フェリクス殿下の解悟
レイラが何か奥の手を使おうとしている。
キリがなく終わりの見えない戦いに区切りを付けるための秘策。
フェリクスは彼女が具体的に何をするつもりでいるのかは聞いていない。
ただ、事の重大さだけは彼女の覚悟を決めた念話で伝わって来たし、最も優先すべきオーダーであることは瞬間的に察した。
──ならば、私がやるべきことは変わりない。
己のうちにある膨大な魔力。
人より多くて、それを制御するために明け暮れた修行の日々。
己の魔力に怯え、感情すら薄くなる原因となった忌々しい程の魔力量。
不本意だったそれは、この瞬間のために用意されたのだと思えば、自分はなんて幸福なのだろうか。
己の愛する者のために、力を使えるのだから。
フェリクスの身の内から燃えるように滾る魔力をいち早く感知したらしい男──ブレイン=サンチェスターは、瞠目し、その目に驚愕の色を浮かべたが、レイラの様子とフェリクスの様子を一瞥すると、了承したようにニヤリと笑った。
──何だか面白くない。
フェリクスとレイラの二人の間に割り込んで来ているように思えてしまうのは、自分の心が狭いからなのだろうか?
フェリクスの分まで、実験体たちとの戦いを引き受けてくれるらしい。
リアムたちにも念話で伝えてくれたのか、すぐに戦闘態勢が切り替わった。
心得たとばかりに頷くリアムやルナ、それから黒い猫の姿をしたフェリクスにとって初見である黒い精霊。
各自配置についたところで、フェリクスは己の奥深くまで意識的に沈めていた魔力を呼び起こす。
普段だったら使うことのない深淵にあるそれを引っ張り出す。
並の魔術師ならば立っていられない程の魔力がフェリクスの体の周りに渦巻き始める。
──公爵。もうどこにも逃がさないよ。
フェリクスが猛禽類のように獲物を狙い定めるように目を細めた瞬間、第六感が働いたのか、姿を眩ませようとする公爵に向かって、フェリクスはそれをぶつけた。
ぶわりと、炎が膨れ上がり視界を占領するように燃え広がった。
それは、弱い者虐めに近いかもしれない。
自分には到底適うはずがないと分かっているから、わざと手を抜いて敢えていたぶるのだ。
猫が狩りをする時に、殺さずに半殺しにするみたいに。
炎の渦が公爵を包み、それを膨大な魔力で霧散させたつもりでいる公爵。
──振り払ったところで逃がすはずがないだろう?
公爵が灼熱の炎を振り払った刹那、彼を中心として人間の背丈程の大きさをした無数の鏡が乱立した。
「なんだ、これは!?」
無数の鏡が公爵を包囲し、公爵を映しながら空中をぐるぐると旋回していた。
フェリクスの生み出した炎も鏡に映し出され、燃え盛っていた。
フェリクスは、指を鳴らすと、くすりと笑った。
刹那。
映し出された幻影の炎は、本物の炎となって公爵に襲いかかった。
「こんなものっ、全て消してしまえば良い!」
「それはどうかな」
振り払っても、消火しても、次から次へと炎が映し出され、生み出されていく。
それもそのはず。
夢想の鏡面。
己の夢想を鏡に映し出すことにより、映した分だけ効果を倍加させる──つまり、鏡に映せば移すほどこちらの攻撃が二倍三倍に増えていくという集中攻撃的な特性を持つ魔術。
さらに追尾型であるため、無数の鏡に映し出された相手は狙いを定められ、鏡に映っている限り攻撃からは逃れられない。
縁が燃え上がった炎の鏡は、ゆらりと鏡面を揺らしながら、公爵の姿を映し出している。
四方八方に増えていく炎の鏡。
鏡と鏡に挟まれ、公爵の姿も無限に増えていく。
と、まあここまでは普通の水の魔力による鏡の魔術だ。
フェリクスは指をパチリ、と鳴らした。
──さて、お前の弱みを見せてもらおうか。
ただの鏡の魔術だったそれに、フェリクスが闇の属性を付与した。
フェリクスも持ち歩いているのだ。
レイラの叔父が発明した、他の属性が使えるようになる魔力変換魔具──人工魔石結晶を。
ぶわり、と公爵を取り巻く魔力の気配が膨れ上がった。
フェリクスの魔力が彼にまとわりついているのだ。
「さあ、鏡からは逃げられない。己自身と向き合うが良い」
フェリクスは冷笑する。
──私の予想する限り、この男は。
