18
フェリクス殿下に手を掴まれ、廊下を大人しく連行されていく。
何故こうなったのだろう?
殿下はさっきから一言も口を利かないし、手首を掴む力が強くて若干痛い。
「あの、殿下。どこへ?」
「良いから」
「私、何かお気に障ることを……してしまったのでしょうか?」
何て問いかければ良いのか分からず、珍しく私の声は震えていた。
「怒ってない」
いやいや! 怒ってますって!!
無機質な物言いが物凄く怖いし、さっきからこちらをチラリとも振り返らないし。
だんだん人通りが少なくなり、薄暗い廊下の奥へと連れて行かれているのも非常に恐ろしい。
不敬で罰されるのか、これがゲーム補正というものなのか。
でも、ヒロインのライバルっぽいポジションだし、そこまで引っ掻き回している訳じゃないのにな。死ぬけど。ほとんどのルートで死ぬけど。
あまり人が居ない奥へと連れ込むのはどうかと思ったのか、殿下は急に足を止めた。
「え?」
トン、と背中が高級な壁紙に押し付けられ、殿下の腕の中に、気付けば囲まれる形になっていた。
何て恐ろしい壁ドンだろうか。
見下ろす碧の目は少し不機嫌そうで、トキメキとかそういうドキドキではなく、私は無事に明日を迎えられるのかそっちの方が不安になってくるドキドキだ。
何故、こんなにも不機嫌なのかと思っていたら、殿下は無表情のまま、私に問いかけた。
「あの男は誰?」
「はい? もしかして、ルナのことですか?」
「ルナという名前なのか。さっきの黒髪でくせっ毛の男は。レイラ嬢……いや、レイラって呼ぶと決めたんだった。……レイラとすごく仲が良さそうだった。貴女があんなに砕けた口調で話すのを初めて聞いた」
何故、そんなことを質問されるのか分からなかった。
記憶は私が消してしまったから、彼に恋をされている訳ではないはずなのに、こんなのまるで嫉妬みたいだ。
何て答えるのが正解なのだろう?
当たり障りなく無難な答えとしては……。
「私の家の使用人です」
これが一番だろう。
「使用人? それにしては、仲が良すぎる。あんなに笑顔を向けて、親しそうにしていたのに? 距離感も近すぎると思うんだけど?」
「そうですか? 普通だと思うのですが……」
「あれが普通? 昔からの使用人なら、気安いのも分かるけど。貴女は少々無防備なのでは? いくら知っている人間だからって、令嬢である貴女があそこまで距離を詰めていたら、誤解されて襲われることもある」
「……相手がルナだから気を抜いていただけです。一応私も幼い頃から教育は受けておりますので、男性とは一定の距離を置くのは当たり前です」
「相手があの男だから?」
何故、先程よりも険しい顔つきなの!?
過保護モード全開で、壁ドンしたまま説教されているこの状況。
白熱しているのは分かるけど、距離が近いのは貴方もですよと物凄く言いたい。
物凄く指摘したいが、さすがの私もそれが火に油を注ぐと分かっているので、神妙に頷くしかなかった。
殿下は大人と子どもの境目であるお年頃とは思えない程、大人っぽいせいで、まるで年上の男性に迫られているような感覚で。
こんなこと考えているって知られたら完全に失礼すぎるけれど。
「……ん?」
壁に押し付けて説教のような何かが繰り広げられている最中、ふと殿下は顔を上げた。
チラリと殿下の視線の先を追って見て、どこか見覚えのあるピンクブロンドの女生徒が廊下を走ってこちらに向かってくるのを見た。
遠くから走ってくるシルエット。目は良いので誰だか分かったのもあるけれど、こんな静かすぎる空間で一人走っていると、さすがに気付く。
あれ、リーリエ様じゃない?
我らがヒロインは、困っている時にいつも現れてくれる。
内心、この状況から救われると期待していたのだが、殿下の動きも俊敏だった。
私の許可をとる間もなく、すぐ目の前の空き部屋に入って、後ろの方の掃除用具入れの中に入ると、なんと私まで引きずり込もうとする。
第一王子が、掃除用具入れの中。そこそこ広く二人は入れるくらいの大きさだが、掃除用具入れは掃除用具入れ。
なかなかシュールなシチュエーションだが、どうやら彼はリーリエ様に見つかりたくなかったらしい。
「ちょっ、殿下。何故隠れるのですか!?」
「なんとなく」
「待ってください!」
「しっ。気付かれるから」
とっさに私が黙ると、腕をぐいっと引っ張られる。
「待っ──」
強引に掃除用具入れの中へと引きずり込まれ、ぐっと抱き込まれた。
抵抗しようとした弾みに、カシャンと音を立てて眼鏡が床に落ちる。
それを拾う間もなく、慌てて閉められて気付けば閉所の暗闇の中。
待って! 眼鏡!
