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光が収束して、血と埃の匂いが鼻につく。
サンチェスター公爵の空間転移の術式に巻き込まれ、私たちは見知らぬ場所へと放り出された。
そこそこ広いが、そこは家具もなければ人もいない無機質な空間だった。
廃墟のような灰色の壁。灰色の床には複数の血痕。
鉄格子のような窓から入り込んだ砂利。
窓を覗く限り、ここが三階か四階に位置することが分かった。
窓の外は鬱蒼と茂る森。王都とは程遠い景色。
一応、抵抗はした。
転移魔術の術式に抗い、転移先の座標を少しズラすことは成功したのだ。
サンチェスター公爵と共に転移先に放り出されなかっただけでも、まだマシだった。
「くっ……」
「リアム様!」
ポタリと新しい血が床に数滴落ちていく。
リアム様の体はズタボロと言っても過言ではない程で、裂傷が無数に刻まれている。
全身が血塗れで、私はすぐにポーチから回復薬を取り出した。
「リアム様、これを飲んでください。気休めにしかならないかもしれませんが、今から治癒魔術を使いますので」
「レイラ……様。迷惑をかけて、すみませ……」
壁側に沿うようにサッと清潔な布を床に敷くと、リアム様は壁に背を預けるようにして布の上に腰を下ろした。
消毒液で手を清潔にしてから、身体中の傷を診る。
流血は酷いが、骨や筋は問題なさそうで少し安心した。
音声魔術もこの後に使ってみようと思いつつ、いつものように治癒魔術を使うことにする。
ルナが影の中から現れ、私の横に寄り添った。
『ご主人も薄々分かっているとは思うが、この周辺には人気が全くないぞ。ご主人は運が良い』
どうやら索敵をしてくれていたらしい。
少し微笑みながらルナに頷く。
リアム様の腕の深い傷に障らないように指先を這わせる。
患部に触れる度に指先が眩く光り、光の粒子が辺りに散っていく。
「え?」
治癒魔術を使う時に、こんな反応は初めてだった。
気休めにしかならないと思っていたのに、見る見るうちに身体中の傷口が塞がっていく。
元々何事もなかったかのように周囲と見分けがつかなくなったそれを目の当たりにして、私は目を丸くした。
驚異の回復力だった。
それはまるで人ならざる者の使う魔法。人の手で起こし得ない奇跡のような光景。
「治癒魔術ってこんなに急速に傷が塞がるものではないはず……」
『ご主人は今、光の魔力の持ち主だ。光の魔力は特に治癒魔術の扱いに長けている。そう驚くことでもない』
「あっ……そうだ……。光の魔力……」
衝撃的な展開が立て続けにあったせいで、そんな簡単なことにも一瞬気付かなかった。
闇の魔力の時に使っていた治癒魔術は、ここまで劇的な効果など発揮しなかった。
闇の魔力で行う治癒魔術は、一時的処置のようなもの。完全に治すことは出来ず、重きを置かれるのは傷を消毒することや血を止めること、傷口を軽く塞ぐこと。
それなのに、光の魔力で治癒魔術を使うと、今までの感覚とはまるきり違う。
ほんの少し魔力を通しただけなのに、そこまで魔力を消費していないというのに。
これは確かに医療現場では問題になる。
こんなにも簡単に治せてしまうなら、医者など必要ではなくなってしまう。
医療従事者たちの間で光の魔力の持ち主について騒がれていた理由を今更ながらに実感した。
今は良いとして、人の前で表立って行使するには、過ぎた力だ。
「……あれ? 体の痛みが消えたっす」
体をコキコキと鳴らしつつ、彼は立ち上がって何故かバック転をし始めた。
「おお、むしろいつもより調子が良い! ありがとうございます! レイラ様」
彼は血だらけになってしまった私の体のそれを魔術で綺麗にしてくれた。
何故か、自分の服の血しぶきはそのままだったけれど。
「俺は気にしないんで。なんか面倒だし、良いかなって」
彼は朗らかに笑っている。
魔術を使う前の、声が消え入りそうだったリアム様を知っているだけに、安堵から体の力が少し抜けた。
持っていた薬瓶を落としかけたが、近くに居るルナが空中でそれを咥えてキャッチして、それを敷かれた布の上に置いた。
ナイスキャッチである。
「ありがと、ルナ」
『早くここから脱出を考えねばな』
改めて窓の外を見て、ここがどこだか分からない。
鬱蒼とした森の中、遠くに見えるのは山脈の一部だろうか。白く雪が降り積もっている。
ここからだと山脈が三つ折り重なっているように見える。
そして、山脈に立てられた雪崩防止用の術式が施された宿泊施設付きの塔が見える。
『ご主人。この辺り一帯には結界が張られている。それも魔術を弾き返すものだ。残念だが念話は使えないだろう』
フェリクス殿下なら、最小限の魔力で行使出来るかもしれないけれど、私には無理だ。
途中で術式が弾き飛ばされるのは目に見えていた。
「……」
連絡手段はまず失われた。
「先程から手紙を魔術で送ってみようと試みているんすけど、やっぱ結界に弾き飛ばされますね」
リアム様の手には先程から送っていたらしい手紙が黒焦げになって戻ってきていた。
どうしたものかと思っていた折、ふと指に嵌めていたフェリクス殿下とお揃いの指輪が目に入った。
私が加工して作ったお手製の魔術具。
そういえばと思い出す。
音声で会話出来るが、ある意味では単純なつくりなので、微弱な魔力しか発しないこの魔術具。
普段は念話を使うことが多いからあまり使われることはなかったはずのそれ。
もし何かあった時のためという理由で作ったが、もしかしたら、これならば魔力を感知されずに連絡を取れるかもしれない。
幻想的にきらめく石に手を触れる。
何もかも手遅れになる前に連絡を取りたかったし、一刻も早く無事を知らせたかった。
慌ててはいけない。
まずやるのは、連絡手段。
それから情報収集。
「フェリクス殿下。聞こえますか? レイラです。今日、指輪を身につけてくださっていれば良いのですが……」
いつも付けてくださっていたはず。
ならば今、この時もそうだと信じたい。
「あ、それは大丈夫っす。うちの殿下、時々お揃いの指輪を眺めて一人でニヤニヤしていたんで」
『言い方』
ボソッとルナが突っ込みを入れたので少し場の空気が緩んだ。
そして微弱な魔力が結界に感知されないことを祈りながら何度か声をかける。
この魔術具、距離が開けば開くほど精度が落ちるのだ。
しばらく声をかけ続れば、その瞬間が訪れた。
「……っ、レイラ!!」
フェリクス殿下の声は切羽詰まっていて、僅かに掠れていた。
かなり慌てていたのか、若干息遣いが乱れている。
「繋がった!!」
連絡手段は確保。
状況は最悪だったが、一縷の希望が示された瞬間だった。