サンチェスター公爵を取り囲む鏡が闇色に一度光った途端、公爵が絶叫した。
「うああああああ!! まだ、成し遂げられていないはずだ! こんな場所に、彼女が居る訳がないんだ! ハンナ!」
ハンナという名前。
その名前を聞いてフェリクスは確信した。
ハンナ=サンチェスター公爵夫人。
彼の、亡くなった奥方の名前。
──これは、ああ。
フェリクスに流れ込んでくる記憶の欠片。執着していたそれに纏わる記憶は膨大で。
彼にとって妻は人生の全てだったのかもしれない。
これまでの所業に至った彼なりの事情も何もかもが伝わってきた。
悲痛なまでの執着心。それはフェリクスにとっても他人事ではない。
──ああ。これは、唯一無二の伴侶を亡くした男の末路だ。
『君だけが居れば、後はどうだって良いんだ』
そんな公爵の一言が魔術によって伝わって来て、それが脳内に焼き付いた。
仮にも父だった男が、子どもたちの命を弄んでいたことが信じられなかったが、この男は、本当に妻以外どうだって良かったのだ。
それ以外は自分の子どもすら有象無象。
彼の計画には、我が子を甦らせる予定などなかった。
『ああ、無垢な子どもたちを見ていると微笑ましいよ。いずれこの子たちは私の愛を成就させてくれる存在なのだから。収穫はいつにしようか?』
彼から伝わってきた思念の中でも怖気がしたのが、この言葉。
それは、育ててきた食物を愛でるような。
フェリクスは一瞬で理解した。
この男にとっては、それ以上でもそれ以下でもないことを。
我が子のことすらどうでも良いから、子どもたちに我が子の面影を重ねることすらしなかった。
「ハンナ、ハンナ……ハンナ……」
手を伸ばした先の夢想に、サンチェスター公爵は触れていた。
栗色の髪色のご婦人が微笑んでいて、それを見る公爵の顔は、夢を見るように恍惚としていた。
あまりにも自分の想像通りのものが目の前に現れて、正気を失ったのだろう。
──だって、あれは公爵の夢想そのものだから。
夢想の蜃気楼。
闇属性を織り交ぜたフェリクスの魔術。
相手が心から執着するものを強制的に読み取って出現させる魔術。
そもそも、蜃気楼というものは、熱気や冷気による光の異常な屈折により、有り得べからざる景色を映すものだ。
──そう。本来なら有り得ないものをね。
そこにいるハンナ=サンチェスターは彼の虚像だったが実体があった。
厳密に言えば、彼の記憶にある妻の虚像をそのまま映し出し、蜃気楼のようにそこに出現させて、それに固体ではないプラズマ的な性質を持つ炎により実体を持たせた。
フェリクスの魔術により、触れた感触などは調整出来たから、触れる。
「魔力の高い子どもたちを依代にして、妻の魂を降臨させる……か。非現実的な黒魔術だ」
目的は死者蘇生。
彼の記憶を読み取った際、彼の持っていた情報が伝わってきて、これまでの謎が紐解けていく。
それは呆れる程に、自分本位なものだった。
問。何故、子どもばかりを集めていたのか。
答。発達途中の人間の方が魔力が上がりやすいから。
問。膨大な魔力の人間を求めた訳は。
答。妻の魂を呼び出し、素体の体に定着させるには膨大な魔力が必要だったから。
問。何故、子どもたちを洗脳下に置いたのか。
答。依代にする際、素体本人からも魔術的にアプローチをして、自らの体に招き入れるプロセスが必要だった。洗脳しなければ協力する者など、誰も居ない。
そもそも、死んだ者は生き返らない。
もし、生き返ったとすれば、それは似て非なるもの。
そもそも、彼女の魂をピンポイントで探して降臨させることが出来ると本気で思っているのだろうか。
妻の魂を呼び寄せたら、素体本人は魔術で調整して、妻の姿形に似せていくということまで折り込み済みだった。
どこまで彼はその呪術を妄信していたのか。
もう頭がおかしくなってしまったのか。
「いや、違うか」
──彼は、正気で居ながらも、心の底から狂っていたのか。
彼の中では、胡散臭く信憑性のない呪術も、正真正銘の奇跡だったというだけのこと。
それを真実だと信じていただけの話。
公爵はただ、最愛の妻と日々の続きを紡ぎたかっただけだった。
大掛かりな魔術も、全てはそのためだけに心血を注がれていた。