素顔が落ち着かなくて若干パニックになった。
「やっ……!」
「レイラ、落ち着い──」
二人して顔を合わせようとしたのが悪かったのかもしれない。
私は慌てて顔を上げて、そして。
何か柔らかくて、しっとりとしたものが唇に当てられていた。
生暖かい人の肌の感触と、湿った息。
殿下と私の口元がしっかりと合わさっている時点で何が起こったか分かった。
事故が起こった。
「……っ」
「……」
お互いに息を飲んで固まって、唇を合わせたまま動けなかった。
お互い、遠慮がちに呼吸をしながらも暗いのと近すぎるのもあって表情は分かりにくい。
空き部屋を開ける音と共に誰かが入ってくる気配を感じたせいだ。
非常にまずい状況だと頭の中で警報が鳴っている。
ドクンドクン、と心臓が嫌な音を立てているし、抱き込まれたままのこの状況にも危機感を覚えていたのに、私たちは動けなかった。
「今、誰かこの部屋に入っていったような気がしたんだけどなー?」
「……ぁっ…」
リーリエ様の無邪気な声に体が震えてしまい、殿下は何故かぎゅっと私の背中を抱き寄せる。
「うーん。今日はフェリクス様も居ないし、ハロルド様も居ないしつまんないよ。どうしよう? 私、抜け出して来ちゃったのになー」
どうやらローテーションか何かで護衛をしているらしく、フェリクス殿下たちに会いたいがために抜け出したらしい。
それはまずいのでは?
殿下も呆れているのか、溜息が唇越しに伝わってくる。
やめて! 息が……なんかすごくやらしい感じがする!
「さすがにこんな奥には居ないよね。つまんないなあ……」
とりあえず楽しいとかつまんないとか、そういう基準で行動してはいけないのではないだろうかと至極真っ当なことを私は思った。
半ば現実逃避なのは知ってる。
「んんー? 医務室に居たりしないかな?」
当たりと言えば当たりである。
たたたっと軽やかに去っていくリーリエ様の足音と、ドアが閉まる音。
やっと行ってくれた!
「……」
「…………」
顎をずらして、重なっていた唇をそっと離す。
「ごめん……」
「い、いえ。お互い様ですから……」
ふと脳裏に過ぎっていく記憶。
そういえばフェリクス殿下ルートでは、事故チュー回があったのだ。
似たようなシチュエーション。フェリクス殿下とリーリエ様が話している最中に、他の攻略対象が向こうから来るのを発見した殿下は、二人きりで居たいと無意識に思ったのか、空き部屋の掃除用具入れに思わず彼女を引きずり込んで二人で隠れるのだ。
動機や相手が違うとはいえ、似たような展開。
まさか、これでリーリエ様とフラグ立たないとか言わない? ……いや、まさか、私が掻き回してる?
頭の中に過ぎっていく予測。冷静さな部分は残っているが、私は内心パニック状態に陥っていた。
先程とはまた違った意味で心臓がバクバクと煩いのだ。
「レイラ」
「っ……!」
恥ずかしそうに私を呼ぶ殿下の声は、同時に戸惑いの色もあった。
そりゃあそうだ。好きでもない人とキスをするのは二次元でなら良いとしても、現実ではお互いに困る。
私だって、初めてのキスだったのだ。動揺くらいはしている。
ゲームの中だと事故チュー後、甘酸っぱい二人のシーンが挿入されており、そこから二人は意識をし始める。
このシーンはプレイヤーたちにたくさんのトキメキを与えてくれたが、現実はそう簡単ではない。
王族の唇を奪うとか、何たる不敬! 事故とはいえ、これは……これは。
違う意味で震えそうだ。
殿下に婚約者が居なくて本当に良かった!
「私、気にしませんので! 今あったことは、お互いに忘れましょう!」
「レイラ!? ちょっと待っ──」
それだけ言い逃げした私は、殿下が引き止めるのも振り切り、弾かれるようにして掃除用具入れから飛び出して、そのまま逃げ出した。
殿下を置き去りにして、眼鏡を拾うのも忘れていたけれども、淑女らしさを忘れることはしたくなかったので、廊下は走らずにあくまでも競歩で逃げ出した。
医務室付近の廊下へと到着した折、私は壁に手をついて項垂れた。
「も、もう勘弁して……」
先程まで触れ合っていた唇を指先でそっと撫でながら、今更ながらに恥ずかしくなってくる。
──キスってあんな感触なんだ……。
前世では色々あって、そういう経験は皆無だったため、私にとっては本当に初めての経験。
嬉しくはないけど。
乙女ゲームなのは分かってはいたけれど、そんなテンプレな展開は願い下げだった。
「あっ! 眼鏡!」
置き去りにして来たことに私はこの時に気付いた。




