリクス殿下の困惑
フェリクス殿下視点です。
レイラがかけていた眼鏡を床に落としたのを忘れたまま、空き室から逃げ出してしまったのを呆然と見送ってしまったフェリクスは、混乱の最中に居た。
先程まで彼女の唇が触れていた、自身のそれに手の甲で軽く触れる。
──口付けをしてしまった……。
わざとでは決してなく、完全に事故のようなものだったが、この事態を招いてしまったのは自分のせいで。
乙女の唇を奪ってしまう形になるとは思ってもみなかった。
レイラに対する申し訳なさと罪悪感と共に覚えてしまったのは、甘美な満足感と理由の分からない切なさだった。
──一目惚れの相手が居るというのに、私は。
そして絶望感。
初めての相手が彼女で良かったと思ってしまったのは何故なのか。
自分は何て移ろい気味な性質なのだろうと、衝撃を受けた。自分ではそう思っていなかったけれど、女性に対して不誠実なのかもしれない。
そんなこと知りたくなかった。そもそも、レイラをここに連れ込んだのだって、ルナという従者に対しての醜い嫉妬だというのに。
それでも使用人である彼にはレイラの唇を奪うことなど出来ないだろうと多少の優越感もあったりして。余計に絶望したのだ。
レイラにとってはどうなのか分からないが、浮いた噂など一つもないフェリクスにとっては、事故とはいえ、初めての口付けだった。
狭く暗い場所に身を潜め、息を殺し、極度の緊張感に襲われながらも、レイラの柔らかな唇や控えめな甘い吐息を堪能していた自覚はある。
咄嗟のことでお互いに固まってしまったのだが、こちら側にはほんの少しの下心が確実にあった。
それを悟られたのか、レイラは解放された瞬間に顔を見せることも眼鏡を拾うこともせずに、慌てて逃げ出した。貴族らしく立ち居振る舞いは優雅だったが、彼女は完全に動揺していた。
落ちていた眼鏡を拾い上げる。
「……? これは」
どういう代物なのかは不明だが、魔術の痕跡を感じ取る。
普段から愛用しているだけあって何か意味のある魔道具なのだろうと納得し、それを理由に今から医務室へと顔を出すのも悪くないと頷いた。
──レイラは、きっと先程のことをなかったことにしたいのだろうな。
暗かったせいで、彼女の感情を表情から読み取ることは出来なかったけれど、それをわざわざ確認するのも、はばかられる。
きっと怖い思いをさせたに決まっているのだから。
今までの仲の良い友人関係まで台無しにしてしまった気がして、顔を合わせて拒絶されることは怖くて堪らないけれど。
──ここで弱気になどなったところで、事態は好転しないだろうし。
フェリクスは思い悩む前に行動する質だった。
悩むくらいなら少しでも事態を把握して次の行動に繋げるために、すぐに切り替える。
感情はまださざ波みたいに乱されていたが、昔から感情と行動の切り替えは出来ていた。
レイラを相手にすると今回のように、たまに狂ってしまうけれど。
レイラになかったことにされるのも悲しいし、避けられるのも苦しいが、引き下がるのも嫌だ。丁度良い距離間を見極めて、もう一度信頼を築き直せば良いのだと強引に納得させる。
──うん。私は心臓に毛を生やしているくらいが丁度良いんだ。
躊躇う気持ちがなかったとは言わない。
どの面下げてここに来るんだと自分でも思いながら、医務室をノックする。
医務室の中に入ると薬草の香が漂ってくる。
どうやら繁忙期らしく、わざわざ出てきてくれたセオドア医務官は、「こんな状況なので何のお構いも出来ませんが……」と一言添えて、先程レイラにも案内された来客用のソファを指し示してくれた。ハロルドが疲れ切った顔をして、茶を飲んで、甘いものを摘んでいる。
思い切り和んでいるようにしか見えない。
「ハロルド様が先程からお待ちのようです。先程は何かとありましたが、まあ一息入れたところです」
「何かとあった……? もしかして、リーリエ嬢が訪ねて来た……とかだろうか?」
「……よく分かりましたね? ハロルド様が何度言っても聞かず、それに見かねたルナ……ああ、あそこに居る使用人が、すげなく追い返していまして……本当に彼は容赦ないですね」
何故かセオドアは、何故かキラキラとした目で彼を語る。
──ルナという者は、相当信用されているのだろうな。
でなければ、レイラがあそこまで気を許す訳がない。年相応の女の子らしい表情と、親しい者に向ける遠慮のない態度、彼に浮かべた微笑みを見て、フェリクスは衝撃を受けたのだ。
──当たり前だけど、レイラがあそこまで屈託なく笑顔を向けてくれたことは一度もないからなあ。
それを見て衝撃を受けて、なんだか胸の奥が痛んだのと、行き場のない苛立ちや焦燥感を覚えて、気が付けば連れ出していた。
「レイラは居る?」
「ご主人なら、今奥の部屋で最終段階だと言って薬を調合しているぞ」
一番聞きたかったことを口にすると、セオドアの後ろから、癖のある黒髪の従者が現れた。
