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私が使う不思議の国。
それは、一定の空間に居る敵の平衡感覚や距離感覚を滅茶苦茶にしてしまう精神系統の魔術だ。
それを連続して使用しているが、膨れ上がった己の魔力はまだ尽きることはない。
公爵はその場に崩れ落ち、信用出来ない己の平衡感覚に、助けを求めるかのように手を伸ばしている。
今、あの男は自分の一歩がどれくらいなのか分からない状態で。
「レイラ様」
「ええ」
その合図に、リアム様に抱き上げられていた私は行使していた魔術の効果を弱めていく。
「う、ああああああ!!」
獣の咆哮のような公爵の叫びと共に、圧倒的な魔力が塊となってこの場で爆発するみたいに弾ける。
その威力は風圧となって、私が使っていた不思議の国の効果を消し飛ばした。
その刹那、衝撃を和らげるために防御膜を私たちの間に張り巡らせて、衝撃を防いだ。
光の魔術は、防御で圧倒的な土の魔力よりも防御の面で優れているらしい。
攻撃力、防御力、それから回復力と、全ての属性を軽々と凌駕してみせる上位互換のような魔力は、単純な防御魔術ですら堅牢なものになる。
消費魔力に気をつけて抑えていても、それなりに効果を発揮する。
「リアム様」
「了解っす」
私の不思議の国が解かれた瞬間、リアム様の得意とする隠形魔術が発動し、公爵の前から私たちの姿が掻き消える。
「どこへ行った!? ええい、先程からチョコマカと!」
公爵は癇癪を起こしながら、消えた私たちを感知しようと辺りを探り、見つからないと分かるとこの部屋の空間全てに先程と同じように圧倒的な魔力の塊を暴発させる。
それを私の防御膜が防ぎ、リアム様の隠形魔術は術式ごと吹き飛ばされる。
またもや公爵には不思議の国を発動させた。
それの繰り返し。リアム様と私は交互に魔術行使を繰り返していた。
先程から、それが何度も何度も何度も繰り返されている。
だから一度の魔力消費は最小限に抑えて発動させる。
その間、リアム様は少しでも距離を稼ごうと、私を抱きながら広い廃墟のフロアを駆けずり回っていた。
これは、時間稼ぎだ。少しでも敵の魔力を消費して、勝機を狙うための、時間稼ぎ。
フェリクス殿下とクリムゾンがここに来るまでの時間稼ぎ。
彼らが来る前に少しでも消耗させるべく、私たちが考え出した逃げるでも戦うでもない方法。
マトモに相手をしてはいけないが、放置する訳にもいかなかったのだ。
私はまだ光の魔力についてよく分かっていないため、己の魔力に頼って戦うのはリスクがあった。
それに、生贄による膨大な魔力を誇る公爵と正面から戦ってはいけない。
相手にどれくらいの戦力があるのかは未知数だ。
「ルナ」
『ご主人、このフロアは祭壇のようだ』
時間稼ぎの間、周囲を探っていたルナがリアム様と並走している。
『闇の魔術に似ているが、これは黒魔術の類で、しかもこれは降霊術の一種と見える』
ルナが先程見た光景を私の意識に接続すると、祭壇と魔法陣、それから怪しげな供物といった典型的な光景が頭の中にイメージとして伝わってきた。
腐った肉片に、金色の杯の中に並々と注がれた血液、上位精霊の降臨の魔法陣が裏表に描かれた背徳的なそれに怖気がした。
あまり口では言い表したくもない邪教らしき経典は人間の皮膚で出来ている。
『素体、と言ったな。あの男は。見る限り、魔力を極限まで高めた素体に何かを降臨させるつもりらしい。失敗して打ち捨てられた腐乱死体がそれを物語っている』
それはつまり、あの籠の中に閉じ込められた子どもたちは、降霊術で呼び出した何かの依代にされるところだったのだ。
『何回も失敗している痕跡があった。魔力が漏れた跡があることから、その都度、幼い子どもに膨大な魔力を植え付けていたように思える。何度も失敗しているが』
あの男は何をしたいのだろうか? 膨大な魔力を持つ子どもが降霊術に必要?
だから、魔力を植え付ける実験を繰り返していた?子どもを試す前に大人を使って、実験して。その実験体を確保するためにクリムゾンに集めさせて。
そして、膨大な魔力を集めるために、人工魔獣に魔力を食わせたりもした。
全ては、最高の魔力を持った素体をつくるため?
何を降霊させる気だったの?