なんとなく理解してしまったのは、自分も似たような類だからだろうか。
フェリクスとサンチェスター公爵の違いは、理性を失っていたか、そうでなかったか、それだけの違いかもしれない。
ある意味では自分と少し似た性質を持つ男だ。
だからフェリクスは、彼が最も苦しむ方法を知っていた。
残酷で鬼畜な所業だと罵られてもおかしくない。
自分の最低さは自分で自覚しているのだ。
公爵が我を失ったように自らの妻の姿をした幻影を抱き締めている。
「燃え上がれ、揺げ」
それは、崩壊の合図。
フェリクスにとっては、レイラに協力することだけが真実だったのだから。
ハンナ=サンチェスターの体が燃え上がり、彼女の体から血が吹き出し、笑顔を浮かべていた彼女の顔が無機質なそれに変化した。
「あ、ああ……!あああああ!ハンナ!ハンナ!」
それは公爵にとって一番見たくないもの。
冷たくなった妻の亡骸。
最愛の者の変わり果てた姿。
犯罪に巻き込まれ命を失った妻の姿。
何度も彼の中でリフレインするそれをフェリクスは再現してみせた。
全身から血が吹き出して死んだその姿を。
──人間は、簡単に壊れる。
温もりが冷たくなっていく生々しさまで表現して見せた。
残酷な、人の想いを蹂躙するような鬼畜な所業だが、レイラに協力するためなら躊躇いすらなかった。
発狂し始め、言葉でも何でもない呻きだけを上げながら崩れ落ちる公爵を冷たい目で見下ろした。
最低な所業。
自分だったら考えただけでも発狂しそうなそれ。
己と似た人間ならば、追い詰めるのだって簡単なのだ。
「ああ、音声魔術だ」
レイラが歌う声が聞こえる。
醜悪なやり取りの中、澄んだ彼女の声が薄暗い廃墟に響いている。
音声魔術は、音を一つでも外したら発動しないと言われている魔術だ。
息遣いのタイミングも、ビブラートも何もかもが決められた呪文のようなもの。
複雑な旋律を奏でるレイラは、今だけリアムの隠形魔術を解かれて、その姿を晒している。
その周りをルナとブレインの精霊が守るように囲っていて。
薄暗い中でも、艶やかな美しい銀髪が波打っているのが見えた。
たくさんの魔力を込めているのだろう。
魔力によって髪が揺れて、周囲も僅かに光り、それは暗闇を照らす一筋の月の光のようで。
──綺麗だ。
人外のように美しい己の婚約者の姿に目を奪われた。
その姿は、人ならざる者特有の神秘性に満ちていて、フェリクスは思わず息を飲んだ。
それは、精霊と人間が手を取り合う物語。
この世界を創造した神と、仕える精霊たちが人間たちに手を差し伸べ、教え導く場面。
紡がれている物語は、単純に捉えれば様々な万物に人間が無邪気に新しい名前をつけて行くシーン。
一見微笑ましい内容だが、それは比喩や暗喩がたくさん含まれていて、意味は他にあるのだと禁忌書庫にも出入りしていたフェリクスには分かった。
──あれは、精霊と人間が国を作っている場面? おそらく、人間が国の基盤を作りながら、精霊が時折奇跡を起こしている?
それは、この国の創造の物語だ。
創造して、創造を形にしていく。
人間と精霊が創造した国。
創造。創造。
隠されていたのは、クレアシオン王国の語源を表す、そんな物語。
「ああ、ハンナ! ああ……!!」
公爵の呻き声を耳にしながら、フェリクスは天井を仰ぐ。
この場の空気が変わったのが分かったからだ。
身が引き締まるような清廉とした空気と厳粛な空気が混じり合い、どことなく澄んだ空気に包まれている。
フェリクスたちの魔術により、冷気が漂っていたが、この場を掌握するのは既にそれではなかった。
「上位……精霊?」
辺りが光に包まれ、眩さに目を抑え、再び目を開けた時には、天井付近に浮遊していた。
ブレインもそれを声も出せずに見つめているようだった。
穢れなき純白の羽根が何枚も被さって出来ているような成人男性くらいの大きさの人ならざるものが、光の中で厳かに浮かび上がっていた。
「これが、古代魔術?」
古代、精霊と人間が手を取り合って国を作っていたことの証左だった。
「っ……?」
思わずフェリクスは目元を手で塞ぐ。
──これは、なんだ。
何故だか、両目が疼いた気がした。