そして付け加えるようにフェリクスに言った。
「すまない。この国に来たばかりで敬語とやらが上手く使えないという設定──使えないのだ。気を悪くされる前に忠告しておく」
「私は気にしないけど」
周りの者がうるさそうだなとは思った。
「そなたは戻って良いぞ。ご主人が調合しているというのに、そなたが仕事をしないのは納得出来ないのでな」
「はい。分かりました!」
ルナを見つめるセオドアの目が非常にキラキラしていることが気になったが、それはまあ一旦置いておくとして。
「レイラは……何か言っていた?」
「ここに帰ってくるなり、随分と動揺していたのか、脈拍や魔力器官が乱れていたな。すぐに奥の部屋に篭もって仕事を始めたから、特に問題はないと判断したが」
「そうか……。うん。……これ、レイラに渡しておいてくれる? 何かの魔道具みたいだから使うと思ってね」
「ああ、そう言えば慌てていて落としたと言っていたな。届けてくれたのか。助かった。ふむ。特に異常はないようだな」
レイラの落とした眼鏡を渡すと、ルナはそれを検分する。
フェリクスよりも背の高いルナを見て、言いようもない不安感と劣等感と焦燥感が込み上げてくる。
──レイラはこの男といつも一緒なのか。
この感情は嫉妬だ。
自分が良く分からないまま、苛立ちが募っていく。
「ご主人は、訳ありなんだ」
「は?」
唐突に話しかけられ、脈絡のなさそうな言葉をかけられる。
「誰よりも強く一人で立つ気高さを持っているが、誰よりも傷つきやすく臆病なのだ。無意識に防衛しているのだろう。あの娘は人間の好意に酷く疎い」
「彼女が、怖がっている?」
この話はきっと本質的な内容で、今回フェリクスとの口付けで怯えてしまっているなどという単純な話をしている訳ではなさそうだ。
ルナの様子からして、彼はレイラを心から案じているように見える。まるで保護者のように。
「本人が自覚しているかは知らん。……が、ご主人はなかなか心を開かない頑なな部分がある。その癖、他人のことは理解しようと懸命になるのは、酷く矛盾している。家族以外に心開ける者が出来るのが最も好ましいが」
「それは、なんとなく感じていたけども」
フェリクスは、彼女の怯えのようなものを感じ取ったこともあり、しばらく観察して気付いたのだ。
レイラが、周囲の者に一線を引いているらしいということに。
それはどうやら、ルナ曰く怯えから来ているものらしい。
「ご主人は繊細な性質だ。想像力もある。そのせいかは知らんが、他人に心を開けない癖に、悩み相談などということは出来てしまう。人を信用しない癖に、寄り添えるのだ」
「想像力……か。そうだね。レイラは想像力がある」
レイラが、相談されたり愚痴を聞く際にいつも悩むような考えるような仕草をしているのを思い出す。
あれは、相談者の境遇を自分に当てはめて想像しているのだ。彼らの立場を完全には理解出来ないことを承知の上で、想像して寄り添おうとしている。
他人の感情を完全には理解できないことを理解して尊重してくれるのだ。
想像。理解。尊重。それらは同情などではない何か。
だからこそ、レイラは多くの者に寄り添うことが出来ている。
それを毎回毎回繰り返す日々。疲れない訳がないのだが、話を聞くこと自体は慣れているらしい。
「人を信用出来ない……か。レイラは不器用なのに、器用だね」
「面白い精神構造をしているだろう?」
人をなかなか信用出来ない不器用さ。想像力がありすぎる故に寄り添うことが出来る器用さ。
なんて疲れることをしているのだろうとフェリクスは前から思っていた。
「警戒心が強く、人を信用しない典型的な臆病者だ。だが、周りにはそうとは気付かれていない」
「レイラは、ただのお人好しなんだろうね」
「そなたくらいだ。ご主人の上っ面に騙されていないのは」
臆病さ故に人を信用しないという孤独を選択したと同時に、お人好しの彼女は人に寄り添うという友誼の道をも選んだ。
それに気付く者はどれだけ居るのだろうか?
悪意など一切なく、彼女にあるのは優しさだけ。
だから誰もレイラを警戒しないけれど、当の本人は他人を怖がっている……。皮肉すぎる。
「だから、そなたには期待しているのだ。ご主人は少々変わっているからな。求愛するなら、まず信用されるところから始めると良い」
「きゅ、求愛!?」
「雄の部分を見せると逃げる可能性もあるから、努力してくれ」
ルナの言葉遣いはやはり独特だ。流暢に話しているように聞こえるが、国が違うと言葉のニュアンスを合わせるのも難しいのかもしれない。
──いやいや、そうじゃなくて! それどころじゃなくて。……もしや、私の不埒な気持ちなど全てお見通しなのか?
こんなことを言い始めたということは、そうなのだろう。
フェリクス自身、感情を出さないようにしていたつもりだったが、やはり先程の行動があからさまだったのか。
思わず頭を抱えたくなった。