闇の魔術と黒魔術はイメージは似ているが、その性質は大きく違う。
闇の魔力は主に精神系統や、それから無形、無物質などを司っている、と言われている。
黒魔術は、禁忌とされた全ての理から逸脱した呪いや瘴気を司っているもので、どの属性にも属さないもの。
呪いは、結局のところは呪いでしかなくて、私たちの手に余るものだ。
手に余るから、何が起こるか分からないし、結果は思い通りにいかず、ほとんどその原理は解明されていない。知られているのは瘴気によるものだということだけ。
つまり、呪いとは、魔術とは違う次元にあるものなのだ。
呪いに、火・水・風・土・闇の属性は干渉出来ないのだ。おそらく、光の魔術もだろう。
ただ、治癒系統の魔術だけは呪いに干渉出来る。
光と闇の魔力から生み出される治癒の力は、形なきもの。こちらも詳しい原理は解明されていない。
私が思うに、治癒系統の魔術は他の形ある属性とは一線を画した原理によって働いている力だと思うのだ。
光と闇は、この世界を形作るものなのだから。
治癒は修復と似ている。
「あの女、ここに連れて来れば良かったか……。あの場で囮なんかにしなければ良かった。今、この瞬間、使い物になったかもしれないのに」
公爵は毒づいた。
あの女?
リーリエ=ジュエルムのことだろうか?
そもそも公爵は何故、リーリエ=ジュエルムと組むことが出来たのだろう?
あの時、リーリエ=ジュエルムは完全に陽動として使われていたが、彼の口ぶりだと切り捨てられたように聞こえた。
再び、公爵がリアム様の魔術を吹き飛ばして、私が不思議の国で動きを止める。
攻守切り替え戦法は少しは有効だろうか?
「あああああ、魔力が……無駄になってしまう……!!」
公爵の目は血走っていて、その場に膝をつき、またもや手を迷子のように伸ばしている。
まさにエンドレス。
そもそも公爵はどこに魔力を溜め込んでいるのだろうか?
これはいつまで続くのだろう。
公爵がまたもや魔力を暴発させようとして、リアム様の隠形魔術が吹き飛ばされる。
「ここで、一気に決めてやろう!」
認識された瞬間、床がぼこりと動き上がった。
廃墟の床から何かが抽出されるように、巨大な土人形と石人形が多数生成されようとした瞬間。
「何!?」
公爵が声を上げる。
足元がピキピキと氷で覆われていく。盛り上がったはずの床が押し戻されていく。
雑然とした廃墟のような床も、大樹の幹の部分まで、分厚い氷が覆っていく。
このフロアの壁も何もかもが氷で覆われ、物質物体全てが澄んだ宝石のように薄暗い中、魔力で発光していく。
フロアの中を満たす冷気。
息をする度に冷たい空気が肺へと侵入した。
「この氷、この光、この魔力は……」
ドゴン!、と下から何かが衝突するような音と共に、大樹の傍に氷の粒子が煙幕を張った。
そこには二つの人影。
「っ……最悪だ。ゾワゾワする!! 気持ち悪い、気配が近くて本当! 嫌になる! 吐き気がする! 怖気がする! 見てくれ、この鳥肌を」
「それはこっちの台詞ですよ。この世で最もくたばって欲しい男と、何故こんな魔力融合なんかしなきゃならないのか。自分の身のうちを走っていくこの感触。全身を蛆虫にでも這い回られているかのような不快感!」
「お前が契約魔術をかけられているとかで、公爵に魔術を使えないとか言ったからだろう。私は有効な手立てを考えただけだ」
「そうですね、それは分かっていますが。ああ……気持ち悪い。本当に気色悪い!! もう、さっさと手を離しましょうか」
バシッと盛大な音。
どこかで聞いたことのある声がお互いを罵りあっていた。
氷の煙が晴れた後、そこに居る姿はよく見知ったもので。
「あれは、フェリクス殿下とブレイン様?」
ぽつりと呟いて。
何故か、このフロアが氷で覆われた瞬間、公爵の膨大な魔力の発動が消えていた。
「え?」
「え?」
『ほう』
私とリアム様は、声を揃えて唖然として。
ルナは、感心したような声を上げていた。
「ルナ、知ってるの?」
『あれは、王家に伝わると言われている魔力融合だ。大方、王太子の氷魔術と紅の男が使っている魔力を封じるとかいう魔術の合わせ技だろう。見た限りだと、あの氷で覆われている部分は魔力が通らなくなっている』
つまり、この部屋にある冷気と氷のおかげで公爵の魔力行使が抑制されている?
だけど、私が使っている防御膜はそのままだし、リアム様の隠形魔術もそのままだ。
もしかして、味方以外の魔力を通さないようにしている?
クリムゾンなら、それくらいの調整が出来そうだ。
公爵がポカンと口を開けて、その光景を唖然と見ていた。
「これは、形勢逆転っすかね?」
リアム様の口元がニヤリと笑みを浮かべた。




